熱海殺人事件 公演情報 47ENGINE「熱海殺人事件」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    つか演劇とは何か?
     ご存じ熱海殺人事件であるが、本当に諸君は、熱海殺人事件をご存じだろうか? こんなことを言うのも、無論、つか こうへいの作品には、基本的に台本が無いからである。前にも書いたが、彼は演劇の一回性を非常に意識した人であった。同じ物は、二度と演じられない。厳密に言えば、そうなのだ。その時の役者の体調、観客のレスポンス、トラブルなどの有無、事故の可能性、演出家の気分、ハプニング、科白や音だしのきっかけのトチリ等々、違ってしまう要素は無限にある。だから彼は、毎回、本番中であっても練習時間を長くとり、口立てなどという手間の掛かることをして、日々作品がより役者に合うように作り変えていったのである。だから、厳密には、まるっきり同じ舞台は存在していないのだ。
     今作も、かなり初期のバージョンを基に、それだけでは現在分かり難いと判断して、後期のバージョンをミックスして構成してある。従って、他のどこもやっていない形になっている。つかの作品は、だが、このような可能性を一定の条件つきで可能にする。
     では、その条件とは何か? 既に作家が鬼籍に入ってしまった以上、その答えは作品の中に求める他にあるまい。ズバリ、それは、役者の存在である。そう言い切ってしまって間違いないだろう。つか作品の特徴は、あの叩きつけるような、科白のシャワーである。そのパワーである。チャイコフスキーの大音響の只中、科白が聞こえようが、聞こえまいが口角泡を飛ばしてまくしたてる速射砲のような科白のシャワーで役者は己の存在そのものを舞台に観客に叩きつけてくる。その存在の熱さ、厚み、体重の総てを掛けて、観客に訴えてくるのだ。人間という生き物の持つ温かさ、ぬくもりを。これが、つか演劇の本質、魅力である。つか本人が、居た間は、つかが口立てという方法でそうなるように実践していたわけである。然し、彼が鬼籍に入ってしまった以上、このような、メッセージを伝える為に作家がやっていたことを引き継がなければならないのは、演出家だろう。その意味で演出家の役割は極めて大きいと言わねばならぬ。
     で、今回、結果としてそれが、為せていたか、ということであるが、かなり良い線迄行っていると判断した。本質を掴み、つか自身が持っていた温かくデリケートなメンタリティーまで表現できていたように思う。更なる高みを目指す為には、役者は、プロの技術を一旦、捨てる覚悟で舞台に臨む必要があるように思う。ミロやある時期のピカソが、子供のような絵を目指したように。彼らの絵は、プロとしての絵は、頗る早い段階で完成の域に達していた。その上で、子供のような絵を目指し、本当にそのような絵を描く為に生涯を費やした。そのような意味に於いて。

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    2013/10/04 08:14

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