GREAT CHIBAが投票した舞台芸術アワード!

2017年度 1-10位と総評
炎 アンサンディ

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炎 アンサンディ

世田谷パブリックシアター

パンフレットを読む限りでは、役者の皆さん(再演がそもそも好きじゃないのか)、今回の再演には乗り気ではなかったみたい。それでも、オファーがあり、それに誰一人として欠けることなく出演したのは、この作品には、まだまだ演れることがあるという判断なんだろうな。
麻実れいさん毅然とした演技、娘時代の演技との乖離が素晴らしい。
岡本さんが後半出てくると(前半にも他の役で出てくるんだけれども)、舞台の重さは、とたんに軽くなると同時に陰惨さを纏い、雪崩を打つように悲劇色を濃くしていく、こういう役はうまいよなあ。那須さんも、童女のようなあどけなさを演じられる稀有な役者さんだし。
3時間強があっという間でした。

わが兄の弟

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わが兄の弟

劇団青年座

遠近法を強調するかのような、前傾になった舞台。皆さん三半規管大丈夫なのだろうか。舞台上の明るい会話もユーモアも、全てにほんのりと死の影を漂わせる舞台です。
ただ、舞台上では誰も死にません、それは語られるに過ぎず、故に死の現実は夢幻のように虚ろで、ただ香り立つしかないのです。
「贋作」いいじゃないですが、立派なチェーホフ傳ですよ。

第一幕のアントンとニーナの軽妙なやりとりから始まり、第二幕に少しだけ影を落とす。その影は、第三幕で確信となり、第四幕で決定的になる。それでも、希望は消えない。アントンが天上の亡き兄ニコライに自分の心情を吐露する部分が素敵だ。目の前には、悲惨な現状(ニーナにとっても、そしてアントンにとっても)が突きつけられているのに、人間は希望と喜びを見いだせるのだなあ。
チェーホフの30歳、なぞのシベリア訪問に材を取った本作は、ラストまで影を濃く濃くし、彼の苦悩を大きく大きくしながら、一気に駆け抜けるように魅せる爽快感も素敵です。そこか、アントンはそこへ行きたかったのだね。この時点で余命14年か。
先月、俳優座で観た「彼の町」で、鈴木瑞穂演ずる老演出家がラスト近くで発する、「チェーホフは、もっと生きたかったのだと思うよ」というセリフが浮かんできて、なぜかとても感傷的になってしまった。

「蝉の詩」

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「蝉の詩」

劇団桟敷童子

私は月1回、母親と演劇を観に行きます。歌舞伎(たまにオぺラ)ということもありますが、新劇が多い傾向にあります。母は戦前の生まれ、あまり突飛なものにならないことや、割とゆったり観れること、そしてできれば彼女の生きた時代と重ねられることなどを思うことからそうした傾向になっているのだと思います。

ですから、小劇場などはまず想定していなかったのですが、桟敷童子とチョコレートケーキには、母親にも観るべき何かがあるという気がしておりました。

そこで求められるのは、昭和の風景です(必ずしも明るく快いものばかりではありません)。しかし、俳優座でも民藝でも文学座でも、昭和という時代を見せてくれくれる舞台には出会えません。苦しさは個人の感情に還元されてしまい、明るさもお茶の間的なほのぼのさとしてしか表現されないのです。

そして、「蝉の詩」。初めての小劇場でしたが、見せてよかった。それは私もうろ覚えながら知っている昭和であり、感じてきた昭和がありました。生きることへの執着のある時代。これほど見事な世界を作り出すとは。

この舞台の高い悲劇性・悲惨さも、人間のリビドーが作り出す笑いでうまく中和されています。それが素直な観客の涙につながるのでしょう。けして悲劇への感情移入が涙を流させるのではなく、ひたすら湧き上がる高揚感が涙を流させるのです。桟敷童子の力量の高さです。母に見せて正解でした。
ラストの描き方について幾つかのご意見があるようです。

