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あおみのことづて

あおみのことづて

はりか

RAFT(東京都)

2016/07/15 (金) ~ 2016/07/17 (日)公演終了

存在していることについて
感想ではないです。すみません。。↓

ネタバレBOX

前回観劇した場所と同じ、東中野RAFT。場がプールということで、真ん中がプール、その前後がプールサイドという設定。横と手前に観客席が配置されている。前作の「雨湯口」同様しきりが無い。

話は主に二つのラインで展開されていく。久方ぶりに出会った旧友の緑、律子と、現在進行で友人であるユカリとマイ。その間に写真を撮り続ける一人の女の子と、あおみというプールの中でのみの存在(声)がある。パンフレットには役名が記載されておらず、出演者名しか記載されていない。役者の人数は6人であるのに、最後まで物理的身体を持ち合わせている人数が5人で、終演後6人になることであおみの声優ということだったのであろうことが分かった。
ラストまで全く発声しない写真を撮り続ける子は、劇中二つのラインをまたぐため、“あおみ”であるのか混同してしまう。接触をするのは序盤ユカリとマイの一度と、ラストの緑との会話のみ。また、その二つのラインも、ラストに交わる。
彼女(役者のTwitterを見たところ森川鈴という役名が与えられていた)そして緑と律子もだが、演出的身体表現が多い。途中、緑が電話であおみの存在を忘れてしまうこと、思い出すこと、そのあやふやな境界で困惑、感情が先に発露してしまう場面がある。鈴はその緑の周りをぐるぐると回り始め、速度は徐々に早くなり足音をダンダンとたてて走り続ける。それは呪い、呪縛かと思ったが、彼女の顔をじっと見ていてよかった。回る彼女の顔はぐしゃりと歪んでいた。それは呪いではなく、同期、共感、共有、共時。いわゆるシンクロ。
鈴は基本的にそういった身体表現にとどまり、パシャパシャと風景のシャッターを切るばかりで発話もせず、他者との関わり、接触を持たない。最後に一度だけ、彼女はマイとユカリが抱き合うシーンのシャッターを押すことができない。生者たちの愛を写すことができない。ラストにばらまかれた写真には“あおみ”(プールの水面)および風景写真ばかりが写されている。生きながらにして死に寄り添う側、生者の愛を写すことが出来ない鈴は巫女的役割をしているように見える。ここで緑の「あおみを殺すの?」がフィードバックされる。あおみが本当に死んでしまったのかは分からない。
身体性を持たず生者の間にしか存在出来ないあおみは幽霊的媒介的であり、身体性を持ち合わせ行為する鈴は巫女的である。しかし鈴は他ならぬ鈴でしかない。

もうひとつのライン、マイとユカリは女子同士の日常的な、他愛のない話をする。基本的にマイがよく喋るタイプで、ユカリは聞き上手という具合。マイはおちゃらけて冗談めかした話を続けるが、次第に自己開示的な話となる。マイはユカリに何をどこまで求めているのか、聴いてほしいのか、悩みながらも発話し続けるが、ユカリはマイの存在自体を受け入れるに至る。日常的な、そして深い愛のライン。

緑は自身と他者を受容し肯定するに至り、鈴に今現在の愛の存在を示唆する。
仮に、死生を相対的に見て愛を語る場合、生者として他者を肯定し愛すること、死に飲まれながらも寄り添い続けること、しかできないこと、それらの想いに確かな差異はあるだろうか。

ラスト、マイとユカリ、緑と鈴のラインが交差する。互いに手をゆっくりと振り合うそれは、鏡のように見える。月と水面に浮かぶ月、生と死、受容と否認、自己と非自己、様々な(非)対称形がこの話では互いにプロジェクションされている。それらは当たり前に同じ世界で起こっている。

あまりにも本当のことを言うな、と思う。あまりにも本当のことを実にリアリスティックに、言う。あおみは存在しているし、マイ(誰しもが)が代替可能なしかし唯一性を孕んだ存在であること、そしてそれを認めた上で肯定していること。彼女たちが愛することが出来るということ。その愛が過去も未来も現在も提示されていること。
こういったことがファンタジーと呼ばれていることをたまに不思議に思う。

前作「雨湯口」は決意(マイにとっての行くこと、とアサヒにとっての自死による希望)であるのに対して、今作は純粋な希望、祈り(愛の肯定と提示、forgiveness)によって締めくくられる。(この時の鈴の顔も見たかった)

