ミュージカル『メンフィス』
ホリプロ
新国立劇場 中劇場(東京都)
2017/12/02 (土) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★
今年、歌と踊りのショー系のミュージカルでは一番の出来ではないか。山本耕史は子役の頃から見ていて賢そうだな、とは思っていたが、こんなミュージカルを歌い演出する才能があったとは!
ドラマの筋は単純な黒人差別の物語で、常識的な展開なのだが、メンフィスと言う場所にこだわりがあって、上滑りしていない。黒人地域の中の下流白人で偏見を持たない、という役どころを山本はうまく演じる。ここも上滑りしていない。相手役が濱田めぐみで、歌唱力はあるし、動きもいい。テンポのいい展開で客席もミュージカルの楽しさに巻き込まれる。このジャンルならではの舞台である。脇も、根岸季衣とか、栗原英雄とか、芝居からの人をうまく使っている。
いつもはだだっ広くてしまりのないこの劇場をうまく埋めた。一幕の中ほどで上下に道具をいたシーンが唯一間が抜けて感じがあったが、狭いDJスタジオをサット広げていく演出など鮮やか。フレームを付けた美術もいい。踊りも型どおりと言うところが少なく、舞台が生きている。ホリプロ久しぶりの演出人材発掘大成功である。
年末の忙しい時期にいいものを見せて貰った。、
斜交~昭和40年のクロスロード~
水戸芸術館ACM劇場
草月ホール(東京都)
2017/12/08 (金) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
すっかり昭和史の事件となっている「吉展ちゃん誘拐事件」を描いたのが「斜交」である。舞台は取調室の一室。三度も長い取調べを受けていながら決定的証拠がないと見て否認を続ける被疑者(筑波竜一)と、警察の威信を背負って任命された切り札の刑事(近藤芳正)の最後の10日間の白熱の取り調べだ。
刑事は、被疑者が犯人である状況証拠を自らの足で確かめたうえで取り調べに臨む。法廷に送るには犯人が自白するしかない。三度の取り調べを乗り切った犯人はあの手この手で逃げる。最後の日、刑事は被疑者のちょっとした証言のほころびから収集した状況証拠を一気に突きつけて落とす。密室の中の追跡劇に、強い心情証拠となるいくつかのシーンが挿入されている。半世紀前には大きな話題だった事件だけに当時はこの最後の取り調べも含めていくつもの記録が書かれ、映画やテレビ、流行歌のテーマにもなった。
今回の企画は刑事の出身地の水戸芸術館の企画で、近現代史でいくつも秀作のある新鋭古川健が書き下ろした。狭い取調室で追うものは、追われるものの心情に触れて自白を引き出そうとする。二人が対峙する形式は演劇では珍しくないが、効果を上げるのは容易ではない。今回の刑事役近藤芳正はかつて三谷幸喜の「笑の大学」で追われるものを演じて成功している。今回は立場が変わってその経験が生きている。茨城出身の犯人役の筑波竜一もまだなじみの薄い新鮮さが生きた。
斜交と言う言葉は広辞苑6版に載っていない新しい造語のようで、クロスロードと振った副題から察するに交差する道ということらしい。単純には、探偵と犯人と相反する道を歩む二人が交差する、と言う意味だろうが、いろいろな読み方もできる。芝居のフィナーレを見れば、真人間と非人間の交差、とか、人間造形を見れば、日本の高度成長期の格差の交差とも読める。単純にサスペンス劇としてもよく出来ているが、50年もたった事件に改めて考えさせられる舞台でもあった。
水戸仕立てだけに東京公演はわずか3日。草月ホールは下北沢ほど狭くないが、知名度が低い。客席は芝居好きがかなり集まっていたが、フォローできたた観客は多くはないだろう。地方公共団体主催と言う事で、いろいろ下らないお役所縛りがあって、再演も難しいだろう、公共団体いじめ、威張り、はここの所目立つが、残念と言うしかない。
『熱狂』『あの記憶の記録』
劇団チョコレートケーキ
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2017/12/07 (木) ~ 2017/12/19 (火)公演終了
満足度★★★★★
「熱狂」を見た。
中身は、ヒットラーの政権奪取までの伝記劇だが、いくつもの視点のある芝居である。
三島は「わが友ヒットラー」を書いたが、これは平成版・古川版である。三島はレーム事件にまとめたが、古川版はそこに至るまで。
まず時事性。今年、芝居がその時代を敏感に反映すると言う事を、これほど知らせてくれた作品はない。また、大衆民主主義を、大衆の側からではなく、権力者の側で正面から描いた作品も珍しい。スローガンでも、あるいは恰好だけでもいい、大衆を熱狂させれば「権力」は奪取できる、と信じる人間と、それを利用する人間たちのドラマである。ヒットラーが総統と呼ばれることや独裁制にこだわったことなど、歴史の文脈の中で丁寧に描かれていて、独裁の構造とドラマがよくわかる。
何も知らない若者の支持層を広げることが最も簡単な支持拡大方法としたナチは、あの時代でも、選挙では過半数を取れなかった。しかし、ナチは結局,暴力で政権を奪う。同じことは起きないだろうが、「同じようなこと」は起きる。現にアメリカで起きていることは、カタチは違うがセイシンは同じである。日本でもそれは同じだ。この議論は政治論になるし長くキリがないからやめる。芝居では昨年、ケラリーノ・サンドロヴィッチが、別の視点からヒットラーをナンセンス劇にした。キリがないから止める、と言うのはよくないのだが、もう笑うしかない所へ落ちていきかねない。それだけ鋭い時事性がある。
