期待度♪♪♪
前回,工藤優の演技で泣きました。
演劇の中では,「同化」と「異化」の効果があるらしい。
たとえば,名作『二十四の瞳』(壺井栄)を観ると,松江のユリの弁当の話に同化する。感情移入して,涙があふれて来る。それは,それで良い。まだ,幼い身であるのに,ひとりだけ奉公先で苦労しているのだ。ゆえに,この場面を見て,泣いてしまうことはごく当然のことである。
一方,『遭難』(本谷有希子)の中は,異化の世界かもしれない。子どもがいじめにあって,自殺未遂をした。そこにいて関わった戦犯はだれだ!気が付けば,みなが無責任で逃げることしか考えていない。このような場面を見て,ショックを受けた(異化)。私は,現実を知らないのだろうか。
舞台と観客との一対一の対応で,観客をドラマにひきずりこみ,そして,自分を劇中の人物のごとく錯覚させる。「ひとりだけ弁当箱なしの苦い思い出」を胸に秘めて,奉公先で大石先生と再会する「松江の悲しさ」を自分のことのように感じてしまう・・・これが,「同化」。
ここで,ブレヒトが,そういう幻想の舞台ばかりでなく,つまり,観客を同化させているばかりでなく,こん棒で頭をなぐって,びっくりさせて何かを気がつかせるような手法の演劇に注目する。(異化)。
俳優と作家と観客は,そもそもは一体だったのかもしれない。というのも,はじまりは単純なものだったであろう。その後どんどん分業化していった。見せるものと見るものが,分化していった。でも,やっぱり,舞台と客席の関係については対応することが多い。
その舞台と観客の関係では,観客は,自らが劇中人物であるかのように「同化」するという現象はよくあること。別の言い方をすれば,劇中人物に感情移入し,錯覚を起こしているのだ。幻想による「同化」。その場合,舞台は「観客」を対立したまま終わる存在とせず,同感し,和解していく方向に収束する。
これに対し,見慣れぬもので,びっくりさせ,目を覚まさせるという効果がある。これが「異化」。