かつて存在していたもの、は今見えないからといって存在していないわけではない。
それは本作のように忘れてしまっていたり、なかったことにしているだけであって、存在していたもの、は今も存在しているし、後も、存在し続けている。
雨湯口

雨湯口

はりか

RAFT(東京都)

2015/09/25 (金) ~ 2015/09/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

遅くなりましたが

ネタバレBOX

小劇場というところにあまり行ったことがなくて、どこからが小劇場でどこからが小劇場でないのか知らないのだけれど、入り口でお金を払って建物の横の細い道を通って裏から回るのは面白かった。中は薄暗く、ぼやっと10ワットの電球色のような落ち着いた明かりが灯っていて、簡素で真ん中に演者が囲む座卓、その周りに囲むように観客が座る椅子が並べ置かれていた。とても近い。この近さが全体的に強く影響を及ぼしたように後々思う。自分が座った場所よりもほんの少し遠い席も選ぶことは出来たから、そこではまた違った見え方がしたかもしれない。私の席ではすべての役者の顔を見ることが出来た。
近い、というのは演劇でも音楽のライブでも体験したことがあるが、例えば音楽のライブであればフロアの真ん中で演奏してその周りを観客が囲んで観る、というのがあるが、ちゃんと柵がある。他には小さなジャズバーでとても近い、ギターの先が顔に当たりそうなくらいの近さで鑑賞したこともあるが、よく見える、よく聴こえること、近くて“嬉しい”という以外のものはなかった。今回の演劇では役者と客をしきる境界が存在しなかった。

あらすじにも書いてあったが、民宿を営む実家に帰省した娘を母親は客として扱う。
それが、マジなのか病気なのかはその時は判然としないのだが、とても怖かった。その怖さを持続したまま、話は進む。後にそれは父親の失踪による“症状”であると説明されるのだが、それでも怖さは収まらなかった。ステージを観る、というのではなく、同じ舞台の上で、近くで見ている。障子に穴を開けてのぞき見しているような、超能力でその場を視認しているような、とにかくその場を同時体験しているような自分の入り方に、恐怖感を覚えていたように思う。ホラー映画でそろそろ何かが出ますよ、という恐怖感のボルテージを上げていき煽るシーンがあるが、あれがずっと持続されているようで、とても消耗した。

姉妹の置かれた境遇、人生の歩み方と選択の違い、その関係性と対比がきれいに描かれていたと思う。アサヒが父の失踪と母の変化を自らのせいと責めるシーンがあるが、マイはその時それに怒ると思った。父親の失踪を自らのせいだと思い、そこに残り母親と生きることは自己犠牲精神だが、罪は無い。失踪は車で当てられた事故のようなものだと思った。アサヒには徹底して罪がなく、自らを責め、マイをすごい、と言うのには欺瞞すら覚えた。しかしマイはそうではない、と庇い抱いて、その画がとても"丸い”と思った。比喩ではなく。二人はお互い自らの意志で入れ替わることを決意しているのもすごいと思った。
母親と父親の話も入っているし、講演内容には"母の記憶について”"母の恋人”"母の記憶”とある。登場人物には全員罪がない。同時に皆それぞれに強く持ち合わせている。とても難しい家族システムを描いていると思う。儀式、サクリファイスなどもきれいに入っていた。

動きでいえば、別の役者が話しているときに光の当たらない周りをゆっくり歩いたり、特に母親の動きは能のすり足のようだった。ただ、父親だけに動きがなかったように思う。

作者の阿部はりかさんのお芝居は今回で二度目だが、観るのにとても体力を使う。上演時間50分とのことだったが、とてもとても長く、感じた。前回は初めてだったがわりときちんと観ることが出来て、しかし何故か逆に、今回はとてもやられてしまった。一歩引いて観ることが出来ずに、消耗し、なかなか帰ってくることが出来なかった。

終演後の謎のポップなBGMにも、役者さんたちの一転した笑顔にも、心と身体がついていかなくてあべこべになってしまった。強烈でした。

一点、終盤のサイレンの音で想起を煽るのがあったが、それは少しチープで他の道はなかったかな、と思う。それまで緊迫したクローズドな場、一軒家で行われていたものが急に外界の存在を意識してしまった。海や川は暗闇で隠されていたわけだし。

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