次に戯曲。冒頭、裁判所で有罪の判決を受けながら聴衆を巻き込んでいく「熱狂」から始まり、時事的な背景を織り込みながら、常に形のない、また舞台に乗せることのできない「大衆の熱狂」を描いていく。欲を言えば、最後の政権奪取のあたりが少し駆け足になってしまって大衆の熱狂から遠くなっているのが残念だ。この作家は上手いという点では今、脂の乗った最盛期だ。もう新人ではない。古川は、今年、新劇二劇団に東ドイツを舞台に、ドイツを鏡にわが身を顧みる作品書いている。二十世紀通史が出来そうな勢いだが、それは作者の「今はいくらでも書ける」年齢と言う事もある。過去の劇作家の例を見てもその時期はそんなに長くはない。観客の方から見れば、ドイツはいいから早く「治天の君」に続く作品を書いてほしい。こちらはわが國のことである。年号も変わると言うではないか。それを書ききる作家はそんなにはいない。期待しているのだ。
舞台。演出の日澤は、脚本への寄り添い方がいい。目立たないが巧みに戯曲を持ち上げている。今回は、ナチスを支えた知名人ばかり出てくるのでやりにくかったであろう。三谷幸喜のナチ物のように近くの普通の人が出てきて下世話に通じるシーンがあればわかりやすく出来たのかもしれないが、そこを一人の語り手以外、全く切っているところが、三島に通じる思い切りの良さだ。演出はそこでも頑張った。
俳優はなんといっても、西尾友樹。冒頭のヒットラーの演説は随分フィルムを見たのだろう、見事。やたらに手を振り回すのが常道だが、彼はその時震えている。それでこの作品のテーマ、熱狂へのおののきとおそれがみえた。俳優たちは小劇場中心なので、残念ながら台詞がわかりづらい。初日と言う事もあるだろうが、西尾ですら噛む。発声法から直さないとこの劇場で辛いと,トラムや本多でも無理と言うことになる。地の柄に頼らないで地道なせりふの修練も俳優には必要だ。マイクがよくなったから何とかなるという問題ではない。
作品は10年程前、名もない小スペースで上演したと言うが、今回リニューアルしたという。進境著しい。古川は、前川、中津留、岡田と並んで、平成の代表的な現代ストレートプレイ作家だ。彼らが、再演を繰り返して(中津留はそうでもないが)舞台をシャープにしていくのは、新作疲れから逃れ、エネルギーを温存するためにも、またエネルギーを再生させるためにも賢明な方法だと思う。頑張ってほしい。
黒蜥蜴
花組芝居
あうるすぽっと(東京都)
2017/12/02 (土) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
花組芝居も30年か! ベニサンでやっていたころは、近松心中物語とか、子午線の祀りとか、歌舞伎ネタのものは大舞台と言う風潮だったから、とても新鮮。しかも20歳代の若者が伝統芸能の人たちは入れないでやる(現実にはかなり勉強していたのだが)、と言うのが新鮮でもあり、無鉄砲でもあった。
歌舞伎と言うこの国固有の演劇伝統をどう取り入れるかは、さまざまで、今世紀には木下歌舞伎など面白いものも出てきた。とり付きにくい伝統芸能に若者が尻込みしないで取り組むのに花組も大きな力になったkとは疑いない。筋書でも言っているようにパイオニアの役割は果たしたのだ。あっぱれ!
今回は「歌舞伎浪漫劇」とうたっているが、中身は新派狂言の「黒蜥蜴」。加納幸和の組を見た。
基になる歌舞伎がないので、新しい脚本・演出で、歌舞伎の音曲や振付を取り込んで、物語はほぼ江戸川乱歩に忠実。三島本のように妙に黒蜥蜴美学に酔ってもいない。加納幸和はさすがによく歌舞伎のいいとこどりに慣れているし、今の流行にも目を配って花組らしい健闘なのだが、全体としては、この「黒蜥蜴」はどこが見せ場なのだろうと思ってしまう。
江戸川乱歩の著作権切れでこのところ山ほど、と言うのは大げさだが、多くの江戸川作品が上演された。舞台向きの猟奇原作も多いのだが、これは、と言うのは「お勢登場】位だったのではないか。黒蜥蜴もこの後次々に上演されるが、三島本を超える新しい黒蜥蜴を見たい。それは多分、この原作にもあり、花組も着目した「浪漫」を越えたところにありそう思えるがどうだろうか。
DRUMS
東京芸術祭
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2017/12/02 (土) ~ 2017/12/03 (日)公演終了
国際交流と言うと、よく能狂言を素材にする。日本人ですら一般人はガイドがないと理解できない古典を、いくらプロフェッショナルな演劇人同士とはいえ、安易に持ち出すのはいかがなものか? 同国人の三島由紀夫ですら「近代能楽集」でかなり苦労している。こちらの脚本は古典と三島の混ぜ合わせで、案の定、惨憺たる出来である。同時上演予定の日本人の組は舞台が完成できなかった。これは企画のせいだろう.ワークショップでちょっとやってみるだけ、あるいはテキストを渡して勝手に、と言う国際交流ならまだいいが、公開の公演にするのは無理があった。歌舞伎座のマハバラータもインド人が観ればこんな風だったかと連想する。しかしこちらは日本人が観客である。観客がインド人だったら・・・・。
