サロメ 公演情報 虹創旅団「サロメ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「神は善なるものと同様に,悪なるものの中にさえ存在する。」
    オスカー・ワイルド作『サロメ』になって,それまでのサロメと決定的にちがう点は何か。それは,それまでのサロメ像は,母親のいいなりの小娘であったが,ワイルドのサロメには意思がある。一人の女としてのあふれんばかりの,欲望がある。それは,自然なものであって,押し殺そうとしても,隠そうとしても,結局はどこかで爆発するのである。

    そういう意味で,貞淑な女などどこにもいないのだ。芸術家にとって,この奔放なサロメ像が魅力的であったのだ。最後で,あっけなく,サロメは殺されてしまう。しばらく監禁でもされて,後日放免という軽い処分もあったであろう。そもそも王が,悪いのだ。すけべ心を起こして,裸同然で小娘が踊るのをにやけて眺めたかっただけだから。結果的に,王は墓穴を掘った。いくらヨカナーンが,うるさい正論を述べても王位を奪う力はない。しかし,イエスの弟子でもあるものを,さほどの罪もないのに,単にのぼせあがった小娘の機嫌を損ねたという理由で命まで奪うのは後味も悪いのだ。

    エロチックに踊る女は,みなサロメとみなされる。女性解放の象徴に祭りあげられる。 一人のありふれた純真な女性こそが,無邪気であるがゆえに,残酷さもあわせもっているのか。新訳聖書に出て来る小娘は,もしかして,まだ子どもだったかもしれないのだ。そういえば,反復の多いたどたどしい子どもならではの会話がならんでいる。

    美しい処女,サロメの残忍性,それを,文学では,散文にすべきか,詩にすべきか,はたまた,演劇にすべきか,ワイルドは悩んだ。というわけで,サロメは,演劇のかたちは取っているが,ある部分小説的であり,詩的であるのだ。

    「神は善なるものと同様に,悪なるものの中にさえ存在する。」これは,マクベスで魔女が呪文で,きれいは汚い,汚いはきれい,と似たような文章である。ということは,魔女の呪文は,そのような聖書の世界から導かれたものなのかもしれないということになろうか。

    ユダヤの預言者ヨカナーンと,ヘビライ語でいうと,これは,旧約聖書の世界になり,イエス・キリストの先駆者的な意味になるだろう。ヨカナーンは,神の国を絶対視する。善と悪の二元論を貫こうとする。

    参考文献:光文社『サロメ』田中裕介解説

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    2013/06/24 18:47

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