nora(s) 公演情報 shelf「nora(s)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    犀の如く独り歩む
     演出家、矢野氏のイマージュとしては、原作を一旦、分解してfragmentsにした上で、現在・ここに絡めて本質だけを再構成するという手法だ。それだけに緊迫感もあり、説得力もある。

    ネタバレBOX

     韓国から来ている女優のハングルで開始された科白は、日本の女優の翻訳兼日本語に拠る掛け合いで重ね合わされ、初めて聞く、美しく身体化された言語の響き合いとして立ち現れる。ここでいう身体化された言語とは、肉体に言霊が、憑依することではない。寧ろ、溜めを作った上で、肉体そのものでも言語そのものでもない新たな次元に属する表現として、立ち現れた関係性を獲得した“実体”だ。
     実に、微妙で純粋な、謂わば太初の光だけで編まれた詩的実存とでも言ったらいいだろうか。こんな表現ができるのは、演出家が、既成の衣(習慣・風習・既存価値・概念等)を脱ぎ捨てることのできる役者だけを選んでいることと大いに関係がある。
     それは、冒頭述べた通り、古典を含め、評価の定まった作品を今、上演するに当たって、脚本家・演出家が先ず最初に考えるべき問題であろう。評価の定まった作品というものは、決して固定化されているということではない。常に新たな発見があるということである。つまり、その作品と出会う者にとって常に格闘の対象として立ち上がってくる“実体”なのである。そのような“実体”を演劇という媒体で表現する時、採り得べき形の一つが、それも有力な形の一つが、今回のような形であることを評者は信じる。なぜならば、この表現に斬新さが在るからである。この斬新さこそ、この作品創造に当たって、作る側の皆が、原型と格闘した証であるのだから。
     結果、今作は、現在、我々が此処で生き、暮らしている日常性そのものに対する鋭い問い掛けとして立ち上がって来た。多くの者が、現在、ここで、仮死或いは居眠り半分の意識しか持っていないように見える。政府、マスコミの情報操作を見抜けないことによる洗脳を意識することもない、体たらくである。謂わば、訓致されることに馴らされ、家畜として生かされていることに対する問題意識を失くせば失くすほどこの問題提起は、遠く見える。然し、眠りに就いた者も、ヴィヴィッドに生きていたいなら、目覚めなければならない。そして目覚める以上、よりよく生きたいではないか? その時、我々自身の価値基準・判断基準の根底を何処に置くのか? 
     ノラは、所謂、近代的自我が、社会の中で個人をアイデンティファイする際、目指すべき出発点を示した。そして、今作は、イプセンを借りて、再度、その切実な問いを発している。その問いに応えるのは我々自身の責務である。演劇という媒体であるから評者のいうような直接話法ではない。解釈は自由である。ただ、観る側も精神を裸にして相対すべき作品であることは確かだろう。

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    2013/10/29 14:59

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