東京国際演劇祭も国際と言うからにはこういう催しも人の交流が出来て目立つのでいいと考えたのだろうが、演劇の特性を考えて、多くの東京と名のつく国際イベントのようにやってみるだけに終わらないよう企画を練ってほしい。こういうものなら素材を見てもらうだけでもおおいに役に立つと思う。
スカーレット・ピンパーネル
梅田芸術劇場
赤坂ACTシアター(東京都)
2017/11/20 (月) ~ 2017/12/05 (火)公演終了
満足度★★★★
昔懐かしい「紅はこべ」ミュージカル版。タカラズカですでに三演、これも主役は同じで再演なので、手慣れたものである。ブロードウエイではさしたるヒットではなかったようだが、兄弟愛や義理人情が日本好みだった様で本邦では第二次大戦以前からおなじみのフランス革命裏話・冒険劇だ。もともと原作が最初に戯曲で書かれたそうで、人物配置も演劇的だ。
お互いに正体を言えない夫婦に石丸幹二と、宝塚時代からやっている安蘭けい。敵役が石井孝一。この三人が歌い上げるげる曲が多く、歌のうまい人たちだけに歌う方も聞かされる方もミュージカルの気分になる。しかし、レミゼが上演されてしまった今では、「紅はこべ」のイギリス騎士道物語は古めかしい。歌に頼らざるを得なかったのかもしれないが、もうすこし場面ごとに色合いをつけてもよかったのではないか。たとえば二幕。幕開きのイギリス宮廷のシーンはパーティの華やかな雰囲気からコミックな紅はこべの連中の登場、彼が正体を現すか?と言うサスペンスと波乱があるのだが、それぞれの内容が立っていない。
ちょっと、まってください
ナイロン100℃
本多劇場(東京都)
2017/11/10 (金) ~ 2017/12/03 (日)公演終了
満足度★★★★★
特別なものを見たた気分になる芝居である。芝居の内容がいい、とか、役者がうまい、というのではない。舞台の上と一緒に観客が芝居を楽しめる公演なのだ。
ケラの久しぶりのナイロン公演。今回は別役トリビュートである。
確かに、配られたチラシにもあるように、舞台面は別役色満開、登場人物にも、せりふにも、美術にも、ア、ここは象だな、マッチ売りだな、とさまざまな別役作品引用が出てくるが、それがつまらない薀蓄になる前に、ケラのせりふと演出が次々にこの作品独自の笑いにしてつないでいく。その間合いがうまい。ケラの別役への先人に対する敬意も感じられて快い。それが、ズルズルになっていないところがさらにいい。事実、観客はどのように引用されたかは全く知る必要がない。
同じ話を繰り返すしかすることのない金持ち一家が刺激に惹かれて柄にない事を始める。それに金持ちと同じような家族構成の乞食一家が巻き込まれる、と言うのが芝居の大筋だ。夫婦とか家族の持ついかがわしさを、狂言回しのペテン師があらわにしていく。ペテンと詐欺は違う、というあたりに作者が嫌うテーマ性もあるのだが、ここは作者に従って、そこはどうでもいいことにしよう。いかにも今どきの人間らしい主張をくりひろげるかみ合わない家族の笑劇である。
一幕、家族の間には別役的な食い違いの笑いが続く。いつもは話が転がりすぎて笑いも無理強いになりかねないケラの舞台だが、今回は別役を意識してか、実にいい塩梅のところで収まっている。ここが面白いのは、長年のナイロンのメンバーが勢ぞろいした上に客演のマギーや水野美紀がうまくハマっているからだろう。四半世紀掛けて、自分の劇世界を表現できるグループを作り上げたのもケラの凄いところだ。
別役になかったものには映像と音楽がある。今回も、セットに崩れいく線画の映像を重ねて幕間を楽しめる時間にしているし、音楽もきまっている。デモ隊の合唱なんかいい選曲だ。
今回のホンも別役をよく「研究」しているというのではない、「勘所」を押さえるのがうまいのである。それは才能だ。孤立して群れないし後継の作者もいない。だが、本多で30公演打て、見た回は補助席一杯の大入りだった。観客層の年齢バランスも理想的だ。ほかの演劇人からは嫉妬されるだろうが、面白いからやっているんだと、居直って、これからも面白い舞台を見せてほしい。どのような最期を迎えても本望だろう。今こういう覚悟のある演劇人は少なくなった。
休憩入れて3時間十五分。長いがだれた感じはない。
骨と肉
JACROW
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2017/11/15 (水) ~ 2017/11/20 (月)公演終了
満足度★★★★
小劇場と言うと、甘えた自分探しや体験告白が多かったのにここ数年、社会実話派が多くなった。中では、トラッシュマスターズやチョコレートケーキなどが、素材的にもその切り口も従来の社会派演劇を超える作品を生み出してきた。それに次ぐ、というjacrowの新作は、大塚家具の父娘の社長争いである。タイトルも「骨と肉」何のことかと思っていたが、何のことはない只骨肉の争いと言うだけのことで芸がない。舞台も週刊誌で知っているような一族の相克と株主総会の経緯で、先の劇団がやり遂げたような事件の中から時代の生々しい人間像が立ち上がってくるということもない。俳優も父娘はともかく周りの大人たちはかなり苦しい。
しかし、小劇場が自分たちの身近の世界にいない人間たちに取り組むのは後日必ず役に立つ。一族の俳優たちが精彩がないのは、日常的な経験に頼っているからで、社外重役たちには経験がないだけに工夫の跡が見られる。見ているだけなら週刊誌をたちあげたような気楽な再現ドラマ的面白さだった。
