ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました! 公演情報 おぼんろ「ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ジョウキゲンは,どうしてあんなに無邪気だったんだろう。
    日暮里d倉庫で,『ビョードロ:月色の森で抱きよせて』を観た。ここは,少しわかりにくい場所だった。座席についても,すべてが,オンボロだ。でも,そこでくり拡げられる世界は,実に純粋で,美しい。登場人物は,さほどいるわけではないが,ひとりひとりが個性的である。

    物語を,あれこれ説明することは,しにくい作品であって,ストーリーはあるにはあるが,それより,くり拡げられ会話の美しさ,もろさ,はかなさを感じ取るべきだと思う。ジョウキゲンがひとり女性であるが,それ以外はイケメンの男性ばかりであったからか,観客はほとんど若い女性だったようだ。そういえば,イケメンにロック・グループのような化粧もして,チラシからして,きわめて妖しげであり,印象的だ。

    ジョウキゲンは,表面的なものでなく,なにか奥深いところで,人間の心を描いているような気もする。ジョウキゲンが,生まれ,ジョウキゲンが最終的に死んでいく場面に進むにつれて,最初漠然としていた観劇意識が急にはっきりとして来る。すると,それと,ともに,涙がこみ上げて来て,理由もよくわからない感動にいたる。何か,わかる。でも,うまく説明はできない。心で感じ取るしかない。ジョウキゲンは,何だったのだろう。ジョウキゲンは,どうしてあんなに無邪気だったんだろう。

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    2013/06/02 21:25

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  • 高萩 宏(たかはぎ ひろし)は,東大演劇研を母体に,野田秀樹とともに,『夢の 遊民社』設立した人である。この人の本に出て来る事件を追っていくと,現代演劇 界の舞台裏が少しわかるような気がする。

    高萩によれば,演劇に感動するとき三つのリアクションがあるという。まず,「ぜひ,もう一度観たい!」と叫ぶ 人がいる。次に,役者をめざしていたりして,「この劇に自分が出てみたい!」 とつぶやくひとがいる。最後に,「この劇を広くひとりでも多くの人に 見てもらいたいものだ!」などと考える人がいる。

    そこで,最後に,登場するタイプが,自分のような「制作」に向いている人であ ろうと,高萩は言うのだ。実際には,彼は,演出家になりたくて,演劇をやって 来たひとで,当初は,雑用のような「制作」に興味が持てなかった。野田秀樹 と組み,野田が演出の部分を一手に引き受けるうちに,仕方なく「制作」に向か っていったという感じもするのであるが。

    高萩は,紀伊国屋書店の洋書部に一時いた。芸術で何かを生み出すのは「創造力」。制作などには,「調性力」が要求される。高萩自身に高い「調性力」=劇団マネジメント能力が,あったか,自分でも懐疑的ではあるが,野田秀樹 と組んだ『夢の 遊民社』が,快進撃を続けるうちに,お金の出入りが想像を越えるレベルに達する。小劇団時代は赤字覚悟,少し儲かったとしても,さほど拡大再生産など意図する組織ではなかったのだと思われる。

    劇団四季というのは,日本一有名なミュージカル劇団である。 ここに,浅利慶太という人がいる。宮島恵一は,長くこの団体で「経営」を担当し,多くの成果を収めてきた。宮島は,やがて劇団四季を離れ,PSDという会社をやるようになる。劇団四季に入る道も考えたことがあった高萩は,懐かしい再会をする。そこで,拡大再生産に向かう『夢の 遊民社』の経営部分を,彼に全面的にまかせる決断をする。

    再確認すれば「野田が,演出!高萩が,制作!」という役割分担でずっと,『夢の遊民社』はやっ て来た。「駒場小劇場」から,二人を中心に劇団は進んで来た。本多劇場に移っ てから劇団は成長し,念願の紀伊国屋ホールにも出られたのだ。ただ,紀伊国屋ホールなどに出られるというポジションになると,巨大有名劇場ゆえに,予約金などが馬鹿にならない。会社組織でないと,お金が自由にまわっていかないのだ。

    劇団四季でも抜群の経営戦略をもっていた宮島恵一のやり方は,まちがっていたわけではないだろう。しかし,『夢の遊民社』は,もともと小劇団からスタートし,おそらく採算をどがえししても,芸術性の高いものをめざしていたのではなかろうか。劇団四季は,名作を中心に安定したミュージカルを日本に普及させていたので,そこから学ぶべきこともあった。しかし,劇団四季的経営は,少なくとも,『夢の遊民社』には向いていなかったようだ。

    気がつくと,高萩は,宮島に何もかも任せた自分を呪うようになっていく。ノイローゼになり退団を心に決めて動き出すが,まわりがそれを止める。他にも,『夢の遊民社』が,変質し,「これじゃあ劇団ではない!」と思うメンバーがいたのだ。ことここにいたって,PSDという会社への委託などは,すべて打ち切る。稽古場も移転。社長野田の新会社を設立し,高萩を中心とする幹事会での『夢の遊民社』運営を始める。

    この後,段田安則や上杉祥三の故郷である関西で の公演をした。代々木体育館でも公演する(もはや小劇場とはとてもいえない)。つくば万博でのイベント がらみで,NTTやら,セゾンにスポンサーを要請(どこか,商業主義化する)。日本人としては,夢の海外公演にも進出するが,言葉の壁は厚かったという。海外有名新聞に,劇評が出た!というだけで,喜ぶも後で,十分に理解されているとはとても思えなく,失望したりしている。

    『夢の遊民社』のスーパースターは,野田秀樹にほかならない。役者は,急病などで,舞台に出られないのは一番怖いことだ。野田が,舞台のハシゴから転落し,緊急入院したこともあり,「制作」者として,緊急事態の対応に苦労したことを述べている。また,映画に野田が魅せられて出ていくと,残された『夢の遊民社』は喪失感が大きかった。とはいえ,やがて,野田は演劇界に戻って来る。

    ・・・この本は,そのようなところで終わり になっている。

    参考文献:『僕と演劇と夢の遊眠社』高萩宏(日本経済新聞社)2009

    2013/06/15 05:22

    やがて,『夢の遊眠社』には,マネージメント部門ができた。これが,映放商会 という意味で,「えーほーしょう会」である。北村明子(元女優)が登場する。 『夢の遊眠社』は,1992年,17年の歴史に幕が降りた。野田秀樹は,一年 間イギリスに留学をし,戻ると,演劇企画制作会社である「野田地図(NODA  MAP)」を始める。「野田地図(NODA MAP)」は,その後のプロデュース公演のさきがけとなる団体 である。ワークショップは,役者の体験型講座ともいえるが,ここで出演者が決 まっていくことが多い。

