異邦人 公演情報 東京演劇集団風「異邦人」の観てきた!クチコミとコメント

  • 青年ムルソーがもつ「知性」と太陽の灼熱
    レパートリーシアターKAZE『異邦人』は、青年ムルソーに燈る「知性」を、陪審院という言論空間を通し、大衆社会へ溶け込めえない異質なものとして扱っていた点が印象的であった。元のテーマ性通りである。
    第二幕ライトの点滅が、光と影のクロス・パズルを 床空間に現す。それは、2秒間ほどで入れ替わるが、工場の歯車が半回転するように、役者も変わるのだ。

    ネタバレBOX

    さっきまで青年ムルソーの弁護人を務めていた女性が証言台に立ったり、さっきまで陥れていた男が弁護人を務めたりする。
    これは、決して群像劇的アプローチではなく、“座る席によって造られる立場”を象徴した演出なのだろう。
    一定の時が経過すると、その歯車は動きだし、次の陪審院のシーンである。


    だが、私は多くの観客が注目しないだろう青年ムルソーの境遇を記す。
    この『異邦人』は、「母親(ママンサ)の葬儀で涙を流さなかった非情息子」を陪審員へアピールされてしまう状況下、こうした言論空間と離れ、逆に客観視する孤高=「青年の知性」を扱ったのも確かだろう。
    しかしながら、彼は「思い出があれば退屈することはない」というものの、“パノプティコン”監視システムを受け続け、1年間のうち衰弱していったはずである。そのような時間経過は、「独白」という形をとり観客へ伝えられたが、『異邦人』のメッセージを読む上でも重要な場面だったと思う。


    2013年12月17日、ロバート・キャンベル東京大学教授が「終わりから始まる物語 日本文学」と題したトーク・セッションを井深大国際ホールにて行った。
    正岡子規が死期迫るなか「日本新聞」に連載した コラム『病床六尺』の紹介があったので、そのまま引用したい。


    連載100回目「〜一日に一つとすれば百日過ぎたわけで(中略)この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人には わからんことであろう。」

    この連載について、キャンベル氏は 次のようなコメントを残した。
    「残された時間が他ならぬ自分である。煮詰まった自己意識が叩き上げられるように出てくる」


    『異邦人』の青年ムルソーは、ラストの場面になると、感情の揺れとともに より「独白」における生死への哲学観が増幅していったわけだが、正岡子規と同じく、「煮詰まった自己意識が叩きあげられたように出てくる」瞬間であったのではないか。


    EU映画に聞き覚えのあるミュージックが、その瞬間をカウントする役割を担っていた。つまり、場面ごとに「終わり」が設定され、単調なリズムのもと繰り広げれるドラマが、どうしても青年ムルソーの内面=「知性」へフォーカスするようし向けていたのだ。
    南フランスの照りつける太陽と、うごめく衆人、静かに佇む「知性」。
    アルベート・カミュは 観客にとっての「ママンサ」である。

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    2014/01/22 00:13

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