鉄の時代 公演情報 劇団霞座「鉄の時代」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    詩と演劇
     「言葉なんか覚えるんじゃなかった」田村隆一の鮮烈な一行をベースにした科白は、群衆の中の孤独、孤立を表現したBaudelaireを彷彿とさせ、今作の主要トーンであるモノローグとダイアローグの間にある虚空のようなものを巧みに表現した。冒頭、列車が構内に滑り込む轟音が、それ迄流れていた川のせせらぎと小鳥の鳴き声を圧殺してゆく場面は、圧巻である。当然、その時、俳優達は浮遊したような感覚の歩きぶりを、舞台上でしているのだ。(2013.8.19追記)

    ネタバレBOX

     さて、物語の主題に入ろう。例えば1人の少女である。彼女の母は、離婚した。彼女は、トラウマを抱えた。学校帰りの母の部屋、彷徨の中で観る白日夢には、離婚の背景に見知らぬ男の気配を感じる。疑念は、彼女を蝕み孤絶感を増幅した。やがて不信感は人間全体に広がる。と其処へ、盛り上がり壁のような海が襲いかかる。彼女は、母を求める。母は、優しく抱きとめ深い安らぎを与えてくれた。6番線から出掛けようとする彼女に、駅員は、応える。「この駅に6番線は無いよ」
     「物語は、迫害されねばなりません」繰り返されるフレーズを発するのは、1人の男である。詩人と言っても良かろう。少女の孤絶に応えようとするかのように、彼の深い孤独は反応する。「言葉なんか覚えるんじゃなかった」この鮮烈な一行の照り返しはこのような情況の中で用いられる。詩人と少女を繋ぐ深い孤絶感は、世界に対する深い失望、不信感でもある。そして、自己を映す鏡である世界をその深い不信感によって傷つけられた若く孤独な魂は、己の未完成な魂そのものを蝕んでゆく。そうせざるを得ないのだ。何故なら、若者とは即ち恐るべき老人だからである。そして、その意味する所は、世界を解釈する為の教育を受け、オリジナリティーを未だ持たぬ、ということである。即ち、総てが引用でしかないのだ。詰り、歴史の最も遅れた部分に位置するのであり、前を見ても後ろを見ても過去しか持たぬのである。そのような存在を老人と定義している以上、若者は恐るべき老人である。理論は、かように結論を導く。
     若くして表現する者となった才能は、必ずこの道を通る。だから物語は迫害されねばならないのだ。才能ある若者が、内在的な論理に従って至りついた結論は、最も逆説的なものであった。この逆説を超える為には、肯定してはならない。否定することでi²=-1を演繹せねばならないのだ。
     また若くして表現者となった才能を襲うこの根本的懐疑は、己を食い尽くして行く他無い。その過程を通じ、皮以外の総てを食い尽した時、表現する若い才能の最後の殻を突き崩すものとして、物語の迫害というコンセプトが執拗に繰り返されるのである。従って、この強制は、脱皮の内的声の反映であって、権威や権力による強制でないことに留意する必要がある。自分が彼に才能を認めるのは、このような局面で、内的打破の力を持ち、その必要を感じ、邁進しているからである。

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    2013/08/11 11:38

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