    北村は,「野田地図(NODA MAP)」の経営を担当する会 社として,別に「シスカンパニー」を設立する。「シスカンパニー」は,情報戦略システムを重視した。そのため「SYS」という会 社名となった。北村は,この会社の前身である「えーほーしょう会」を立ち上げ るときは,野田に,マネージャー(営業担当者)とデスク(事務専従者)を置く べきと言っている。「えーほーしょう会」は,シスカンになって,社員は15名 になる。だが,部や課は存在しない。

    野田が留学を終え,ロンドンから帰国後,「シスカンパニー」は,野田作品以外 の「プロデュース公演」を多く企画していくことになる。北村は,むしろいろい ろなことをやってみたいと,野田と話し合う。2008年1月に,「シスカンパ ニー」は,野田作品から手を引くことになる。23年間続いた,野田とのパート ナーシップはこうして解消された。

    北村にとって,「プレゼン」は何か。お芝居と本質は同じだと,いう。演劇など に興味もない人間に,「企画書」は無力である。「プレゼン」で,書かれた言葉 に命を吹き込み,言葉をリレーさせる・・・。さらに,「シスカンパニー」にお いては,マネージャーは役者のクオリティや価値を守るためにのみ活動すべきで, 無用な人脈は持たない方がいいし,役者とも少し距離を置くべきと言っている。

    「制作」者は,配役を決める。演出家を選定する。劇場をおさえる。公演回数を決 める。観客を上手に集めたい。だが,作者・作品を最初に選ぶとき,ある意味哲 学者・社会学者にならなければならないため,「制作」者には高い見識が求めら れるだろう。又,演劇というものは,集団行為なので,文豪や,画伯のように, 個人で達成・到達される世界ではない。

    役者こそ,主役で,演出家は脇役で,「制作」はさらに周辺の出来事かもしれな い。しかしながら,「自分の魂と向き合えるような作品」に,役者をあわせたい。 そこで,その役をすっかり自分のものにしてほしい。長期的には,そのひとに, ながく役者でいてほしい。所詮,頭の中に残っているものは,やがて消えていく が,その儚い世界に「制作」はある。

    参考文献:だから演劇は面白い:北村明子(小学館)2009

    2013/06/15 05:20

    ミュージカルは,ミュージカルで完成度が高い素晴らしい芸術にちがいない。一 方,演劇の原点でもある「ストレートプレー」と呼ばれるものにも引かれる。

    レーマンの本では,演劇のことが書かれている。そこでは,演劇は,演じること と,観ることが,同時に起こる空間である。同じ空気を感じながら,役者と観客 は,生の時間を共有し,消費するのだ。ここでは,発信と受信が同時に起こる。 舞台と観客席の間で,共有されるテクストがある。といった趣旨だ。

    たしかに,現代は,映画やテレビになれてしまった人が多い。だから,分厚い文 学書をゆっくり読むこともない。ましてや,その名作に心引かれ,劇場で演劇を 鑑賞するのも,面倒であろう。演劇そのものが,市場化されにくいものであるの は,皆言うことだ。さらに,演劇人は,いつの時代もどこか反体制的だったから, 助成金ともうまくおつきあいできない人たちなのだ。

    演劇の一番良いところは,ずばり,演じる行為と観る行為の一体化にある。芸術 的行為の中でも,この点がどうやらずば抜けて優れている。ただ,この美点は, そのままデメリットにもなってしまう。新しいテクノロジーは,なんでも大量頒 布して,撒き散らすような特徴があるが,演劇行為は,この点重くて動きが悪い。 劇場(舞台)というものに,制約されることが大きい。

    「制作」というものを考えても,絵画・音楽という場合によっては,単独でもで きそうな分野とちがって,人間くさくて,重たい。テクノロジー,メディアの力 を借りて,非物質化し,大量生産的なものに向かう,たとえば,DVD化などをする と,演劇(Straight Play)の本質は,どこか色あせていく。

    思想やその描写は,理想的に翻訳され,十分な理解で読まれてもなお,ひとつの 言語空間から他の言語空間への,あるいはひとつの文化・地域から他の文化・地 域への移行において,別のものになってしまうことはままあることだ。(Hans‐ Thies Lehmann)。

    たしかに,演劇行為というのは,ひとつには,海外に持っていくと,どうも別の ものになるらしい。劇空間をそこに求め,決めて上演する場合,カメラなどに焼 付け,商品化すると,別のものになる。いずれにせよ,演劇が死んでしまうこと になる・・・ということになるだろうか。

    2013/06/15 05:17

    ひとりの人間が,なにもないところで,なにかをつぶやく。そして,そこにもうひとりの人間がちかづき,そのひとを見つめる。演劇行為の基本は,これで必要にして十分かもしれない。 ピーター・ブルックが, 『なにもない空間』でいわんとすることは,こういったところかと,思う。

    だから,そこには,大掛な装置もいらない。そのようなもので,厚化粧されたもの,それが映画であるなら,演劇の本質は,死んでしまうのかもしれない。演劇とは,いつも自己破壊をともなう実験で,風に記された文字かもしれない。それを,定まったところにおしこめると,目に見えないなにかが,死に始めるのだろう。芝居は,固定されたら,退廃に向かう・・・

    演劇の意味は,ますます多様になる。社会の中で,明確な位置が,目標が,ありそうでないものが,演劇なのだ。俳優は,一度その道を走りだすと,自分を助けてくれる者はいない。運が良くて,食べていけるだろう。でも,どこかで,同じことをくりかえすようになって,動けなくなってしまうかもしれない。演劇という芸術を学ぶ場所,正しく学ぶ場所がありそうでないのだろう。常設の劇団に所属できることはしあわせだろう。養成所があって,ずっと修練するところができることは,可能なのだろうか。 演劇は形式的にやっかいな表現にちがいない。小説なら,退屈なところを読み飛ばすこともできる。しかるに,二時間の演劇では,観客が退屈する場面があると,すべてがぶちこわしになってしまう。

    世界中にいい芝居がどのくらいあるのだろう。これは,ひとつには,良い戯曲がどのくらいあるのか,ということになる。劇作家は,対立する人物の精神にとびこみ,かたちにしないといけない。これが,演劇の本質だと思われる。駆け出しの作家に,荒削りな良さがあるかもしれない。ベテランの作家はうまく出き過ぎて,うさんくさいかもしれない。でも,劇作家は,自由なはずだ。全世界を自分の舞台に呼びよせるのだから。

    舞台とは,普通にしていると見えないものが,見えて来る場所であろう。俳優は,身振りで,自分自身のために演技をし,同時に,そこにいても,見えないことになっている「観客」のために行為するということになるだろか。俳優は,どのくらい長く観客の注意力をひきつけられるのだろうか。俳優と観客の関係は,教えるものと,学ぶものとの関係にも似ているかもしれない。神秘的なものを明るみに取り出してあげる・・・演劇とは,観客が自分の頭を働かせるようにするものだ。演劇は,おしなべて社会的な存在である。そこで,観客の脳に「化学反応」を起こさせる。社会を分解し,そこに介入する。そして,価値あるものに光を当てる。観客に注目させること。それから先は,観客自身が,自分の目に入ったものに次第に責任をもって,真実を受け入れるようになる。演劇は,素朴であるべきだ。劇をまとめあげる行為も,一種の遊びで良いのだ。劇を見るのは,遊びなのだと。劇は,Playなのだから。それで十分なのだ。

