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あおみのことづて
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はりか「
あおみのことづて
」の観てきた!クチコミとコメント
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a(2)
存在していることについて
感想ではないです。すみません。。↓
ネタバレBOX
前回観劇した場所と同じ、東中野RAFT。場がプールということで、真ん中がプール、その前後がプールサイドという設定。横と手前に観客席が配置されている。前作の「雨湯口」同様しきりが無い。
話は主に二つのラインで展開されていく。久方ぶりに出会った旧友の緑、律子と、現在進行で友人であるユカリとマイ。その間に写真を撮り続ける一人の女の子と、あおみというプールの中でのみの存在(声)がある。パンフレットには役名が記載されておらず、出演者名しか記載されていない。役者の人数は6人であるのに、最後まで物理的身体を持ち合わせている人数が5人で、終演後6人になることであおみの声優ということだったのであろうことが分かった。
ラストまで全く発声しない写真を撮り続ける子は、劇中二つのラインをまたぐため、“あおみ”であるのか混同してしまう。接触をするのは序盤ユカリとマイの一度と、ラストの緑との会話のみ。また、その二つのラインも、ラストに交わる。
彼女(役者のTwitterを見たところ森川鈴という役名が与えられていた)そして緑と律子もだが、演出的身体表現が多い。途中、緑が電話であおみの存在を忘れてしまうこと、思い出すこと、そのあやふやな境界で困惑、感情が先に発露してしまう場面がある。鈴はその緑の周りをぐるぐると回り始め、速度は徐々に早くなり足音をダンダンとたてて走り続ける。それは呪い、呪縛かと思ったが、彼女の顔をじっと見ていてよかった。回る彼女の顔はぐしゃりと歪んでいた。それは呪いではなく、同期、共感、共有、共時。いわゆるシンクロ。
鈴は基本的にそういった身体表現にとどまり、パシャパシャと風景のシャッターを切るばかりで発話もせず、他者との関わり、接触を持たない。最後に一度だけ、彼女はマイとユカリが抱き合うシーンのシャッターを押すことができない。生者たちの愛を写すことができない。ラストにばらまかれた写真には“あおみ”(プールの水面)および風景写真ばかりが写されている。生きながらにして死に寄り添う側、生者の愛を写すことが出来ない鈴は巫女的役割をしているように見える。ここで緑の「あおみを殺すの?」がフィードバックされる。あおみが本当に死んでしまったのかは分からない。
身体性を持たず生者の間にしか存在出来ないあおみは幽霊的媒介的であり、身体性を持ち合わせ行為する鈴は巫女的である。しかし鈴は他ならぬ鈴でしかない。
もうひとつのライン、マイとユカリは女子同士の日常的な、他愛のない話をする。基本的にマイがよく喋るタイプで、ユカリは聞き上手という具合。マイはおちゃらけて冗談めかした話を続けるが、次第に自己開示的な話となる。マイはユカリに何をどこまで求めているのか、聴いてほしいのか、悩みながらも発話し続けるが、ユカリはマイの存在自体を受け入れるに至る。日常的な、そして深い愛のライン。
緑は自身と他者を受容し肯定するに至り、鈴に今現在の愛の存在を示唆する。
仮に、死生を相対的に見て愛を語る場合、生者として他者を肯定し愛すること、死に飲まれながらも寄り添い続けること、しかできないこと、それらの想いに確かな差異はあるだろうか。
ラスト、マイとユカリ、緑と鈴のラインが交差する。互いに手をゆっくりと振り合うそれは、鏡のように見える。月と水面に浮かぶ月、生と死、受容と否認、自己と非自己、様々な(非)対称形がこの話では互いにプロジェクションされている。それらは当たり前に同じ世界で起こっている。
あまりにも本当のことを言うな、と思う。あまりにも本当のことを実にリアリスティックに、言う。あおみは存在しているし、マイ(誰しもが)が代替可能なしかし唯一性を孕んだ存在であること、そしてそれを認めた上で肯定していること。彼女たちが愛することが出来るということ。その愛が過去も未来も現在も提示されていること。
こういったことがファンタジーと呼ばれていることをたまに不思議に思う。
前作「雨湯口」は決意(マイにとっての行くこと、とアサヒにとっての自死による希望)であるのに対して、今作は純粋な希望、祈り(愛の肯定と提示、forgiveness)によって締めくくられる。(この時の鈴の顔も見たかった)
かつて存在していたもの、は今見えないからといって存在していないわけではない。
それは本作のように忘れてしまっていたり、なかったことにしているだけであって、存在していたもの、は今も存在しているし、後も、存在し続けている。
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2016/08/05 08:15
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