満足度★★★★
政治と哲学の根底
表現は、基本的にアナーキーな根を持つべきだと思っている。恐らくは、生命そのものが、DNAによる設計図、その適用と環境のマッチングにあるからである。そして、マッチングは試行錯誤そのものであるから。生命が物それ自体であるなら、エントロピーとの関係で、それらは、エネルギー消費の最も少ない、即ち安定する方向に進むはずである。然しながら、生命は、ことほどさように単純ではない。物の物理法則がこのようであるだけで、生命が発生するとは、現在考えられていないのである。
実際、生命の発生段階における分子レベル、或いは、素粒子レベルの、ある条件下での振る舞いについては、まだまだ分からぬことが多い。然しながら、生命を形成する条件は、エントロピーの安定相とカオスの中間にこそ存在することが、恐らく確実である。実際、これらの知見は、生命発生をシミュレートした数々の実験でほぼ証明されている。
一見、演劇とは、何の関係も無いように感じられるかもしれないが、さに非ず。生命が以上のように安定相即ち秩序とカオス即ちアナーキー間にこそ発生源を持つのであれば、その構造自体は、生命維持、再生産に必要なだけの安定性を持つと同時に自らが学習し、進化する際に情況に対応し続けることのできるフレキシビリティーを持たねばならない。これを人間的価値観を表す言葉に変換するならば、自由ということになろう。この文章の最初の一行に書いたように、表現がアナーキーでなければならないのは、生命そのものが、その辺縁で生まれ活動しているからなのである。安定相よりは、カオスに近い辺縁でそれは維持される。
この作品で表現されている事象は、実際に、この国の首都で問題化した事実を基にしているが、首都の長の行っていることは、以上述べたような生命の根本的原理に反する。ということを考えさせる、案外、哲学的、遺伝子生物学的、コンピューターサイエンス的、複雑系的な作品である。従って、ここで、扱われる問題に性が絡むのは必然なのである。