取引
オフィスコットーネ
シアター711(東京都)
2017/11/10 (金) ~ 2017/11/20 (月)公演終了
満足度★★★★
j時宜を得た、と言うのにふさわしい芝居だ。森友問題や、加計問題が、話題になっている今まさに、政治家の裏金問題を正面から描いた舞台だ。江戸時代なら、お奉行からお咎め、小屋主は、いやいや、これは異国の話でございますから、などと言い訳しながら大当たり、だったかもしれない。
FBIの潜入捜査官が田舎の州知事の汚職問題で点数を挙げようと二人の捜査官を送り込む。まず、うぶな政治家から始め、次第に大物へと捜査を進めていく、海千山千物語だ。時宜も得ているから、東西どこも同じだろうな、などと思いながら見ているとアクションドラマ並の進行で面白く見られる。
アメリカの20年ほど前の戯曲だそうだが、ほとんど知られていない作家の作品をよく見つけてきたもんだ、と感心するが、では、出来がいいかと言うと、舞台面は十分面白いが、登場人物に、役割以上の色が薄く、数多い台詞をこなした田中壮太郎、小須田康人、福井貴一の主要三役はご苦労様ではあるが、ここから、社会の暗闇はあまり感じられない。それは翻訳劇と言う背景の違いではなくて、多分、戯曲がかけひきの面白さに引きずられたからだろう。そうするには汚職に手を染める側が安いと思う。
しかし、この小屋で補助席がいっぱい出る大入り。それだけの面白さはあるのだが、日本でこの芝居が組めるかと言うと、森友、加計の現状を見ると、複雑怪奇で結末はしりぬけ、とてもドラマとしては成立させられそうにない。
風紋 ~青のはて2017~
てがみ座
赤坂RED/THEATER(東京都)
2017/11/09 (木) ~ 2017/11/19 (日)公演終了
満足度★★★★
宮澤賢治もの、である。没後そろそろ百年にもなるというのに、この作家は衰えぬ人気がある。生前に恵まれなかったと言う事もあろうが、同じ啄木と違って純なところが万人向けなのだ。それだけに扱うのもむつかしく、下手にいじると世論の反撃を食うので、いつも、賢治は不遇の神格化、作品は永遠のファンタジーと言う作りが多かった。
数えきれないくらいの賢治ものが書かれている中で、今生きている劇作は井上ひさしの作品が最も親しいものだが、それも、作者も作品も大団円にうまくまとめたという感じだ。
その中であえて、平成の新進作家の挑戦はいかに?と見物に出かけたが、これが今までの賢治ものにないなかなかの出来なのである。
赤坂の小劇場一杯に組まれたのは遠野市と釜石の間の仙人峠の鉄道未通区間に置かれた駅舎兼旅籠。あらしで不通になったところで、賢治などの旅客が過ごす3日間の物語である。賢治は死の直前の36歳。ロシア革命の年で世界情勢はこの峠まで及んでいる。宿の客は5人、パタン化した役振りなのだがその臭さがない。宿の亭主と亡くなった息子の嫁が切り回す峠の宿もよくある劇的設定なのだが、いつもは型どおりになったりする亭主役の佐藤誓と嫁の石村みかが、役柄をよく抑えて快演(どこかで演技賞でもとりそうなできである)、それにつられて他の俳優陣もよく大正時代の空気を無理なく出している。売られる農村の娘役の神保有輝実も湿っぽくないところがいい。この芝居の成功は殆どそういう時代の中でやむなく生きている都市化し始めた農村社会の人々を,性急に台詞で声高に「社会化」していないところにある。そのために、こういう人たちの中で、賢治のありようが、神格化もファンタジー化もされないで素直にひとつの時代の作家として描かれることになっている。
戦前から続く日本の新劇の伝統の上に立った作品ながら、今の時代にも通じるように書かれている快作で、もうこういう作品を書く人は出てこないだろうと思っていたので大いに感心した。新劇の伝統と言うと古めかしい正邪宣伝の社会劇を連想するが、新劇でも今でも面白く出来る作品はあるし、基盤としたリアリズムはやはり現代劇の基礎となるものだ。
演出は奇をてらわずオーソドックスだが、うまくまとめている。
心中天の網島-2017リクリエーション版-
ロームシアター京都
横浜にぎわい座・のげシャーレ(神奈川県)
2017/11/06 (月) ~ 2017/11/18 (土)公演終了
満足度★★★★
横浜の野毛シャーレと言う新しい劇場での公演。劇場案内図を見ると桜木町からとなっているのだが、これが旧東横線の終点と勘違いした当方の時代遅れ。今の桜木町は殆ど日ノ出町。黒沢の「天国と地獄」に出てくる細民街だ。今はすっかりおしゃれになっているが、どことなく前の時代の暗さもある。そういえばこの辺の運河の河舟で遠藤琢郎の「マハバラータ」を観たっけ。心中天網島にはうってつけの場所でもある。
だが、せっかくここまで来たのだから、東京でもやって欲しかった。これから、さいたま芸術は苦戦すると思うがそれは一に交通の便である。SPAC(静岡)ももっと楽に東京で見たい。観客の怠惰、贅沢と思うかもしれないが、東京を抜け出すだけでも大変で、さらに駅から近い観客ばかりではないから、帰りの夜道も気になる。