    社会が,全地球的に移っているのに,劇場の大ききは変化していない。出演者もさほど増えていない。芸術などなくても,生きていけるだろう。ただ,舞台で起こることは,全部人生の反映である。そして,舞台でも,実際の人生でも,人はある種の価値判断を下しながら行動している。それが生きることだから。劇団員であれ,プロデュース公演の公募員であれ,最初の稽古は,みんな悩んでいる。そこには,コワイ演出家がいる。でも,演出家は,俳優たちが,理想的な状態に進んでいくのを助けるために存在しているだけなのだ。初日が来れば,彼の出番はなくなる・・・子どもは,しばしば,生来の自然な才能で,演技をすることがある。これが,名演技といわれたりする。

    いずれにしても,演劇は他の芸術と決定的にちがう。芸術家独自で完成するようなタイプのものでは,ない。観客が来るまで,作品は完成したことにならない。俳優が,真に自分のために仕事をするのは,多くの観客に取り囲まれている瞬間なのである。上演が終わってさて,何が残るのだろうか。それは,ある種のイメージである。これが,心に焼き付いて残る。劇中のシルエットが残る。劇のシナリオは忘れても,イメージが残る。

    2013/06/15 05:11

    浅利慶太は,若いときから「演劇の問題など何もない!」「当たるか,当たらぬかだけだ!」 と豪語していた。劇団四季のミュージカルは,ブロードウェイで大ヒットしたものをリメイクして,NYまでいけない人の欲求を満たしている。今も,東宝は東宝で,ミスサイゴンをやっている。こちらもすごい。

    ミスサイゴンは,オペラの蝶々夫人とどこか似ている。アメリカ人が,兵役でアジアに来て,恋仲になるが,本気にはならず捨てる。そして,母国アメリカに戻って,正妻を得るが,このことにヒロインはショックを受ける。アジアの人間は,なんかバカにされているという感じもしないでない。(でも観たい!)

    浅利慶太は,「僕らの生は無目的だ!」「人間にあらゆる先験的な価値などない!」などと言う。かっこいい!スタニラフスキー・システムを目の敵にするが,これは,少しずれたものだったと言われる。浅利慶太は,劇団四季のストレートプレイの劇場を,「自由劇場」と名付ける。

    浅利慶太は,哲学者で,サルトルの実存主義とか,カミュの不条理哲学にくわしい。パンフレットを作ると,父浅利鶴雄の『築地小劇場』と似ていた。彼は,自分のまわりに知的コミュニティを形成することを得意とした。1933年に生まれた浅利は,1954年に姉の自殺を経験している。

    劇団四季は,1953年に慶応の仲間でたちあげた。メンバーには,日下武史もいる。当時の,気分としては,演劇活動が,過去の反ナチ,反軍国主義ばかりじゃ,それは,逃避と同じじゃないか!ということだった。

    劇団四季の歴史的大ヒットは,『キャッツ』だ。左翼活動とは,距離をおくようになる浅利慶太であるが,国家権力,それと歩調をあわせる連中を嫌う。心の中で,政治的には革新をひめてもいる。

    1960年前半までは,日本のミュージカルは,東宝一極だった。そして,そこは,スター中心であった。当時の劇団四季にいて,今は,東宝に移ったのは,鹿賀丈史・市村正親である。東宝は,その後,『レ・ミゼラブル』『屋根の上のヴァイオリン弾き』がある。 商業主義であるから,劇団四季やら,宝塚を嫌う意見もあるが,芸術に値する俳優養成やら,研修がほかにあったか,というと何も言えない。

    今日の,日本演劇界は,哲学がない。演劇表現の確立に失敗している。知的コミュニティもあいまい,演劇人を職業的に自立させることにも挫折している。となると,市場原理では断念して,公的助成はないものか,ということになる。

    浅利慶太は,助成金無用でやっていこうとした。そこに哲学があった。つまり,『キャッツ』は,T.S.エリオット原作であるし,『美女と野獣』は,ジャン・コクトー映画化のものである。

    娯楽のために,劇場に足を運ぶ人間には,哲学などどうでもいい。たとえば,ベケットの『ゴドーを待ちながら』が,よほどの人気二俳優でもない限り上演で人は集まらない。市場で通じる演劇をめざすことは,浅利の真意とは遠い。

    参照文献:戦う演劇人(管孝行)

    2013/06/15 05:07

    日本における「小劇場」とは,何か?

    「小劇場」という言葉が,日本で最初に使われたのは,1924年設立の『築地小劇場』。それでも,二年後には,500ほどの客席数にまで膨張する。人間が,人間を身近に感じられる場所をめざしていた。いつの頃か,演劇と社会の関係は,希薄であいまいになっていく。政治的な関心をほとんど持たない若い世代が,観客の中心になって来る。そこでは,エンターテインメント志向が強くなる。

    マンガやアニメーションが好きな若者の志向を,サブカルチャーという言い方をすることがある。芸術を志向するわけでもなく,エンターテインメントのひとつとして,演劇も理解してしまうのだ。これに呼応して,若者が次々に劇団を組織し,それを,サブカルチャー志向の若者が観客として見ることが普通になっていく。プロとアマチュアの区別がつきにくい状態もまま起こって来る。

    演劇集団は,ある時期,苦労していつでも稽古できる場,アトリエを確保したかった。アートシアター池袋(シアターグリーン)も,もともとは,稽古場をかねた施設であった。小劇場=小劇団だったともいえる。 下北沢には,本田劇場・駅前劇場・「劇」小劇場などがあるが,本田一夫が創設したものは,当初演劇活動をバックアップするためのものだった。しかし,バブルが崩壊して,その性格は変質していく。

    ミニ劇場空間とは,個人の私財で動く程度の劇場にほかならない。やがて,巨大資本やら,行政が運営する大型の劇場が増えていく。パルコ劇場,青山劇場・・・。

    参照文献:演出家の仕事その三(西堂行人)

    2013/06/15 05:00

    1980年代,新宿から京王線で,渋谷から井の頭線で,10分ほどの世田谷区のある下北沢がにわかに若者の街となっていく。ここで大地主だった本田一夫は,本田劇場・駅前劇場・「劇」小劇場を連続して建設し,下北沢を演劇の街にした。