織江のその後の数十年が判らないのでラストでの感情移入ができない、ましてや、ホームレスの老人になった織江に、今は亡き皆が「もっと生きろ」と言うことに何の意味があるのか、というご批判はごもっともです。

確かに描かれない、織江の生きた数十年に観客が想いを馳せるのは困難です。亀吉から相続したであろう遺産はどうしたのか、夫はいつどうして死んだのか、子供はいないのか、なぜアイスクリーム屋は失敗したのか。判りません。
ただ辛いだけの人生ではなかったのだろうとは、織江が姉の言葉(まっすぐに生きろ)を今も忠実に守っていることから推察できます。

ラストで皆が「もっと生きろ」ということの意味は、題名でもあり劇中で創作される「蝉の詩」にあるのではないかと思いました。

蝉は「みん」と鳴く、「死にたきゃねえ」と鳴く

人は死ぬと蝉に転生すると劇中で語られています。また黄金色の蝉を見つけると一生幸せに暮らせるとも。

織江はその最期を考えれば、黄金色の蝉を見つけることはできなかったのかもしれません。でも蝉に転生した時、彼女が黄金色の蝉になっているかもしれません。それで人を幸せにして、7日目に「みん」と鳴くのでしょう。

きっと、そうした意味でも織江に、皆はもっと生きろと言ったのではないでしょうか。

確かに織江は、まだみんなのところ(姉達や亀吉のところー黄泉の国)に行けないのかい、と一瞬嘆きます。ただ、彼らのエールはそんな弱気じゃだめだよ、「みん」と言ってみろということではないでしょうか。織江が最後に、気を取り直してアイスクリームの旗を振るのは、彼女なりの鳴き方だったのではないかと思えて仕方ないのです。

歌舞伎ミュージカル「不知火譚」

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歌舞伎ミュージカル「不知火譚」

劇団鳥獣戯画

奇しくも今年正月に、国立劇場で上演された歌舞伎「しらぬい譚」と同じ原作の歌舞伎ミュージカル。「奇しくも」というのは、この演目自体が「復活通し狂言」と銘打たれるくらいに滅多に上演されないので、ジャンルとしては異なりますが、このスパンで上演されること自体が奇蹟に近いのです。
歌舞伎では、天草四郎などのお家転覆のファクターはなく、あくまで鳥山親子VS若菜姫、化猫(別に連合軍ではない)の図式で進んでいきます。
鳥獣戯画は3部作で、この大長編戯作を、できるだけ原作に近づけて(といっても、十分に歌舞伎以上に傾いてくれるのですが)演りとげる所存のようです。
まずは第一段。けして派手ではないですが、舞台転換をさくさくと進めながらテンポよく話は進んでいきます。仕掛けは凝っており、若菜姫が蜘蛛の精に連れ去られた後の空中演舞、後の天草四郎が亡き父の亡霊と会うときの演出、殺される悪女とその色との首ダンス、ラストの大掛かりな〇〇登場と蜘蛛の巣のセット。
いやあ、お世辞抜きで、笑いあり、活劇あり(殺陣もしっかりしているんですよね)、ダンスありの舞台はまさにエンターティメントの粋をいっております。適度に歌舞伎の所作・ルールを意識しているところなど心憎い。
石丸さんの悪女ぶりがいいですね。小股が切れ上がった痛快な悪、でも、今回で死んでしまい残念。(次回からはナレーターやるのだそうな)
出演人数も多く華やかで、ラスト出演者全員でのレビューは圧巻です。舐めるなよ伝統芸能!!!とい喝采を上げたくなりますね。
鳥獣戯画というと、当然、主演はちねんさんとなるのですが、相変わらずの活舌の良さが時代劇の雰囲気を盛り上げてくれます。しかし、あれは意識したギャグなのか、いかにもなちょんまげかつらは何なんでしょう。他の出演者がナチュラルに決まっているだけに、浮き気味です。また、どうしても、他の男性演者と比較すると、体格で劣るので、次回以降、一層の活躍が期待される中で、殺陣が増えてくると(上手下手ではなく)絵面で少し心配です。
次回はスズナリとのこと。箱が小さくなる分活劇度が心配、今回のようなダイナミズムを失わないように宜しくお願い致します。でも、来年秋はちょっと長いなあ。せめて1年後にして欲しかった。
最後にアンケートについて一言。今回は出しませんでした。理由は単純裏面に、登場人物の相関図が印刷されており、これ販売されているパンフにも掲載がないのですよ。となれば、次回観劇の際の記憶の必須アイテムです。これは、別紙面にしてくれないといけません。