さて、中身。木下歌舞伎の十周年大歌舞伎の最後の作品である。タイミングよく(と言っては語弊があるが)現実に自殺願望からの殺人事件が起きて、つい舞台と重なってしまう。こういうところが演劇の怖いところでもある。今回は演出が糸井幸之助。作曲もやり、歌入りの紙屋治兵衛、おさんと小春である。冒頭、小春が、舞台の穴から身を乗り出し、元気いっぱい「小春でーす」とあらわれ、治兵衛も「紙屋の治兵衛です」と応じる。ここから物語は歌も歌える三人の男とバイオリンも演じる一人の女性が、歌も演技も受け持って、ほぼ歌舞伎通りに進むのだが、四人の歌があり、めまぐるしく舞台転換があり、かなりめまぐるしい。演出は細かく行き届いていて、隙がない。一幕、河庄で最初に自殺の話が出るところのセリフの積み方等うまいもので、以後、二人の恋の進行は小劇場離れの手際の良さで、タイミングのいい歌と台詞で陽気にどんどん進む。後半は時雨の炬燵。ここで幼時の回想など(歌舞伎にあったかしらん?)織り交ぜながら(ここが唯一だれると感じた)おさんが軸になっていく。時に入る浄瑠璃の原詞の使い方、歌舞伎からの台詞の引き方もうまいものだ。三味線の代わりにヴァイオリンが勤めるところがあるがこういう効果があるとは。
いつも通り、意欲的でなおかつ面白く古典を現代風に砕いた木下歌舞伎なのである。
だが・・・一つの舞台作品としてはこれで十分楽しめるのだが、これが心中天網島の現代版と言われるといささか首をかしげる。この原作の面白さ、テーマと言おうか、は、どうにも切れない男女の縁の不思議な深さで、今回のように陽気に整理が行き届くと、人間の性の不思議さが消えてしまう。
オセロー
東京芸術劇場
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2017/11/03 (金) ~ 2017/11/05 (日)公演終了
満足度★★★★
米英の本場ヒット作品を日本語字幕でそのまま見ることなんかできないのだから、ありがたい企画である。シェイクスピアの「オセロ―」オランダの演出家の引っ越し公演である。海外演出家だけが来た前の日本キャストの「リチャード三世」も面白かったので期待して見に行った。しかし今回は英語でもなくオランダ語?で、字幕を読むのに忙しくそれ程舞台に没入できなかった。
「オセロ―」は舞台も人も現代あるいは無時代で上演することはよくあって、既に二三度、国内でもシェイクスピア時代劇を離れて上演されたのを見たことがある。話が男の嫉妬と、軍の出世競争の話なので時代色はそれほど必要ないのかもしれない。今回もほとんどノーセットで、無時代の人間模様を見ることになる。オセロ―はイタリア南部のベニス軍の地方駐屯地の司令官と言う立場がつよく出ていて、都へ上がりたいという周囲の従者たちと、都でめとったデスデモーナとの関係に苦労する田舎の律義者である。この芝居、「天井桟敷の人々」でピエール・ブラッスールが演じた如く、英雄的な黒人であることや、嫉妬にもだえ苦しむくだりをそれらしく天を仰いで「熱演」することが通例だが、こちらは、従者との関係も妻との関係もクール説明していく。ここが今回の舞台の新しい工夫だ。ハンカチに疑惑が集まるところまでの一幕は、ほとんど台詞が途切れることなく進む。オセローはかなり辺地の支店長だと言う事がよくわかる。それを失脚させようとするイヤーゴのたくらみが具体化していく二幕、裸舞台に硝子箱の部屋(最近流行のセットだ)が運び込まれて、デスデモーナ殺しの場へ。ここまでどちらかと言うと淡々と進んできた芝居は一転、すべての人間間のドラマを集約して盛り上がる。なるほど、トニー賞、ローレンスオリビエ賞を受賞した演出家の、溜めてきて一気に出す腕の冴えと感心した。絞って使ってきた音響効果もうまい。
俳優は主演のケスティングはまるでゲルマン系白人だが、この芝居のオセロ―をうまく把握して、どこか煮え切れない人物として今の時代に通じるように表現している。全裸で大活躍のデスデモーナ役のデヴィスは可もなし不可もなしと言ったところか。何かと言うと裸になるのは、この芝居はコスチュームプレイではないよ、という主張か(冗談だ)。役者になじみがないと役をつかみにくいのは、海外演劇を見る難しいところだ。言葉が解らないから、耳で聞く台詞の圧力が伝わってきていないな、と感じることが多いのも演劇の母国外公演難しいところだ。
一幕80分、二幕65分、休憩20分、オセロ―としては長い方かもしれないが、演出家の意図のはっきりした舞台だった。リチャード三世に続く、結構刺激的で面白い公演だった。
「表に出ろいっ!」English version”One Green Bottle”
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2017/10/29 (日) ~ 2017/11/19 (日)公演終了
満足度★★★★
i人それぞれが勝手放題の今の世界をパッチワークした喜劇。本人も出ているので野田調全開、ハチャメチャなまま舞台はどんどん進んでいく。そうだよな、とは思いながらも、最後に野田節の祝詞があるかと思えば今回はなし。それでも1時間20分だから走り切ってしまう。いろいろな仕掛けがあるのはいつも通りだから、劇場からの帰り道で、アァあそこはそういうギャグだったのかと思い当たる楽しみもある。英語なので、それに気づくのに時間がかかったわけだ。これは新しい手だ(笑)
これはこれでいいのだが、世界の現状はこのように笑っていられる自縄自縛のレベルを越えてしまっているようである。われわれは死児を抱く犬か??