    本田一夫は,もともと演劇青年だった。北海道出身で,新東宝の映画にも何本か出ている。やがて,俳優の道を捨て,下北沢で飲食店を経営する。これが当たる。彼は,その資金を若い頃の「演劇」の夢に投資した。これが,本田劇場の始まりである。

    1982年11月に,本田劇場はオープンする。そこでは,唐十郎やら,別役実の作品も並べられた。野田秀樹の「遊眠社」の作品も行われた。甲子園の18回投げ合った太田の物語であった。

    1980年代は,100席の小劇場から,この本田劇場(386席)を経て,紀伊国屋ホール(426席)に進むのがサクセスストーリーだった。これを,小劇場すごろくという。都内に,十分な劇場がなかった時代のお話である。

    野田秀樹の「遊眠社」は,高萩宏によれば,設備費などの高騰もあって,使いづらくなる。しかしながら,この本田劇場を頻繁に利用することで知名度を上げていく。本田劇場を離れて後,「遊眠社」は拠点を失うことになり,劇団解散への道を急ぐことになった。

    2013/06/15 04:56

    日本における「小劇場」とは,何か?その二

    80年代には,野田秀樹と鴻上尚史が浮上する。政治色が薄い方が,メディア向きだった。明るさもあった。このへんで,小劇場は危ない場所から,デートスポットに変化する。

    「過去はいつも新しく,未来は不思議になつかしい」なんて,かっこいい!!

    渡辺えりの,女性だけの劇団で,平等を尊び,ヒエラルヒーは否定される。男性社会は,どこかおかしいのだ。

    演劇史は,人類の歴史と無関係ではない。そこには,ヒューマニズムを謳う時期があった。しかし,残酷な二度の世界戦争をへて,平和とか戦争放棄というのが,不可能という気持ちになる。演劇においては,言葉が語る意味より,人間の身体,身体から表現されるものに,関心が移っていく。

    演劇は,それまでは,上から与えられるようなものだった。しかし,観客が参加者という意識が普通になっていく。そのようなとき,意識して,芝居でなく演劇ということばを多く使う。 物語の展開が速く,場面が音楽とともに感覚的に転換するものが一方で好まれる。それに反して,劇場では必要以上に音はなく,俳優の動きも緩やかな,静かな演劇も生まれていく。

    演劇の良いところは,ひとつの価値観に固定される方向を絶対認めないことかもしれない。演劇は自己表現にみえて,自己表現でなく,複数の他者を前提にしたきわめて「公的」なものだ。役者は,自分たちで,劇団を作り,劇場を借り,チケットを売る。ここで,他者であるはずの「観客」が,劇場に足を運び,演劇に参加し,役者の世界,表現を,「公的」な性格に導く。

    ダンスと,演劇の領域は,ひどくあいまいになって来た。演劇は,舞台芸術というべき時代になる。人間には,デジタル化されない部分がある。それは,想像力の領域だ。

    観客動員数に歴然と差のある大がかりなミュージカルに,素晴らしい夕べを過ごす自由も一方にあって良いだろう。だが,演劇の真髄としては,理想的には,観客は,演技者の様子ができるだけはっきり見えた方がいいに決まっている。ということは,劇場は,できだけ小さい方が有利である。その方が,演じるものと,見るものがぐっと近づき,同じ空間を共有している意識が強くなる。

    今,双方向的なコミュニケーションが普及して,観客は,主導権を得ているのかもしれない。

    参照文献:演出家の仕事その三(西堂行人)

    2013/06/15 04:52

    西堂行人は,対話空間の再構築について考える。演劇というものは,普通は,まず「戯曲」があって,それを演出し,俳優が演じていく。でも,まず,空間があってもいいのだという。その空間では, 「観客」が,主役になることもある。世界には,劇団が,芝居を上演しているのだが,芝居そのものは,あくまで問題提起に過ぎず,観客がそれについてあれこれ意見をいうものもある。これは,「メッセージ」が,一方的に伝達されるのはまずいと思っているからだ。観客を受動化させないことは大切だ。作品が完成されたものだと,それをいかに正確に鑑賞するかが,大事かもしれない。でも,観客の意識は,むしろ受動化しない方がよくて,最後まで不安的な方がいいのかもしれない。この場合,みなが熱狂している舞台で,ひとりしらけた目で,舞台を見返している「観客」がいても良い。

    観客が,いないのは,「ワークショップ」だ。これは,どういうものだろう。体験型講座みたいなものだろうか。稽古場の稽古それ自体が,演劇の中核だともいえる活動だ。そこでプロが巣立っていくこともある。一方,教わった技術を使って,いい観客になってもいい。結果,演劇は,密室で作られるものではなくなり,作る過程も公開し,周辺の人を取り込んでいく。

    竹内敏晴は,ある時期から,「ワークショップ」活動を活発に展開する。お客に見せる芝居から距離を置くようになる。竹内は,役者志望者の,吃音・赤面恐怖症による表現下手が気になった。日常生活で緊張しきった身体の筋肉をほぐしたい。他人を気にし過ぎて,言葉を正常に交わす人間関係ができていない。舞台の上に立たせても,ふたりの役者の言葉は,お客には向かうが,相手役には,向けられていない。芝居を通して,自分の限界を踏み越え,言葉を正常に交わす人間関係を作りたい。

    「ワークショップ」は,セラピー(療法)ではない。セラピー(療法)は,行為をとおして,自分の心理的変化を見ている。芝居は,虚構(フィクション)を通して,何か一線をこえるものだ。舞台は,後もどりがきかないから,自分を投げ出さないといけない瞬間がある。ここで,演出者の個性が発揮される。たしかに,演出者と役者の関係は,権力関係ではある。これは,避けがたい。しかしながら,その権力関係は固定されるべきではない。つねに,可変的なものにすべきである。というのも,方法ができて,それが固定されるのでは,演劇は死んでしまう。方法は,あくまで役者個人から出発し,体験が積み重なってメソッドになる。メソッドは,固定化すると,今度は,役者個人の身体が拘束される。生きた演劇を導くのは,常に役者の身体であって,役者個人の意識ではない。

    参照文献:現代演劇の条件(西堂行人)2006

    2013/06/15 04:44

    1986年,チェーホフ戯曲『かもめ』は,うまくいかなかった。それは,作品にテンポがなく,単調だったのだ。戯曲では,食事の場面が目立った。観客は,劇場で,何かが起きる!のを,待っていた。わくわくしたいのだ。断崖から投身自殺したり,不治の病に痛めつけられるのを期待した。

    どちらかと言うと,『かもめ』の本質的な台詞は,ごく一部である。そのために,登場人物の感情は,言葉だけを追っても浮かんで来ない。『かもめ』は,はじめ完全な失敗だった。

    モスクワ芸術座は,1989年,ネミローヴィチと,スタニスラフスキーとで設立される。彼らは,紋切型の舞台を嫌った。

    スタニスラフスキーは,最初,チェーホフの世界がよく理解できなかった。隠されたドラマが,わからなかったのだ。スタニスラフスキーは,『かもめ』を演出することによって,チェーホフ戯曲の,行動の内的な線に気がつく。