旗を高く掲げよ

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旗を高く掲げよ

劇団青年座

今、日本人が新たにナチスドイツ下の庶民の生活を描くことには、時代の要請があるのだと思う。彼らのような悔恨を抱かないために。
脚本家・演出家の時代に対する矜持を感じさせる力作。
結局、自害しなかったハロルドと妻レナーテ、彼らの信条というのはそんなに儚いものだったのか。娘が生きていることを祈っている、私たちはナチスに騙されたと言い切る厚顔さには、悔恨の情は、微塵も見られない。彼らが父親と娘を殺したのではないか。
抗うことをせず、自らの判断に頼らず、多くの友人たちの助言に耳を貸すことなく(むしろ、彼、彼女らを蔑んでいるかと思われる)、自己正当化を図る。醜悪だ。もちろん、私自身が同じ境遇だとして、声を上げて時代の風潮に抵抗できたかと言えば、それはできまい。
しかし、自らの間違いを認識し反省できる人間ではありたい。
ナチスの次には、嬉々として社会主義の受容にいそしむ2人を見ていると、ユダヤ人オットーの懸命な(あるいは賢明な)生き方が眩しく見える。
この夫婦が長命にして、ベルリンの壁崩壊を観た時、彼らが国家社会主義・ナチスが悪い、と罵ったように、ソビエト社会主義が悪いと、また罵るのだろうか。

『熱狂』『あの記憶の記録』

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『熱狂』『あの記憶の記録』

劇団チョコレートケーキ

「ある記憶の記録」「熱狂」を連日で観た。他のコメントにあったような、聞き苦しさとかタイミングの早さとかは感じず、相変わらずの熟成度のある芝居だなと感心しきり。

ただ、連日で観て、かなり周りの観客の方々が厳しい批評眼で観られていた(なぜか若い女性の方)ので、細かく見ればいろいろとあったのかもしれないが。結構、終演後、辛辣に語っていたからなあ。そんな見方をされる劇団になったのですねえ。

ただ1人2作に出ていられる浅井伸治さん、どちらもストーリーテラー的な役割なのだけれど、一方は強面のSS、一方は人の好い身の回りの世話係と、ものすごい好対照。

古川氏の今年演じられた脚本、「熱狂」→「旗を高く掲げよ」→「ある記憶の記録」→「幻の国」と繋げてみると、戦中戦後のドイツ負の歴史とでも言おうか、何かとても感慨深い。古川氏がパンフで書いていた「知的好奇心」のなせる業なのだろうけれど、なんとも、それに留めておくのがもったいない気がするほどの連続性、体系性だと思う。

フォトジェニック

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フォトジェニック

鵺的(ぬえてき)

