70年代のアングラ観が、広く、大きい公会堂で発揮された
「テラヤマ歌舞伎」は寒さ凍てつく中池袋公園に突如 姿を現す。百貨店のガラスの入り口にいる婦人が歩行者か、開店を待ちわびる買い物客なのか、解らぬ光景と一緒である。照らさた夜の都市公園は、たった10分間「祭り」の空間に包まれた。集いし人々はバーゲンで安い商品を購入するため 他人を押すことはない。寺山修司という怪物の面影を感じるために輪を囲む…。
「世の中を変える演劇」があえぐ相手は権力である。今年度東京国際映画祭関連シンポジウム『ーMOVIE CAMPUSー第一部『時代劇へようこそ~先ず、粋にいきましょう』で文化庁の佐伯知紀氏(文化庁文化部芸術文化課 主任芸術文化調査官)が述べておられたコメントが よぎった。つまり、戦前の歌舞伎映画は「検閲を逃れやすい。故に最もその時代性が反映された」らしい。シンポジウムのオープニングに流された時代劇映画は幕末、悪代官に立ち向かう浪人2人と百姓達を描いた<活弁付き上映>『斬人斬馬剣』(デジタル復元版)である。明らかに今この時代の政府•官僚をもじった「テラヤマ歌舞伎」は、今この時代だからこそ再び歌舞伎を持ち出さなければならない悲劇だろう。
寺山修司がカタカナの「テラヤマ」へ書き換えられ、末は「TERAYAMA」のローマ字へ変わる未来。「100年たったら見においで」というが、没後30年でカタカナ表記の男は、これからも書き換えられ続けるはず。
大人数の歌舞伎が、江戸を書き換える。大人数の歌舞伎が、幕末を書き換える。殺陣こそ 未熟であった その大人数の歌舞伎は、時代そのものを別の身体に変えてしまった。「浸る」とは こういうことを指すのか。過保護の母から離れられなかった寺山修司。主人公の青年が代わって川に棄てた。かと思いきや、母は花魁にすくってもらい、作品の中でさえも、最後まで 息子にまとわりつく。