リスボン@ペソア 公演情報 重力/Note「リスボン@ペソア」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    特異性を良く表現
     序盤で、種子島への鉄砲伝来以来、日本人には余り馴染みの無いポルトガルについての説明が為されるが、この辺りは親切な導入と言えよう。

    ネタバレBOX

     日本では、Pessoa自身を知る人も多くあるまい。かく言う自分も初めて知った。存在の中枢を降りてゆくことによって、彼は、その中心に空虚のあることを悟ったのではないか、と感じる。その意味でハイデガーに近いのではないか、と。生没年を調べてみると、ぺソアの方が、1年早く生まれている。但し、没年は、ハイデガーの1976年に対して、ペソアは1935年である。
     一方、ハイデガーの生まれたドイツは第一次世界大戦に敗れ1918年には、大変な精神的危機に陥っていた。その深刻さは1945年を凌ぐと言われる。
     他方、ペソアの生まれたポルトガルは、大航海時代の先鞭をつけておきながら、対スペイン戦争で敗れて以来、その栄華は、地に落ち、リスボンでの大地震の影響もあって、国力の衰えは、誰の目にも明らかであった、と同時に栄華を極めるスペインに対する劣等感は、並大抵のものではない。それが、現在迄続いているのが、ポルトガルという国である。
     これらの社会的条件が、ペソア及びハイデガーの持つ精神的傾向に類似を齎していると感じられるのかも知れぬ。何れにせよ、存在をひっかきながら滑り落ちてゆくような、体験を二人とも持っていたような気がしてならないのだ。哲学者、ハイデガーが現象学的実存主義に立ったのに対し、ペソアが、多重人格とも言えそうな<異名>を多数持ったということが、逆に存在の中心への地獄下り決行の例証になるのではないか、と思われる。少なくとも、存在論の中心に居座るのは、紛れもない影、乃至は、空虚であろう。何故なら、問いを発する主体は、点に過ぎず、問われる主体は、せいぜいが関係に過ぎないからである。存在の実体は其処に無いことを存在論という言語的営為が証明してしまうのだ。一方、存在とは、ア・プリオリな実体そのものであろう。その意味ではヘーゲルの認識の方が、正しい。取りとめのないことを書いてしまった。然し、このような存在論的アプローチをしてみたくなるような、妙に懐かしい、そして地獄下りの陰影を帯びた、冥界の風景とでも言えるような不思議な世界であり、その寂しさである。
     その雰囲気を、ポリフォニックな発声や、意図的な吃音、シュールレアリスティックな感興で演じてみせた。また、工場などで用いられる運搬用パレットを壁面、天井などに張り付け、丸く作られた演技空間の音の響きなども実に面白い工夫で、ペソアの特異性を表現するのに役立っていた。演出、演技、特徴的な衣装なども面白い。また、床に所狭しと撒き散らされた紙が、ペソアの創造した<異名>そのものででもあるかのような効果を齎してもいる。

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    2013/06/16 07:21

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