散歩する侵略者
イキウメ
シアタートラム(東京都)
2017/10/27 (金) ~ 2017/11/19 (日)公演終了
満足度★★★★
何度も再演された作品で、その度に作品はかなり変わる。作る方の意識以上に、見る側の状況が影響する。再演をかさねられるのは、戯曲が優れている証拠でもあるが、再演は演劇の面白さと難しさを感じさせる修羅場でもある。
宇宙人が三人やってきて地球人の意識を盗む、今後の地球侵略に備えての予備活動だというのである。「人間の意識」で、人間社会が成立しているのだから、この盗難で様々な人間関係のドラマが生まれる。それが現代社会の諸問題に触れていくのが秀抜だ
初演の2005年のサンモールは見ていないが、2007年の青山円形は見た。イキウメを見るのも初めてで、新しい演劇世界を作れる若い新進作家が現れたと大いに興奮した。現代社会の不可解と危険を巧みにSFの約束事の中で転がしてミステリアスな空気もある不条理劇だった。現代の不気味さ、奇怪さを、若い演技者たちが演じているのが妙に生々しかった。
それから10年。イキウメは評価され、今回の公演はトラムながら東京で26公演、昨日の段階で3公演の追加が決まっている。そのあと関西公演もある。映画にもなった。稀に見る大ヒットの「散歩する侵略者」の現状を見た。
舞台の空気は変わった。再演を重ねて、あやふやなところがなくなって、今回は幕あきからカーテンコールまで2時間余一気呵成に話が進む。SF活劇の趣もあって日本版ブレードランナーである。宇宙人の地球侵略とその攻防がはっきり表に出ていて、海に近い小さな基地の町に住む住民の生活感や人間性は後退している。かつては「意識を盗む」と言うSFならではの設定でじわじわと小さな町(政府から遠い)に迫る恐怖だったが、今回は敵がはっきりしている。今のご時世、北朝鮮をはじめ、正体の明確なものから不明確なものまで、さまざまな宇宙人的なものが身近になっているだけ、切実感は高くなった。かつては軽い笑いがあったが、それは影をひそめて怖い笑いである。
以前からの女優が出ていないが、男優陣は多くは初演のキャストで、みな、当たり前のことだが、やたらにうまくなった。気がつけば映画やテレビで見る顔も増えた。
確かに「散歩する侵略者」と言う芝居をどう生かすか、と言うのは、とても難しい話なのだ。事実、映画では、最初の方の宇宙人と接触するあたりまではさすが黒沢清、と言う出来で不気味さも迫ってくるのだが、後半の具体的なドンパチになるともういけない。話の折角の仕掛けが嘘丸見えになってしまう。映画の映像の具体性がこういうソフィストケイトされた世界を許さないのだ。
その点ではこの作品は芝居ならではのもので、舞台の上でこそ、作品が生きてくる。芝居である以上、今回のようなわかりのいい大当たり向け作りは必要だし、それは成功しているのだが、、意識を盗まれたものの不条理を軸に初々しかった青山円形の初演も懐かしい。それがいま成立するか? やってみなければわからないところが芝居の最前線なのである。
作者を探す六人の登場人物
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2017/10/26 (木) ~ 2017/11/05 (日)公演終了
満足度★★★★
「現代劇」の古典、と言う作品だが、今見てもとても百年前の作品とは思えない。日本にも戦時中に紹介されていて(イタリアは枢軸側ですからね)おなじみで、見ていると、ア、別役はここを読んだな、とか、野田もここはいいと思ったな、とか唐はここだな、と気づくところが随所にあって、戦後の新しい演劇に大きな影響があったことがわかる。もちろんそんな裏読みをしなくても十分楽しめる面白い下世話な筋立ての戯曲なのだ。
不条理劇とか、メタシアターの元祖のように言われているが、人情劇としてもこなれている。今回は長塚圭史演出で、テキストは台詞を整理しているが、はしょってはいない。劇場の枠組みを何度も見せて、メタシアターであることを意識させながらも、メタシアターのわかりにくさは回避されている。今見る芝居として時勢に合わせて作られているのだ。
KAAT製作の舞台は、意外な配役があって面白いが、今回も山崎一を登場人物の父親に、岡部たかしを現実の劇団の座長に、草刈民代を登場人物の母親役にと言う異色キャスト。少ししか出てこないが売春宿の女主人に平田敦子が怪演している。キャストを見ると、俳優のガラで、現実と舞台の上の非現実の対比をしようと言う意図があったのかもしれないが、そこまではいけていない。そういう意図はなく全体を劇構造とみて作ったのかもしれないが。
長塚圭史の演出は戯曲に沿った作りで、阿佐ヶ谷スパイダースの独走の頃から見れば随分過去の演劇の成果も取り入れたものになっている。二幕、池のほとりで少年が木陰から覗くところ、台詞も何もないのだが妙に印象に残って、元戯曲を読み返してみたらちゃんとト書きに「出演者が驚くほどうまく覗く」と指定してある。丁寧に戯曲も読んでいることがわかる。
珍しく6時開演は児童が出ているためだろうが、やはりこの芝居は7時からのものだ。虐待をしているわけでもないのだから、演劇への杓子定規は困ったものだ。
オーランドー
KAAT 神奈川芸術劇場 / PARCO
新国立劇場 中劇場(東京都)
