【緊急再演】つぎとまります【王子小劇場】 公演情報 劇団肋骨蜜柑同好会「【緊急再演】つぎとまります【王子小劇場】」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    オデュセイア+銀河鉄道の夜
     属国で現在を生きる若者が喘ぐ閉塞感にも拘わらず、なお踏み止まろうとする覚悟と同時にエスケープへの憧れ、と、殆ど自己投棄を通しての飛躍への意思が、鮮烈である。自らを塵と同一視しても尚、己の内側から芽吹いてくるものから逃げることは出来ない。

    ネタバレBOX

    作家及び我々が置かれたこのような情況を、フラクタル構造やパラレルワールドを用いて理論化した上で、一旦旅立ったパラレルワールドから、バスという日常の運搬手段を介し、同時にフラクタル構造を介して慣れた世界へ戻る。が、存在の間(はざま)に空いた無限の時空を観客と共通の土壌に立ち得るバスを用いて行き来している所にこの作品の凄さがある。深読みをするならば、これは現在版、オデュセイアである。何となれば、異界と言っても過言ではない程に異なる世界を流離った挙句、オデュセウスが辿り着くのは、妻の枕元。即ちヒトの原初的関係の一様態である。無論、この形には普遍性がある。従ってバラバラで共通項を欠くように思われる「世界」を流離ってはいてもブレが無いのである。小道具の使い方もキチンとしている。今迄の世界に戻った時点でのずれを仕事先部長からの電話で舞台化して見せる手腕、机上に置いた“ぺーちゃん”の存在、フラクタルの象徴として登場していた流しそうめん器の回転音とソーメンをすする音に改めてパラレルワールドの実在に出会って発する「えっ!」の科白が秀逸。
    ところで、この作品は、もう一段、深く読み込める要素を持っている。循環バスと言われているバスが、フラクタル空間を行き来しているのであれば、このバスは一体、どの次元でのフラクタル空間を行ったり来たりしているのか? という問題である。或いは、パラレルワールドを。この謎こそ、宮澤 賢治が「銀河鉄道の夜」で提起した時空そのものではないか? 
    未だある。この作家は、自分の戻るべき所を心得ている。作品の中で約束事として演じられている垣根をとっぱらうことによって歌舞伎者としての己の位置を現実の劇空間に変えることに成功しているからである。

    2

    2012/12/20 02:00

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  • フジタ タイセイさま
     喜んで頂けて、自分も嬉しく思います。
    若い方が、老人だと認識するのは、オリジナリティーが
    無いと感じているからではないか、と思っています。何れにせよ、
    ちゃんと際までは来ている、ということではないでしょうか。
    リルケも読んでみると良いかも知れません。訳によって受ける
    印象が全然違うのですが、自分は、確か理論社で随分昔に出た
    版の訳が気に入っていました。人から借りて読んだ本でしたが。
    多分、図書館へ行けば書庫に眠っているのではないかと思います。
     オデュセイアは面白いですよ。自分は、イーリアスが、更に好きですが。
    どちらも作者はギリシャ最大の詩人、ホメーロスです。シュリーマンが、
    古代遺跡を見付けるきっかけは、彼が少年時代にイーリアスを読み、
    そのリアリティーから、実際にあったことに違いない、トロイアを見付けたい。
    と望んだことでした。彼は考古学者になり、古代都市を発見したのです。
    尤も、それはトロイアではなかったのですが。それでも、シュリーマンの
    大発見は、考古学上でも画期的なことでした。話が随分、「つぎとまります」から
    それてしまいましたが、初心を忘れず、今後とも頑張ってください。
    また、お会いしましょう。
                                  ハンダラ 拝

    2012/12/21 00:33

    ハンダラ様

     ご観劇いただきありがとうございました!

     うわー、すごい、こんなに重厚で示唆的なコメントいただいて少なからず興奮しています!恥ずかしながらオデュッセイアは読んだことがないのですが、これを機に手に取ってみようと思います。

     バスがどの次元、どの世界を走っているのか、というのは僕も作りながらいろいろ考えました。悩みどころでした。流し素麺器の相似形としての舞台。の相似形としての劇場。の相似形としての世界。宇宙。と広がっていくとき、それぞれの世界はいわば「閉じた」不毛です。外側の世界から影響を受けることは(実際はあるのですけれど)、ないように思われる。その「閉じた」不毛から外側へ、逃げ続ける「足」としてのバスは、いったいどこを走っているのか?やっぱりそれは、文字通り、舞台と客席の狭間、境界線上を走っているのだと思います。

     こんな言い方しちゃうのも気障ったらしいのですけれど、バスは「メタ不毛」とでも呼ぶべき不毛を引き受けていると思います。つまり、閉じた世界を抜けて、外側へ外側へ、無限に後退していく。ところが、そのバスでさえ、不完全なのです。なぜなら、「循環バス」だから。男はいずれ、どこかでバスを降りて、違う「足」を探さなきゃいけなくなる。外へ外へと逃げていくことを選んだ男は、来たほうへもどることはないのです。常に、新しい世界へ。常に新しい時間へ。

     「自らを塵と同一視しても尚、己の内側から芽吹いてくるものから逃げることは出来ない」

     なんてうれしいコメントなんでしょう。涙が出てきます。

     これからも、この場所で、逃走と闘争に引き裂かれながら生きてゆこうと思います。よろしければ次回、また足をお運びくださいませ。劇場で、お待ちしております。


    劇団肋骨蜜柑同好会
    フジタタイセイ

    2012/12/20 13:13

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