    チェーホフは,人生の真髄を映し出すためには,余計な舞台効果を嫌っていた。スタニスラフスキーは,演出家として,全体の調子を色づけ,演劇的効果を強くするために音を工夫した。このために,劇作家チェーホフと,演出家スタニスラフスキーは,距離ができていく。チェーホフは,スタニスラフスキーの演出が,最初どうしても嫌いであった。

    『かもめ』の工夫には,間の使用がある。間=静止に続く,沈黙。そこでは,場面の行動が完全になくなるわけではない。このことに,スタニスラフスキーは重大な関心を持つようになる。

    スタニスラフスキーは,チェーホフにどうしても近づきたかった。それには,登場人物の苦悩とか,生活の悲哀をただ強調すればいいというものではない。俳優が,登場人物の悲しみに浸り過ぎるのは,いいことではないと考え始める。すべてを明るく,陽気で,水彩絵具で描きたい・・・と思った。

    チェーホフ戯曲『かもめ』は,やがて,スタニスラフスキーの演出により,大成功となり,モスクワ劇術座の紋章となっていく。

    参照文献:チェーホフをいかに上演するか(David Allen)而立書房2012

    2013/06/15 04:40

    演劇集団 円の,『三人姉妹』を観た。この作品は,1940年に,ネミロヴィチの演出で再演されている。芸術座をともに創始したスタニスラフスキーは,亡くなっていた。メイエルホリド(かもめで,コースチャだった)は,殺害されている。今回,上野での『かもめ』と,少しちがった『三人姉妹』を集中して観察した。

    堀江新二は,チェーホフの研究者であるが,1901年のものと,1940年のものと,比較している。こういう研究書を読むと,ずいぶん昔の演劇が,時とともにどう変化し,なおかつ生きのびてきたかわかる。チェーホフの演劇は,それまでの演劇とちがって俄然現代的である。それまでの,演劇には,必ず王様が出てくる。場合によっては,幽霊・妖精までも。そこにいくと,チェーホフの残した代表的な作品は,劇的な展開はないが,現代人が生きていくなかで,素朴に思う疑問やら,不合理なできごとが,いっぱいある。

    たぶん,老医師チェブトゥイキンのようなことを言ってしまったら夢も希望もないだろう。そのために,1940年には,「夢への実現・明るい未来を志向する時代にふさわしくない」との理由で,台詞「おなじことだ」はカットされている。何のために生きているか,わかろうとも,わからなくても,同じだと水をさすからだ。

    当初イリーナは,働くことは,喜びであると思っていたが,実際の職場生活は,楽しいものではなかった。身近なひとたちの例を見て,幻滅もするが,なんとかトゥゼンバフ男爵との結婚に踏み切ろうとする(そこには,愛情はないかもしれないが)。しかし,男爵は,決闘にまきこまれ死んでしまうのだ。

    最後「わたしたちの人生は,まだ終わっていない。生きていきましょう。」という感動的な場面は,脳裏に焼き付いて離れないだろう。しかし,そんな前向きな志向も大事なのだが,チェブトゥイキンのいうとおり,人生は流れていくものである。「多少の努力も,水の泡になると覚悟して,やるならやってごらん」ということか。

    参考文献:演劇のダイナミズム・ロシア史のなかのチェーホフ(堀江新二)東洋書店2004

    2013/06/15 04:36

    スタニスラフスキーは,ロシアの演劇について,批判的にとらえていた。確かに 名優はいるかもしれない。しかし,一般的には,役者は,職人の意識しかない。 名調子に乗せて,セリフを口にすることが,彼らが得意とするところだ。しかし, 演劇は,おもしろくも何ともない。だって,俳優は,相手のセリフを十分に聴い ていない。自分の出だしをまちがえなければ,いい。どこか,演劇が生きていな いのだ。

    スタニスラフスキーは,14歳で初めて演技をした。やがて,モスクワ芸術座を設 立し,俳優としても,演出家としても大成功する。しかし,俳優としての体験か ら,ある日は,とても出来が良いが,別の日は,どうもうまくいかない。さらに, 役の種類にもよるが,まったく手も足も出ないものがあることに悩む。さいわい, スタニフラフスキーは,メモ魔で,演劇について,たくさんのノートを蓄積して いた。

    これが,有名な「スタニスラフスキー・システム」の出発点になった。

    「魔法のif」とは? もし,君が,その立場にいたらどうするのか。これが,スタニスラフスキーが強 く提示した問題である。この問いに,「彼が,このさき難局を切り抜けるために は,こういったことが大事であると思います」,と答えてはだめである。破滅的 な,ぎりぎりの状態にあって,必死に解決策を模索する当事者に自分がならない と話にならないのだ。絶対絶命の危機的な状態から,脱出するという明確な「目 的」をまず持ちなさい。ちゃんとした「目的」を持てば,必然的に,内面の準備 ができ,行動そのものに命が吹き込まれるだろう。

    「感情の記憶」とは? 自分自身の過去の経験から,芝居に近い場面を思い出してみよう。そこから,有 益なヒントが得られるかもしれない。(後日,スタニスラフスキーは,これを放 棄する。しかし,初期「システム」は,すでに世界に拡散していた。そのために, アメリカなどでは,その理論を発展継承し,晩年の「スタニスラフスキー・シス テム」と衝突していく。「スタニスラフスキー・システム」というものが,つね に通過点だったということがわかる。)

    「スタニスラフスキー・システム」の特徴

    「スタニスラフスキー・システム」では,才能やセンス,あるいは,インスピレー ションに頼らない。気分や,感情は,確かにその都度発生する。しかし,記録す べきは,身体的な行動の特徴だ。それは,スコア(譜面)になるだろう。これを, もう一度正確に辿ると,俳優は毎回安定した演技ができるのではないか。こうい ったことを考えた。

    スタニスラフスキー自身は,俳優が,目的や課題を集団で遂行する環境の中にい るが,ゆえに悩みがあることもわかっている。俳優は,とにかくうまく演じたい という気持ちに陥りやすい。でも,自意識は捨てる方がいいだろう。観客を必要 以上に意識するのも良くない。とにかく,我が身をさらしてみよう!と言う。

    たとえば,酔っている人間を,ふらふら演じるのが,演劇ではないのだ。スタニ スラフスキーにいわせると,酔っている人間が,「ふらつかない」ようにという 目的を持っていることが大事なのだ。ふらふらすまいと,骨を折っていることに 集中すべきである。そこでは,うわっぺらに演じようとする意識は放逐し,むし ろ「行動」にこそ集中すべきなのだと。

    参考文献:スタニスラフスキーの「身体的行動の方法」演技創造における俳優の 心身をめぐって(谷賢一)

