新美南吉の日記 1931-1935 公演情報 オクムラ宅「新美南吉の日記 1931-1935」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「外」から「内」へと観客を引き込む話法が鮮やか
    新美南吉生誕100年だそうだ。

    再演。
    初演も観ている。
    土間の家という、民家を簡単なギャラリーのようにした会場で上演された。

    そこに、奥村拓さんの南吉、根岸絵美さんの南吉、西村誠太さんの南吉、中野あきさんの南吉、今野太郎さんの南吉、観客の南吉が現れる。

    ネタバレBOX

    10代後半の、自意識過剰で傷つきやすく、妄想しがちな青年の日記である。
    本来は見てはいけないものだが、日記というのは誰かに読んでもらいたいという欲求も、どこかにあるのだろう。

    彼の心象が(たぶん)事実とは異なり、ねじ曲げられて日記には書かれているようだ。
    もっとも、「事実」とは何かと言えば、自分自身が感じたことにほかならず、彼の日記もまた「彼にとっての事実」であろう。

    新美南吉の日記が役者によって語られ、この作品の作者の解釈や感想が差し挟まる前半部から、南吉の日記とそれに対する恋人M子の反応という形にいつの間にか移行していく手腕は見事だ。

    M子の反応は、あくまでM子側だけのものであり、南吉との「対話」ではない。
    そして、M子の反応は、この作品の作者・奥村拓さんの創作であろうから、実は前半部の構造と同じであるのにもかかわらず、前半と後半の遠近感が出て、ゆるやかに後半部に観客は運ばれて、物語の中へと近づくのだ。


    初演を見ているのだが、見終わった感想については、まったく前回と同じなので少し自分でも驚いた。
    前回の感想↓

    http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=165688#divulge

    初演との違いはいくつか見られた。
    しかし、それは意図されたものではないようだ。
    その日、その日によっても異なってくる部分でもあろう。
    変化の理由として一番大きいのは、役者が今野太郎さん以外は初演とは別の人ということではないだろうか。

    演出をしている奥村拓さんは、技工を凝らして演出するタイプではないと思う。
    役者の気持ちを引き出して、作品を共犯者のように作り上げるタイプではないかと思う。
    もちろん、これは想像だが、稽古ではダメ出しをすることはないように感じる。
    役者が違えば作品の印象が大きく異なるのは当然だが、たぶん奥村拓さんは「役」の「型」にはめることはないので−−今回で言えば、南吉やM子という登場人物の設定に−−その役者近づけることをしてないような気がする。

    つまり、役者の身体・感情のほうに作品を引っ張っていくように感じたのだ。
    そこでは、奥村拓さんの南吉ではなく、根岸絵美さんの南吉、西村誠太さんの南吉、中野あきさんの南吉、今野太郎さんの南吉が登場するわけだ。

    だから、役者の感情の込め方、感情の表し方が初演とは違っていた。
    今回は、後半にいくに従い、よりエモーショナルになっていったと思う。
    特にエンディングの根岸絵美さんが演じたM子は、台詞の息づかいが会場の外の騒音すらシャットアウトしてしまうような美しさと哀しさがあった。

    このエンディングを考えると、初演のときにも書いたが、要所要所でいきなり大声を上げて激するのは、会場のサイズからいっても流れからいっても、あまり良くは感じない。
    大声を出さなくても、激した感情は表現できると思うし、なんか違うと思うのだ。
    そういう意味で、「作られた」印象の多いシーンは、少し興醒めしてしまう。例えば、フリスクのシーン。もの凄い違和感を感じてしまった。

    ラストの窓を開けて見えるシーンは、やっぱり好きだな。


    23区内には「民家園」という名称で古民家を残している場所がいつくもある。
    区と協同して、そういう場所で上演できないだろうか。
    土間の家は残念ながら演技するスペースが小さすぎる。
    もっとロケーションのいいところがあるように思えるのだが。

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    2013/10/27 14:54

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