グンナイ 公演情報 万能グローブ ガラパゴスダイナモス「グンナイ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    喜劇にキ印さんは鬼門
     毎回、一定水準のシチュエーションコメディを提供してくれる、福岡では貴重なエンタテイメント中心の劇団。
     しかし、感想もまた毎回同じで、総体としてはそこそこ面白いものの、既成作品の枠を超えたものではなく、設定に無理があり、伏線の張り方にもほころびが見受けられ、役者の演技ももう一歩、一応は中央でも通用するレベルに達してはいるものの、十年一日で進歩がない、ということになってしまう。
     毎回、暢気な人々の暢気なやり取りで物語を構築するのが定番であったが、今回はサイコホラーなテイストも加味して、“この劇団にしては”新機軸を打ち出してはいる。しかし、単体の演劇として観た場合、それも決して目新しい手法ではない。
     ルーティーンワークを否定するつもりはないし、「とりあえずハズレはないから」という「安全策」を取って毎回観に来る常連客が多数いるのも理解はできるが、それは同時に、この劇団が「演劇的な驚き」とは無縁であるという事実も物語っているのである。

    ネタバレBOX

     川口大樹は、福岡では最も計算された戯曲を書ける「作家」であるとは思う。
     シチュエーションコメディを書ける才能の持主が、全国的に見ても決して多くはないという現実も、彼には有利に作用している。コンスタントに一定水準の作品を送り出すスキルは確かに高く、中央でも充分集客を続けていけるだろう。しかしそれは、三谷幸喜がかつて「ライバルがいなかったから自分は売れた」と述懐したのと同じ理屈だ。
     何しろヨーロッパ企画の上田誠程度の腑抜けた喜劇ですらヒットしているのである(もっとも映画では上田誠は惨敗続きである)。相対的に川口大樹が「優秀」に見えてしまうのも無理はない。

     しかし、子細に見ていけば、『グンナイ』にも設定や構成の不備は随所に見られるのだ。
     海外のリゾートに集まった人々、彼らにそれぞれの思惑があり、決して偶然に遭遇したわけではないことが次第に明らかになっていく、そのアイデア自体はミステリーの定番であって、決して悪くはない。
     だが、これは三谷幸喜にも言えることだが、本来、集まるはずのない人間を集結させるために、一部の登場人物を必要以上の間抜けやサイコさんに設定してしまい、その結果、無理が生じてしまっている部分がかなりある。

     たとえば、会社社長となったタミオ(松田裕太郎)は、兄が自殺したために仕方なく社長の後釜に就いたという設定である。しかし、はたして自分の婚約者の正体にも気付かないほどの間抜けを社長の椅子に据える企業があるものなのだろうか。いや、世襲制の会社ならありうると言われるかもしれないが、婚約者の和美(多田香織)は明らかにサイコさんなのである。社長本人は間抜けでも、仮にも記者に取材を受けるほどの大企業の幹部が、あからさまに頭のおかしい社長の婚約者に関して、素行調査を全く行っていないようなのは不自然極まりない。本当なら、その時点で和美が兄の元カノであることは判明しているはずなのだ。
     井手(椎木樹人)や船小屋(松野尾亮)が、チームメイトの姉である渚(横山祐香里)と全く面識がないことも不自然だ。「私を甲子園に連れてって」と約束した身内が、高校野球の応援に一度も行ったことがないのか? 渚がサイドスローのフォームを取ったことでようやく井手は彼女の正体に気付くが、脚本家としては巧くトリックを仕掛けたつもりなのだろうが、実際には「もっと早く気付けよ」という印象しか観客には与えない。
     同じように、宗教団体の探索を行っている女がいるという情報を手に入れていた天草(阿部周平)が、渚の顔写真一つ持っていないのも変ではないか。情報が情報として機能していないのだ。

     そんなことは枝葉末節だと主張するのは、シチュエーションコメディを知らぬ者の妄言であろう。勘違いや思い込みやウソを絡み合わせて喜劇とするためには、こういったディテールに細心の注意を払うことが基本条件であるからだ。
     伏線は張っているけれども、それがご都合主義で紡ぎ上げられているのは決して誉められた話ではない。そういう杜撰な設定が多すぎる。結果、「それはありえないだろう」という印象を観客に与えてしまっている。この「杜撰さ」は、川口大樹が、自作の範として三谷幸喜を置いていることが原因ではないかと推測するが、むしろ三谷が範としているビリー・ワイルダーやレイ・クーニー、ニール・サイモン、エルンスト・ルビッチ、メル・ブルックスといった喜劇の先人たちを参考にした方が、瑕瑾は少なくなっていただろう。
     彼ら海外作家たちの諸作に不自然なご都合主義は少ないし、あっても「勢い」で押し切るスキルを持っている。川口大樹の戯曲からすぐに「ほころび」を発見してしまうのは、彼が三谷幸喜流の「台詞のもたつき」までも踏襲しているせいで、その結果、ドラマとしての「勢い」を失ってしまっていることにも原因があるのだ。

     全てが烏有に帰すラストは、『アッシャー家の崩壊』パターンで、これも目新しくはない。
     というか、和美というサイコさんを出した時点で、ラストまでの展開が概ね読めてしまうのである。自分が今言ったことを否定してしまうほどの狂人に彼女を設定する必要がどこにあったのだろうか。もう少し筆を抑えて、ちょっと不思議ちゃん、程度の描写に留めておけば、観客に先を見透かされることもなかっただろうと思う。

     川口大樹も、ミステリーやサイコホラーをそれなりに読んではきているのだろう。しかし、どうにも「不慣れ」な部分が目立つ。役者たちもまた、陰影のあるキャラクターを演じるにはまだまだ実力不足で、特に井手と船小屋の二人が、麻薬や野球賭博に手を出して親友を死なせた罪悪感や屈折を表現しきれていない。
     演技的に「見られた」のは、胡散臭い宗教家を軽やかに演じた天草とケンケン(加賀田浩二)くらいのものであった。

    0

    2011/06/03 00:00

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大