幻想の方舟 公演情報 ミームの心臓「幻想の方舟」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    等身大のリアルさ
    いい感じにアナクロなアングラ感。
    熱気がある舞台。
    見終わって、「これいいんじゃない」と少し鼻息荒くなった。

    酒井一途は今後も注目に値する作家ではないか。

    たぶんこの物語はコレではないか、と思い当たったことを、失礼ながら、ちょこっと「ネタバレ」に書いてみた。…ちょこっと、と言いながらいつもの長文ではあるのだが…。

    この長文は、作家の想いとは相当のズレはあるとは思うが、深層心理にはこういうことがあったのではないか、と思うことだ。

    ネタバレBOX

    前作『ケージ』では、10代の作家が書いたとは思えない内容に驚いたのだが、それはギャップのようなバイアスで観ていたような気がする。
    もちろん過去を描くことで現代を映し出すようにはなっているのだとは思ったのだが。

    しかし、今回は、リアルな若者の姿がそこにあった。
    まさに等身大の、若者の姿だ。

    「滅びてしまった世界」とは、主人公(たち)が、幻滅してしまった世界(社会)そのもの。
    土地は沈んだりしてないし、もちろん人も生きて生活している。
    しかし、「滅びてしまった」のだ。
    そう断言してしまうほど、世界(社会)を憎み、断絶したいと願う心が「滅びてしまった」と告げるのだ。

    彼(ら)は、そこから「方舟」に逃避する。「救済」を求めてだ。
    この「方舟」は、彼(ら)の実家の2階にある自分の部屋でもいいわけなのだ。
    「救済」を求めるのが、「パソコンの中」だっておかしくはない。

    はっきり書いてしまうと、「彼ら」ではなく「彼」、つまり、シャンスラートの物語なのだこれは。

    シャンスラートは、自分を待っている人、自分が何者かであるということを言ってくれる人を欲している。誰だって、「待っていてくれる」のはうれしいものだから。

    シャンスラートにとっては、待っていてくれる人が方舟にはいる。
    道化とミナだ。道化はシャンスラートが重要な人であるということまで言ってくれる。
    そして、特にミナの存在は大きい。
    なんて言っても、シャンスラートがひと目で恋に落ちてしまうような少女が「待っていた」と言ってくれるのだから…。

    そんな都合のいい話は、そうないわけで、そもそもシャンスラートが乗り込んだ方舟は、友人とどちらが本当に乗ることができたのさえも微妙だ。

    こうなると、社会と世界に絶望した主人公が、逃げ込んで閉じこもった場所が「方舟」だったことがわかってくる。

    シャンスラートは、外に「救済」を求め、誰かが与えてくれると思っているがそんなことはない。
    道化は「案内はするが、道を示してくれるわけではない」のだから。

    同室の男=どうし=同士=導師という男がキーマンになるのかと思ったら、シャンスラートの友人を見ると単に洗脳されてしまっているようだし、そこに「救済」はない。

    この方舟の中の出来事は、シャンスラートの「セルフ・カウンセリング」の様相さえある。
    自問自答し、「解(救済)」探す。
    別の「方舟」という、とても気味の悪い「救いの手」も現れる。

    彼の心の旅が方舟の騒動のすべてだ。

    結局、シャンスラートはどうしたかと言うと、ミナと出会うことで、「方舟」から出ることができるようになる。
    すなわち、「自分の方舟(殻)」に閉じ籠もっていたのを、「滅んだ」はずの社会に出るという決意をするのだ。
    あの大きな音は「殻」が崩壊していく音ではないか。シャンスラートが(脳内もしくは自室で)作り上げた「方舟」が不要になってくるので、崩壊しつつある。

    当然、「方舟」と「世界」は「初めから地続き」であって、それに「気づく」ことも、主人公の「救済」=「治癒」と言えるかもしれない。

    ミナは、二次元彼女かもしれないし、脳内彼女かもしれない。
    だが、これが「救済」の第一歩にはなる。

    つまり、この物語の主人公は「病んで」いた話ではないか。
    しかし、作者自身がそこまででなかったので、「救済」を求める時点ですでに「快方」に自ら向かっていたところから物語が始まっていた。
    本当に病んでいたのならば、自己否定などが伴いそうなものなのであるから。

    シャンスラートは、外に出ることができたのだが、外の「世界」はあいかわらずのままだ。脳内彼女とともに、その外海の荒波を乗り越えていけるかどうかは、まったく不明である。
    彼には、強い信念や信条があるわけではなく、そうした「甲冑」を身に纏わなければ、これからも辛いことが待っているような気がする。
    「出る」だけで、そこがこの戯曲の弱さではないかと思う。物分かりがよくて、簡単すぎるラストなのだ。

    今回は、思出横丁の岩渕幸弘さんが演出を担当した。
    たぶん、 酒井一途さんが自ら演出したとしたら、この熱さの感じにはならなかったように思う。もっと内側にこもる熱さになったと思うからだ。
    岩渕幸弘さんの演出は、華やかな熱さがあった。飽きさせず舞台に惹き付ける演出だったと思う。大昔の小劇場の舞台って、こんな感じに意味もなく熱かったな、なんて思い出したりした。
    アナクロな感じだけど、現代。いい意味でアングラ。

    ただし、舞台のサイズを考えると冒頭のつかみはOKなのだが、少々ガチャガチャしすぎであったし、ラストに盛り上がるところへの助走部分〜ミナが人質になったあたりから〜テンションがストレートに高すぎて、見ているほうが息切れしてしまった。(激しい中にも)もっと抑えたやり取りから、スピードを増していき、みんながもうひとつの方舟に手を振るところで頂点に達するというほうがよかったのではないだろうか。その波から、ラストのシーンにつながるほうが見せたと思うのだ。

    主人公のシャンスラートは、もっと常に舞台にいたほうが、彼の物語であることを印象付けられたと思う。
    また、彼が本気で「救済を求めている」ようには見えないのが残念。もっとヒリヒリ感が欲しい。というか、「追い詰めて」欲しかった。

    道化役の橋本さんは、その役柄のためか、印象に残るがのだが、彼女も含めて役者のこととか、いろいろと問題はあるのだが、酒井一途さんは、今後も注目していきたい作家だと思う。ミームの心臓も。

    あとは、受付等の印象も良い。「煙を使うので、気になる方にはマスクをお配りします」など、細かい心配りもよかった。難を言えば、非常の際の注意事項かな。

    彼の演出ももちろんいいのだが、今回の作品のように、戯曲ごとにマッチしそうな演出家をチョイスして演出させるのもいいと思う。
    そうすることで、役者たちも鍛えられると思うからだ。

    星は期待も込めて、の数にした。
    表示できるのならば、★★★★☆と、こんな感じかな。

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    2012/10/03 07:13

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