    コンスタンチン・スタニスラフスキー (1863-1938) ロシア革命の前後を通して活動したロシア・ソ連の俳優であり演出家。 1888年に文芸協会を設立。1898年にネミロビチ・ダンチェンコ(1859-1943年) とともにモスクワ芸術座を結成し,チェーホフなどの戯曲を上演した。 彼が創り上げた俳優の教育法は,「スタニスラフスキー・システム」と呼ばれ, 世界的に多大な影響を与えた。

    2013/06/15 04:33

    戯曲に書かれているように,演技することが,俳優の職務である!と,考えていた日本人がいた。演劇の価値=戯曲の価値なのだ。演技そのものには,独立した価値などあるはずもない・・・小山内薫は,最初このようなことを思っていた。

    小山内薫は,1912年末から,半年にわたって,ロシア・ヨーロッパを演劇視察のために旅行している。その中でも,モスクワ芸術座には,何度も足を運んでいる。このとき,小山内は,スタニスラフスキーに強烈な影響を受けた。

    そこで,上述の考えを180度転換することになる。俳優は,戯曲の言葉を受動的に解説しているのはまちがいで,能動的な創造者になるべきかもしれない。

    1923年に,関東大震災が起きた。翌1924年,廃墟の中から,小山内薫の築地小劇場が出現する。この場所で,小山内は,さらに明確に,戯曲の価値から独立した,演劇の価値を探求したい・・・と述べている。

    築地小劇場は,開場から丸二年間は,西洋演劇だけ上演する。

    小山内は,演劇が,脚本・演出が時代とともに,変化すべきと思っていた。しかし,歌舞伎には,時代の精神や,生活がくっついて来てないように思えた。観るためにも,ある程度の予備知識を要求し,民衆的な現代芸術から遠いものと認識している。

    小山内にいわせると,本来の歌舞伎の価値は,形式美である。近代の歌舞伎は,心理描写が多い。そのあたりが,おかしくなっている。

    1928年,『国姓爺合戦』初演後,小山内は46歳の若さで亡くなった。小山内は,前年ソビエトに旅行していた。ロシア革命後,1921年新経済政策(ネップ)が導入され,1924年には,レーニンが亡くなっていた。

    参考文献:小山内薫と二十世紀演劇(曽田秀彦)1999

    2013/06/15 04:29

    チェーホフ『桜の園』とは,どのような物語なのだろうか。骨格となるのは,浪費癖のすごいラネーフスカヤ夫人と,子どもの頃から近くで敬愛していた百姓のこせがれだったロパーヒンの対比だ。

    さくらんぼ畑は,借金まみれのラネーフスカヤ夫人の手からはなれていく運命にある。それを見かねたロパーヒンは,あれこれアドバイスするが,ラネーフスカヤ夫人は,聴く耳をもたない。あれよあれよという間に,さくらんぼ畑は,競売に出されてしまう。ここで,ロパーヒンは,大金をつぎこみ一か八かの勝負に出る。

    この物語のゆくすえは,彼の投資事業がうまくいくかどうかは,未知数だ。しかし,一時的にでも,さくらんぼ畑は,百姓のこせがれが地主になってしまった。さあ,さくらんぼの木を残らず切ってしまって,別荘にでもしよう。しかし,それに対しラネーフスカヤ夫人一家は,せめて出ていくのを待って,斧を振りかざしてください,と訴える。

    チェーホフの作品の登場人物は,とてもユニークだ。とりわけ本作品には,おもしろいキャラクターがそろっていて強烈である。場面が始まる前後から,小間使いのドゥャニーシャが,会計係のエピホードフといちゃついている。しかし,夫人とともに戻ってきた従僕ヤーシャにのぼせあがる。
    声の大きいピーシク,アーニャに恋している若禿のペーチャ。
    お家存亡においても,キャンディばかりなめているガーエフは,老いぼれたフィールスにガウンを着せてもらうことしか考えていない。ヴァーニャが,ロパーヒンに嫁ぐかどうか,気になる家庭教師シャルロッタは,この物語のとばっちりで失業してしまう。

    三日間,荻窪に通って,『かもめ』『三人姉妹』『桜の園』と,チェーホフの世界に浸った。チェーホフ世界では,特別な悪党が出てきて,それをみんなで退治するとか,悲運に生まれた主人公が最後はしあわせにたどりつくとか,そういった流れはない。最初なんらかの夢があるが,人生をやっていくと,その計算が狂っていく。それは,だれのせいだろうか,どうにか辛いけれど乗りこえていくべきなのか,・・・そういった問題点に収束する。

    2013/06/15 04:23

    現代演劇は,どう楽しめばいいのだろうか。劇団四季のように,だれにでもわかりやすく美しく完成されたものから,入るのも大切な手段であろう。ミュージカルは,大衆受けしやすいように作られている。一方,あちこちで,小劇場でやっている演劇にもいいものがある。そこでは,どのようなものが上演されているのか。

    日本における演劇の歴史では,ある時期,イプセンとか,チェーホフが,くりかえされそれが,日本の演劇の核になっていった。もちろん,シェークスピアの深みのある世界から,生活演劇に矮小化されたという一面もあるだろう。しかし,実際の人生には,大戦争もないし,妖精も出て来ない,単調な人生で老いていくだけである。だから,むしろチェーホフの世界の方が,観ていて実感もわく。

    たとえば,『かもめ』では,トレープレフ(コースチャ)は,どんな存在だろうか。彼には,才能があった。しかし,実の母親アルカージナは,俗物でそれを理解しない。コースチャは,母を熱愛していたが,まったく認めてもらえない。それどころか,おそるべきは,母の愛人トリゴーリンが,コースチャの恋人ニーナをひとときの慰みとし,奪って捨ててしまう。コースチャは,作家として成功はするがニーナのおもかげに苦しみ,自殺してしまうはめになる。

    次に,『三人姉妹』のヒロイン・イリーナについて,考えてみよう。彼女にも,夢があった。しかし,仕事からはさほどの充実感も得られなかった。彼女は,まわりに薦められるまま,愛のないまま,男爵トゥーゼンバフと結婚しようとする。トゥーゼンバフは,そのようなイリーナのもとを離れ,自暴自棄のまま,ソリョーヌイとの決闘にのぞみ,死んでしまう。ここでは,イリーナの毅然として,愛はないが結婚する・・・というセリフが重く心に残った。

    『ワーニャ伯父さん』では,ワーニャが,最後姪のソーニャとともに,「自分たちはとっても不幸なんだ」,と述懐する。たしかに,ワーニャそのものの人生は,教授閣下の下働きみたいなことに奔走し老いてしまっただけ。さらに,ソーニャは,あこがれのアーストロフが教授閣下夫人しか見ていないのに,なにもできない。ワーニャとソーニャは,ふたりして絶望の中で,生きる道を模索するだけ。