本当にテンポよく話が進んでいき、そのテンポのよさが、本編を貫通するおぞましさをどんどん高めていきます。1人2役をセリフだけで演じることや、映像を使うことで、ごちゃごちゃしやすい舞台上をすっきりとさせており、判りづらくなりそうな筋立てを簡潔にしてくれています。
橋本恵一郎さんの乾いた滑舌と、感情の露出を一切遮断する目の演技は小劇場ならではの快楽でした。(大きな劇場では感じられなかったでしょうから)
また、鵺的を体現する奥野亮子の薄幸演技はもう鉄板の域ですね。(私生活でのお幸せをお祈りしています)
そして、チケット前売り完売おめでとうございます。今年も、鵺的に期待できそうです。よい芝居を見せていただきありがとうございました。
小崎愛美理さん、帰り際にお近くで拝見いたしましたが、さすがにおきれいです。彼が男性の役ということが途中で判った時には、さすが、この倒錯感は鵺的だな、と感心しきりでした。「肉便器」「すりこぎをアナルに」というセリフは刺激的でした。(電話をかけてくる編集者役の声とのギャップが、こうしたセリフのエキセントリックさをきわだたせていましたね)
ラストのゲストは「天使を汚せ」を拝見された方であれば、すぐお判りになると思いますが、彼女あの芝居では生きているんだよねえ。それに、この芝居では、〇は彼女を愛していることになっているけれど、「天使を汚せ」では憎んでいるから、やはり別人ですね。
ラストについては、批判的な評価が見られますが、設定が悪いというのではなく、全てゲストさんに言葉で説明させたことに問題があるのだと思います。その分凍てつきかけた空気がちょっとぬるくなってしまったかと。もう少し、演出で感じさせるようなところがあるとよかったのだと思います。ましてや、あっけらかんと、モデルで採用を申し込んでくるというも、その後の話の暗転を狙ったのでしょうが、やや蛇足気味な感じがします。観客の知らない間にすでにモデルになっているとかね。
ラスト近くのカメラマン(橋本恵一郎さん)が宣言通り舞台は戻ってこなかったこと、ラストの場面で死んだはずの✖✖が入ってきて客席に背を向けて座るところ、そして一瞬暗転すると壁にかけてある4人の写真がおぞましく変化していること、こうした演出の妙が、ラストの評価を一層厳しくしているのかもしれません。
ちなみに、あの胎児はどうしたのでしょうか。次作の布石の感もありますよね。

THINGS I KNOW TO BE TRUE ーこれだけはわかってる-

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THINGS I KNOW TO BE TRUE ーこれだけはわかってる-

幻都

大森博史、山本道子の安定感のある演技を中心に、4人の子供たちがそれぞれの人生をセリフの中で個性豊かに演じられている。丁寧な演出の朗読劇でした。

家族をよく幻想だと喩する表現を耳にするけれど、それは理想としての家族がそれぞれあって、それが家族内で相互に違っていて、現実との乖離に疲弊したり失望したりするからなのだろう。しかし、そうならない家族像というものが存在するのだろうか。そもそも、初めから家族などに期待したり、依存したりしたりしなければ、家族像などというものは描くことすらないのだから。

皆ちりじりになる家族、それぞれの思いを込めて。子供たちは未来を観、親は過去を観、愛するがゆえに通じない心のもどかしさ。
ある子は、家庭の中に人生の総てがあったと言い、ある子はこの家の中には何もなかったと言う。この違いは何?母親は言う、皆公平に同じだけの愛情を注いで育ててきたのだと。

朗読劇はつくずく、見せるものなのだな、と思う。
役者の位置、移動、視線、手や足などのちょっとした所作が、かなり大きなニュアンスや波風を生じさせる。その意味でも、この舞台は声だけでなく、十分に舞台劇としても成立している。

必見。
家族が全員揃うのは、序盤で次女が旅から戻ってきたと来た時だけ。ラストで揃った時には1人欠けていた。象徴的だな、気付いた時には集まりたくとも、集まれないのだから。

家族を描いた作品なのに、家庭内の様子はさっぱりわからない。しかし、庭の様子は手に取るように判るのは、庭が両親の生きる場であり、子供たちが訪れてくる場であり、去り行く場であるからなのだろう。親と子をつなぐ象徴なのだろう。そこでは四季が移ろい、痛みを伴う諸々が起きる。家族の知られざる素顔を観ることもできる。

