硝子の方舟 公演情報 形態ZERO「硝子の方舟」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    どこからきて どこへゆくのか 生きる意味は?
     何故、明るさや豊かさがこれ程哀しいのか? 我らは何処から来て、何処へ行くのか? 我らの生きる意味は? そも、意味など我らが生き続ける為に編み出した虚妄に過ぎないのではないか? 

    ネタバレBOX

     余程愚かでない限り、ヒトたる者これらの自問を必ず経験して来たであろう。答えが出せないと、大抵ヒトは、追求することをではなく、問うことを止めてしまう。そして、何も無かったかのように、日常に埋もれてしまうのだ。然し、ここに問いを立てた者が居た。
     女は、彼との暮らしには何かが足りないと思い、男は、彼女を引き止められなかった理由を問うた。同じ屋根の下で、同じ時を過ごし、魂だけがこんなにも離れていた。問いは、残酷にもその理由を問うたのであった。
     いつかそれは、テーゼの形をして現れた。精神を縛るものとしての肉体を否定した。そしてそれは否定したまま、身体を持つ理由、即ち行為への関与については、口と頭を閉ざした。実際には、肉体を抱えたまま、それは出家という形を採らせ、修行という名の罠を伴わせた。
     実際、行われたことは、密室での洗脳であった。グルの沸騰の論理を、愚かな秀才達は、自分達に飛び越えられなかった壁を易々と越える高翔と見た。グルは、狡猾にも、既にこの時点で、己のオーダーに疑念を差し挟むだけの合理的・批判的精神を不純な心性として排除していた。
     この為、グルの精神の奥底に蠢いていた復讐心や世界に対する怯えが、肥大する自己肯定によって転倒。肥大し逆転した自己は、世界を滅することを正義に転化、終にテロ事件を起こすに至った。世間は殺人を含むこのテロ事件をテロであるとの報道や殺人という禍々しい報道から指弾した。
     然し、この作品のモデルになった事件は、そういった側面だけでは済まされない。何故なら、少なくとも宗教の仮面をつけているからである。無神論者の自分にとって、宗教は思想の取る一つの形である。そして、あらゆる思想は、そのオーダーを決めて仕舞った後は、唯一の展開として尖鋭化のみをそのベクトルとして本質を為し、論理のみでこれを負うならば、必ず死をものともせぬ潮流が現れる。「臨済録」でも仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、初めて解脱を得ん という表現が出てくるが、これを字義通り単純に読む愚か極まりない手合が出てくる可能性だってあるのである。まあ、臨済は無事の人に到達しようとして格闘した人だから、それが分かっていれば読み間違える気遣いは低いだろうが、零ではない。それが、ことばであり、論理であるからこそ、臨済録の中の別の個所では、言葉の限界を示してもいるのである。だが、この作品のモデルになった新興宗教のグルの到達点は、レベルの遥かに劣るものであった。出家信者達も、超越だの、肉体を滅して精神を追求するだのという初歩的な罠に掛かる程、愚かであったのも事実であろう。その点をキチンと指摘し得たシナリオである。

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    2014/04/03 05:02

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