    『桜の園』では,家庭教師シャルロッタが印象的だった。とても美しく,軽妙に,手品を何度か披露する。しかし,独白の場面では,彼女の経歴は,だれよりも不幸で,自分の正式な年齢もわからないし,両親の結婚状態も知らない。そして,さくらんぼ畑が売り飛ばされると,みごとに失業してしまう。

    2013/06/15 04:17

    どうして,私が歩いた大地に口づけするなんておっしゃるの?
    私なんて,殺されても当然なのに・・・
    もう,くたくた。休みたい・・・
    休みたいの・・・
    私は,かもめだわ・・・
    いや,そうじゃない・・・
    私は,女優

    あの人は,演劇なんて信じてはいないし,私の夢をいつも笑っていた。

    私は,こせこせしたつまらない女になって,わけの分からない演技をしていたわ。
    手の動かし方も,舞台での立ち方も分からず,声も通らなかった。

    私は,かもめ・・・
    いえ,そうじゃない・・・
    覚えている,あなたがカモメを撃ち殺したの?
    たまたまやって来た男が,娘と出会い,退屈まぎれに,その娘を破滅させてしまった・・・

    参考文献: かもめ(四幕の喜劇) チェーホフ 群像社

    現代演劇を観ることが多い中で,小山内薫まで,戻って何があるのか?というが,彼が,日本における現代演劇への道を確かに作っている。彼は,日本にも,大衆娯楽の芝居はあったから,それを全部認めないわけではなかった。でも,人気スターを見にいくだけで,もう少しちゃんとした理論があっても良いかと,考え出す。

    小山内は,ロシアにいって,チェーホフの戯曲をやる劇団に出会った。チェーホフの戯曲は難解で,初演では,皆が逃げていくが,スタニスラフスキーという俳優&演出家の腕で,大ヒットしたことを知る。上野ストアハウスでは,今回『かもめ』をやっていた。台本の半分くらいまで,頭に入れて,この劇を見始めた。

    そのために,結構複雑な人間関係も,少し違和感のある劇中劇も,結構理解できた。この作品は,トリゴーリンが異彩を放つ。トレープレフ(コースチャ)は,才能はあるが,すでに名声を得たトリゴーリンに恋人と,人生を奪われる・・・可憐で,少しおばかなニーナは,軽率にも,人生の罠に引っ掛かり,カモメのように撃ち殺されるのだ。

    そういえば,ディケンズの作品にも,女たらしに引っ掛かり,没落していく女性が登場する。チェーホフは医者だ。近所に,うつ病で,自分で猟銃事故を起こし,頭に包帯をしている男と出会った。その後,この『かもめ』の作品を思いつく。初演が不成功なのは,この作品が複雑過ぎるからだ。

    ロシア語も理解できない小山内薫でも,ストーリーを熟知し,頭に入れてしまって観劇したから理解はできた。この劇に感激し,そのときの演出を細かく記録している。『かもめ』のような格調の高い演劇を正しく観る方法。それは,もしかしたら,すべての台詞を丸暗記し,いえるくらいになって,観るのが一番かもしれない・・・

    『かもめ』は,戯曲が,何より一番の時代から,演出・俳優の時代への幕開けとして,価値ある作品なのだ。そのため,劇場にいっても,ストーリーの面白さとか,そういうのばかり追っていても意味がない。目の前で,集団が,演技しているのを良く観ること。連中の身振り・表情をしっかり心に焼き付けたい。熱演に敬服!

    2013/06/15 04:13

    いま,演劇に何が起こっているか。2005.12.西堂行人は,述べている。この時点で,唐十郎はもっとも注目を集めているという。教授として,横浜国大でも活動していた。

    西堂行人によれば,演劇はギリシア時代より,つねに現実を「模倣」するものだった。ところが,唐十郎はこの関係を逆転させていた。日常の「反映」を舞台が「映す」のではない。唐十郎の言葉は,舞台上に次々に化身をつくり出す。唐十郎の劇は,いつも観客の魂を揺さぶるアジテーションである。

    花やしき裏にあったようなテント劇場は,そもそも1967年に,花園神社に立てられた紅テントがスタートだという。テントそのものを,公園のような公有地に張ろうとすると今でもすぐに退去命令が出るという。テントそのものは,それ自体が一つの表現になる。そこに装置空間が発生する。演劇はいつも体験的な記憶となる。一時的に体験し,消え去るものがテント劇場である。「ラストシーンで背景の幕が切って落とされ都市の風景が忽然と劇の中に飛び込む」。この演出は,今回の唐ゼミでも,最後スカイツリーが目に飛び込むことで再現されていた。

    芝居の集団は,表現集団+観客である。この点,テント劇場のようなものが,芝居の観客となるかもしれない人々へひろがりを持つのだろうか,という意見も当初からあったようだ。なお,今回の『吸血姫』は,1971年湯島天神・吉祥寺・渋谷で上演されている。

    2013/06/15 04:05

    上野の東京文化会館で,オペラ『マクベス』を観た。このホールは,学生時代,ジャン=ピエール・ランパルのフルートを聴いたとき以来だったと思われる。今回,初めて,三階席から観劇することになる。少しめまいがして気持ち悪かった。

    正しいという字を,何度も書き加えているのが,不思議だったが,どうやら人が死ぬ度に訂正を加えていたような気がする。

    シェークスピアの全作品は,昔NHKのBBC版でひとおとり観たことはあったが,内容はほとんど忘れている。四大悲劇も,劇場ではまったく観たことはなかった。オペラも,フィガロの結婚とか,ツーランドットとか,それがオペラだったかもしれないくらいで縁がない。

    さて,作品はきわめて斬新だった。一度だけしか観てないので,細かいことは無理である。『マクベス』は,17世紀,スコットランドの武将マクベスが,魔女の予言に誘発されて,ダンカン王を殺害し,結局は,悩み苦しみ,マクベスの息子にその座を奪われる物語であるというくらいのことを念頭にじっと見入っていた。

    岩波文庫の解説によれば,どうやら『リチャード三世』が似た作品らしい。しかし,どちらかといえば,『リチャード三世』の方が史実的であり,わかりやすい。シェークスピアの全作品で,魔女が出て来ることも珍しく,そういう点でも短い作品でありながら,とっつきにくい要素があるという。

    ダンカン王は,まぬけだ。自分の一番信頼を置いている部下に会いに来て,その城で夜襲に遭遇する。マクベスが,短剣を持ちかえると,非情冷酷な夫人は,それを取り上げ,当初の予定のとおり,王の従者の手に握らせる。この日から,マクベスは,良心の呵責に苦しむ。あげくのはてには,魔女の予言のせいだと,魔女を怨む。しかし,魔女などは,どこにもいない。最初から,マクベスは自らの卑しい野心のすがたであり,それにのみこまれて,自滅していく。

    マクベス夫人が,「私の手もあなたのように,真っ赤よ。でも,あたしの心臓は,あなたの心臓のような青白くて,やわくはないんだわ」,という。それに対し,マクベスは,「王であるだけでなんの意味もない。心安く王であるのでなければ,何の意味もないのだ。」とあくまで人間的である。

    たしかに,今回のオペラの演出にもあったように,殺人が殺人を呼び,王位簒奪は永久にくりかえされるだろう。そして,魔女はその人間の運命の愚かさを,あざわらうだけである。そうして見ると,壮大なオペラのすべての仕組みも良くわかる。とても良いオペラだったと思う。

    2013/06/15 03:59

    「近代演劇の成立」について考える!