バックに映りだされる四季と僅かな文言、そして木々の木漏れ日に雨、最後に多い出す漆黒の闇。夏に咲くバラ、それは咲き始めの時期が一番美しいと、父が次女に言い、母はバラを抜いて、別の植物を植えないかと言い出す。でも、まだまだ、この家族の物語は続くのだな、と思わせるスクリーンプレイが素晴らしい。

Die arabische Nacht|アラビアの夜

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Die arabische Nacht|アラビアの夜

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ローラント・シンメルプフェニヒの「語りの演劇(Narratives Theater)」とはそういうことだったのか。本来、演劇とは「語るな、演じろ」ということが基軸だと思っていたし、説得力を感じていた。しかし、壁も扉も階段もない空間で、床に示されている位置や状況のみを説明する文言。登場人物は舞台装置の変換ではなく、自身の発する言葉で、今の自分の状況を示し心情を吐露する。始めは何とも違和感を感じたけれど、進行するうちに、その最小限とも言える身体表現が言葉で膨れ上がり、何よりも大きな説得力を持ってくるのである。なるほどね。
フランツィスカは6歳の時、両親との旅行中イスタンブールで誘拐される。そして、とある首長の下に連れてこられ、第何番目かの妻として、たいそうかわいがられ、20歳にして本当の意味で妻となる。しかし、彼女への過大な寵愛を嫉妬した第1夫人は、フランツィスカにつらく当たるが、それを見咎めた首長は第1夫人を処刑。その時の呪詛の言葉が、現代のフランツィスカを覆っている。彼女は月を見ることができず(睡魔と記憶の欠如が毎夜彼女を襲う)、彼女と口づけをした者は死に至る。
カルパチ、カリルは次々と摩訶不思議な死を遂げるのだけれど、その後、ローマイヤーはどうなったのだろう。
矢野靖人氏は、パンフでこの芝居を「実存」というテーマで語っている。確かにそうした見立ては悪くない。でも一方で、伝奇であり幻想譚でもある。タイトルからも連想されるように舞台には終始アラビアンナイトの趣があり、何ともエキゾチックだ。
そして、よくよく思えば、かなりエロチックな芝居だ。
フランツィスカは終始ほとんど全裸なのだし、カルパチは覗きに精を出し、カリルは複数の女性と情を交わす。ローマイヤーの下心もあけすけだ。
矢野靖人さん今度は、もっと耽美的な演出ではいかがでしょうか。でも、そうなると全く別物になって、「語りの演劇(Narratives Theater)」ではなくなるでしょうね。
劇場ではないので四方に窓がある、夜の回だと、ちょうど舞台上の時間と重なるように、日の光が宵ばりに変化してとても舞台の雰囲気を盛り上げてくれた。
そう、この舞台が演じられたのは、舞台設定とおんなじ建物の8階なのです。

「ガドルフの百合」

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「ガドルフの百合」

HyouRe Theatre Company

帰り際にチラシを2枚もらい、友人に勧めようと思ったのだけれど、よく考えたら翌日が最終日。そう2日公演で3回しか舞台がない。うーん、面白い舞台なのだが口コミができない。
ガドルフはひたすら先へ進むのだが、歩は全く進んではいかない。彼には「雨ニモ負ケズ」の主人公のような明確な意思があり、誰かの力になることを望んでいるが到着地は来ない。一方で彼を待ちわびる人々は地面にひれ伏してひたすら彼の到着を待ちわびている。ガドルフの行く手を遮るのは、風や雨(これを女性ダンサー演じるのだけれど、その身体性が絶妙)である。彼はたどり着くことができるのだろうか。
ラストシーンの地平線を前にひたすら待つ人を演じるシーンはちょっと斬新でしたね。
ただし、「雨ニモ負ケズ」の3人の輪唱形式の読み上げで、ミスが出たのは、前半と後半を繋ぐ重要なパートなだけにちょっと残念。でも、必見の舞台です。

総評

古川健の力と、桟敷童子の安定感が際立ちましたね。小品にも観るべき作品が多かったですね。「ギャガプシー」「救済」に票を入れられなかったのが残念無念。

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