2017/10/26 (木) ~ 2017/10/29 (日)公演終了
満足度★★★★
ユニークな舞台である。作がヴァージニア・ウルフ。詩的表現を舞台に立ち上げた作品だ。
オーランドー(多部未華子)と言う美しい若者が16世紀から21世紀までの時代を駆け抜ける。16世紀は女王に使える美青年の小姓。17世紀はトルコにわたって女性となり18世紀には植民地インドにわたり、19世紀には結婚・・と、オーランド―のお相手にはトルコの若者(小芝風花)、女王ほかの役には小日向文世が男女を交えて、いずれの時代もお相手となる。
テキストに筋はあってないようなもので、乱暴に言えば、人生の様々なトピックをいささかは演劇的に組んだ箴言集と言った趣である。
そうなれば、あとは舞台をどれだけ心地よく見せきるかと言う事が肝心になるわけで、そこは演出の白井晃は手慣れたものでうまいのだ。上記の三人に、脇役三人のキャストを加えた6人の俳優と3人の演奏者でかなり広いKAATの舞台を埋めてしまう。多部未華子は舞台は初めてか、ガラは少年と少女を行き来する若者役にはいいのだが、やはり台詞が後半になると辛くなってくる。いずれの俳優も多くの役をこなさなければならないわけで、そこは小劇場出身の俳優はうまく処理する。池田鉄洋などが神妙に付き合っていて六人でやったとは思えない広がりがある。ホリゾントには西洋絵画を大きな動画で見せ時代を移していく。衣裳の伊藤佐智子が大奮闘で、多部をはじめ時代ごとに見栄えのする衣装で場を引き締める。音楽の演奏も過不足なく、それぞれの場面が綺麗にまとまってよく出来ている二幕・2時間のステージなのだ。
さて、この舞台で感動するか? うーん。面白かったか? うーん。精巧なからくり覗き箱を見たような印象なのだ。それで贔屓の役者が生で観られればいい、と言う観客には満点で、ステージショーとしても出来はいいのだが、演劇としてはどうなんだろう。こういうのもたまにはいい、と軽く言うにはご、苦労さまの舞台であった。
リチャード三世
東京芸術劇場
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2017/10/17 (火) ~ 2017/10/30 (月)公演終了
満足度★★★★
力作である。休憩を入れて2時間半。リチャード三世は悪党が主人公の難しい芝居で、その在り方をどう描くかで勝負が決まる。中年を迎えた大型主演役者(言えば、仲代達矢タイプ)が役者の大きさで観客を納得させるという形が多いのだが、今回は佐々木蔵之助、演出はシルヴィル・ブルカレーテ。新しいリチャード三世を見せてくれた。
周辺から行くと、まず舞台装置がいい。中間色を混ぜ合わせたような壁に四角に囲まれた空間が舞台になる。ことにグリーン系の色が日本にはない色遣いで入っていて魅力的だ。その空間の出入りにこれもあまり日本の道具にはないドアが使ってある。もちろん照明との息もあってつい舞台に見ほれてしまう。
衣裳も、これは演出者側のスタッフでイギリスの階級社会をうまう表現している(しかし、イギリスでは歴史的に有名な話で登場人物にもなじみがあるだろうが、これだけで解れ、と言われると日本の観客には辛い。)
音楽と音響効果。ナマ音、生音楽、録音音源をミックスしているのだが、この塩梅がいい。歌うシーンや踊るシーンもあるのだがそれがだれず、舞台の進行内容とあって舞台を引き締めている。ふりつけは素晴らしい。ことに幕開きはオオッツと思わせる。
だが、これらの舞台効果が非常にうまくいったために,2時間半、観客はテンションの高い舞台から目を離せない。空間が閉鎖的であることもあってかなり疲れる。
肝心の中身だ。リチャードをどう演じるか。今までに何千ものリチャード像が演じられてきたが、乱暴に分類すると、大悪党で行くか、小悪党で行くか、と言うことになろう。デモーニッシュな悪を基本に据えるか、市民的なリアリズムで理解できる悪か。どちらも上演の時の世間に合わせていくつも名演があるが、今回はどちらでもないところで勝負している。そこが新しい。佐々木蔵之助の年齢と柄を考えると小劇場系リアリズムだが、今回は違う。演出家は人間性から考え直す、と言う方向で抽象的な善悪の倫理や現実性を前提に置かず、役を作り直している。その結果、今まで日本になかった生々しいリチャードが出来た。佐々木蔵之介もよく頑張った。好演である。
キャストはオールメールキャストで、女性をやらせればうまい植本潤(どういうわけか純米と言う芸名になっている、よせばいいのに)や手塚とおるが女性の役をやる。衣裳が白を基調にした同じ衣裳にちょっとしたアクセントや小道具で役を表現することになっているので、どの役かつかみにくいところがある。ことに一幕は、当時のイギリスの貴族の力関係、それぞれの家の家族関係がなかなか頭に入りにくい。
しかし、二幕になって、リチャードが政権を奪取してからは、芝居も締まってきて面白い。唯一、女優ではベテラン渡辺美佐子が出ているが、これが男の役。役そのものも解りにくく、このキャスティングは疑問。もったいない。
この東欧の演出家はかつて、「ルル」を自国の劇団で持ってきたときに見て面白かった。世界的にも評判がいい(大衆性もある)新しい演出家と言う事はこの公演でもよくわかった。向こうの蜷川幸雄、と言った感じではないだろうか、古典を現代に生かすいい舞台だった。