    1889年に,明治憲法が発布される。1891年,川上音次郎が,「書生芝居」を開始。「板垣死すとも,自由は死せず」。上演後,証拠が残らないので,反政府的活動に利用された。川上音次郎が,海外公演で,芸者だった貞奴を日本初の,本格的女優にする。「正劇」だ。これが,新劇の源流となり,『金色夜叉』なども出た。

    1885年頃より,坪内逍遥は,シェークスピアを翻訳した。逍遥は,美濃出身で,農村歌舞伎が好きだった。彼は,東京専門学校で,1890年文学科を開設した。島村抱月は,二期生。日本海海戦の後,1906年に,「文芸協会」ができる。『早稲田文学』発行。逍遥の演劇研究所から,松井須磨子が出る。

    二代目左団次は,ヨーロッパで劇場システムを学ぶ。切符は,劇場で売り出し,平土間は椅子に変わった。自由劇場(無形劇場)の誕生である。こちらは,イプセンを上演する。注目すべきは,なぜか,「文芸協会」のシェークスピアは,素人が挑戦していたが,「自由劇場」のイプセンは,歌舞伎役者が取り組んでいた。

    シェークスピアは,優れた世界を持っている。しかし,亡霊・魔女が,目立つ劇でもあった。シェークスピアより,イプセンがブームとなっていく。島村抱月を中心とした芸術座は,トルストイの『復活』で,「カチューシャの唄」が大ヒットする。1914年,第一次世界大戦が,勃発した。この頃,浅草レビューも隆盛。やがて,築地小劇場開設。

    日本の演劇界の発展は,官主導ではない。この点,音楽・美術とちがっている。お雇い外国人の存在もない。芸大には,演劇科が発生しなかった。いきおい,日本では,演劇では,教師にすらなれないマイナーな分野となる。

    戯曲という形式は,俳優の発語を通して,表現が完結するという特殊な文学形態である。観客に何かを伝えるのでないと,意味がない。観客に何かを伝えてくれるのは,俳優の身体にほかならない。戯曲の主題を伝えることと同様に,俳優の演技が重要である。

    日本における近代文学の成立には,西洋文化の直輸入ではダメだ。岸田國士は,それまでの,戯曲を小説と似た文体で書く作劇法を改めて,劇的文体を提唱する。どうすれば,劇的な文体,演劇的な美が表現できるか,意識して戯曲を書くようになる。

    築地小劇場には,「演出理論」がまだ確立されていない。演出家という名前は,ついたが,段取りを決める振り付けのようなもの。舞台をうまく構成し,交通整理をしていた。

    築地小劇場は,翻訳劇を中心に上演していたので,翻訳劇の文体を,いかにうまく言うかが,俳優の演技で重要になった。このときイメージした「リアル」は,日本語に拠って立っていない。以後,「生活言語」と「演技の言語」乖離が,発生していく。日本人は,このようには喋らないと思うほど,演劇では,論理的に登場人物が喋るのである。

    参考文献:『演劇のことば』(平田オリザ)

    2013/06/15 03:55

    『かもめ』(Чайка)はロシアの作家,劇作家のアントン・チェーホフの戯曲である。チェーホフの劇作家としての名声を揺るぎないものにした代表作であり,世界の演劇史の画期をなす記念碑的な作品である。後の『ワーニャ伯父さん』,『三人姉妹』,『桜の園』とともにチェーホフの四大戯曲と呼ばれる。

    湖畔の田舎屋敷を舞台に,芸術家やそれを取り巻く人々の群像劇を通して人生と芸術とを描いた作品で,1895年の晩秋に書かれた。『プラトーノフ』(学生時代の習作),『イワーノフ』,『森の精』(後に『ワーニャ伯父さん』に改作)に続く長編戯曲。

    初演は1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場で行われた。これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わった。その原因は,当時の名優中心の演劇界の風潮や,この作品の真価を理解できなかった俳優や演出家にある。チェーホフは失笑の渦と化した劇場を抜け出すと,ペテルブルクの街をさまよい歩きながら二度と戯曲の筆は執らないという誓いを立てた。

    しかし2年後の1898年,設立間もないモスクワ芸術座が逡巡する作者を説き伏せて再演する。俳優が役柄に生きる新しい演出がこの劇の真価を明らかにし,今度は逆に大きな成功を収めた。この成功によりチェーホフの劇作家としての名声は揺るぎないものとなる。モスクワ芸術座はこれを記念して飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用した。

    ニーナにはモデルがあり,妹のマリヤの友人のリジヤ・ミジーノワである。リカと呼ばれたこの女性はチェーホフ家に出入りするうちにチェーホフに恋した。チェーホフ家で出会った別の妻子ある作家,イグナーチイ・ポターペンコと駆け落ちする。娘も生まれたもののやがてポターペンコに捨てられる。まもなくその娘にも死なれる。

    劇中でトリゴーリンやコスチャなどによってたたかわされる芸術論はしばしば作者自身の芸術観を代弁するものとなっており,特にトリゴーリンが吐露する作家生活の内情はチェーホフ自身の姿が投影されたものである。

    ニーナがたどった運命と同様のテーマは,すでに中期の小説「退屈な話」(1889年)でも扱われていた。女優志望の若い娘,カーチャが挫折して絶望に陥り,養父の老教授に「私はこれからどうすればいいのか」と尋ねた。老教授は「私にはわからない」としか答えられず,カーチャは寂しく立ち去っていった。

    『かもめ』におけるニーナはカーチャとは異なり,終幕において自分の行くべき道を見出している。名声と栄光にあこがれて女優を志したニーナが全てを失った後に終幕で語る忍耐の必要性は,まさにチェーホフが苦悶の末にたどり着いた境地にほかならない。

    カーチャからニーナへの成長は,サハリン島旅行(1890年)を経て社会的に目覚めていったチェーホフの進境を示すものであり,本作に提示された忍耐の必要性というテーマはさらに「絶望から忍耐へ」,「忍耐から希望へ」というモティーフへと発展を遂げ,後の作品に引き継がれていくことになる。

    2013/06/15 03:52

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