出てこようとしてるトロンプルイユ
ヨーロッパ企画
本多劇場(東京都)
2017/10/20 (金) ~ 2017/10/29 (日)公演終了
満足度★★★★
毎年この劇団が関西からやってくるのが楽しみだ。関西系劇団がその「関西ぶり」が売り物なのに、この劇団は泥臭さがない。今年、座付作者の上田誠が岸田戯曲賞を受けたが、遅すぎる。東京なら十年も前に受賞しているだろう。しかし、そんなことには恬淡として(いるかどうかは内部でないからわからないが)独特の舞台を作り続けてきた。ちょっと生活感を外し、知的でもあり、遊戯的でもあり、しかも時代の動きも抜け目なく入っている良質のエンタテイメントだ。今回も二十世紀とおぼしきパリの画学生の集まるアパルトマンと言う舞台設定で、亡くなった画家の残しただまし絵を処理しているうちに平面のだまし絵の世界が三次元の世界に現れる、と言う突飛なSF趣向で、絵画の芸術論から、デジタル社会の問題まで、さまざまなギャグが飛びかう。
これでもか、と言うほど同じシチュエーションを繰り返すのは、作者と観客の力相撲だ。俳優たちもまるでフランス人に見えないのに、臆することなく作中人物を演じる。中年なのに、学生芝居の良さが残っている。NHKのレギュらーの児童番組を持っているが、NHKもいいところに目を付けたものだ。
過去の作品でもすべては成功してはいないが、ワンアイデアを長く引き伸ばしてだれない、と言うのはこの作者の特技だ。だまし絵で行くと決めた今回の結果は、まずまずと言ったところだろう。べたなところのない乾いた笑いだが、満席の観客は笑いに沸く。同時代に出発した小劇場が息切れしたり、方向転換を余儀なくされたりする中で、ヨーロッパ企画は東京での公演数も多くなり劇場も大きくなった。客もついている。今後も楽しみに上京公演を楽しみに待っている。
奈落のシャイロック
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2017/10/13 (金) ~ 2017/10/22 (日)公演終了
満足度★★★★
明治新劇史では、名高い左団次帰国後の明治座初演を素材にしたバックステージもの。
作者・堤春恵はかねて明治演劇はお得意で、かつて見た鹿鳴館異聞」は面白かったし、評判も良かった、確か小劇場ながら演劇賞も受けた。日米の幾つもの大学で日本の伝統劇を学び、サントリー社長の息女と言う出自のよさがそのままのお行儀のいい作風で、下北沢の小劇場には似合わない。今回は、翻訳劇の日本初演とともに劇場改革を企んだ左団次と松居松葉の「ベニスの商人」上演が、劇場茶屋や下座の反感で頓挫するという史実を劇化している。前段の左団次帰国と時代背景の説明部分はわかり良く、またその性急な改革が頓挫する舞台を混乱の起きた明治座の奈落のシーンにまとめるというアイデアはいいのだが、そこで起きる事件が平板で盛り上がりに欠ける。混乱の原因が、演劇の中身ではなくて劇場システムの問題なので、演劇改革、新劇の誕生、女優の出現、伝統演劇との相克(日本では歌舞伎が強く、なかなか近代劇だ受け入れられなかった)など、人間的な表現が膨らむはずの本質的な演劇テーマが上滑りしてしまう。小芝居の添え物で女優をやってきた新井純(好演)の登場など面白いのだが生かし切れていない。期待されながら、また舞台ではいつも好演ながら、なぜかいい舞台に恵まれない森尾舞も、あい変わらず度胸のいい芝居なのだが、歌舞伎名優の娘が新劇に挑戦するという葛藤が弱い。女優陣の健闘に比べると肝心の男優陣が心もとない。脚本も後半は話が堂々巡りをしてふっきれない。
面白い小芝居を出す名取事務所も、今回はすこし凝りすぎたか。しかし今日は満席で何よりだった。
何をしてたの五十年
劇団NLT
博品館劇場(東京都)
2017/10/11 (水) ~ 2017/10/15 (日)公演終了
満足度★★★★
フランスのブルヴァル喜劇は戦後しばらくは「しゃれた演劇」として演劇界でも世間でも人気があった。だから、NLTもテアトルエコーも喜劇を標榜して新劇界の一端に加えられた。事実、日本にはない独特の男女関係、家族関係、のモラルが基盤になっていて、アチラではそう生きるんだと、ヨーロッパのモラルのあり方を学んだものだ。それから50年(以上)…・・・世はすっかり変わって、今見ると、この舞台の物語はおとぎ話だ。古めかしい人物設定とすれ違いの笑いのドラマでは今の客には苦しい。だからと言って、まるでつまらないわけではないが、50年以上やっているNLTの俳優が台詞の多いこの芝居を懸命に勤めているのを見ると、その歳月が胸に迫る。木村有里も川端慎二も川島一平もみな役年齢を越えて、70歳を超えている年齢だ。二時間に足りない芝居が休憩入りだ。
劇場は博品館。ここでは「上海バンスキング」が大入り満員で長期公演をやった時の湧き立つような熱気が懐かしい。あのころは銀座にシャレた若者劇場ができるかと期待したものだ。いまならシブゲキか。この劇場でいまの時代の若者も、壮年層も楽しめる芝居・・・・それはやはり、ルッサンではなく、新しい喜劇だろう。NLTにそういうことを言うのは酷かもしれないが、芝居が今のものである限りその残酷は避けられない。