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ふじたん
Performing Chekhov(Чехов) 『チェーホフをいかに上演するか』David Alenには,初めてチェーホフの作品に挑戦するひとには,その入口が結構難しいものであることの説明がある。 客席の期待はあったが,そこに一見すると,答えていなかったのは名作『かもめ』の初演エピソードだ。チェーホフ作品の特徴は,事件らしい事件がない!ということだ。戯曲は,「行動」で,観客は,何かが起こるのを劇場に見にいく。なのに,チェーホフ作品では,食べたり,飲んだり,ひょっと頭に浮かんだことをダラダラしゃべっているだけ・・・という感じだ。このような戯曲は,次第に現代の主流になっていく。 俳優の注意が,それまで「目に見える行動」であったものが,「内面的なドラマ」に向かう。『かもめ』については,大きな劇的効果をあえて抑制して,それまでの舞台原則に背く。つまり,『かもめ』の最終場面でも,主人公のコースチャ自殺を「ほのめかす」に留めている。最も作品の本質を表現するのに,ひとにぎりの簡潔な台詞に,単なる舞台状況に凝縮させる。 そこで,かつては,登場人物の明確な外面的「記号」=演技によって,観客にはっきり伝えられていたもの,感情は,声の調子やら,目つきに託されるようになっていく。そこにこそ演劇の「美しさ」があるのだ。というのも,胸の内の秘めた悲しみが,くっきりと表現されるからだ。苦悩を抱えて,頭を抱えているしぐさでは,「内面的ドラマ」は十分には伝えられず,演じ過ぎないことがチェーホフの問題提起なのだと思われる。ことばの裏にあるサブテキストを,いかに伝えるかに,チェーホフの世界がある。 チェーホフの芸術は,気分の演劇という性格が大きい。そこで,「気分」をどういう「演出」が助けてくれるだろうか。この本の中では,チェーホフは,自分自身の「劇場」を心の中,想像力の中で持っていたのだという。モスクワ芸術座は,チェーホフの戯曲が「演出」されたところ・・・である,という峻別をする。大劇場では,大観客にも良く見えるように動作はおおげさになりがちだ。小劇場は,観客ののぞき趣味と悪口もでようが,チェーホフの「内面的ドラマ」演劇では効果絶大である。ロマンチックな主役らしい主役もいない,取り立てて立派なひとも,すごい悪党もいない「内面的ドラマ」である。 『桜の園』では,家庭教師シャルロッタの存在が重要だと感じた。彼女の衣装は,奇妙である。絶望的に不幸である。事務屋のエピホードフの,道化的存在をこえている。『かもめ』では軽薄なニーナが,『三人姉妹』では,自分の子どもばかりがかわいいナターシャが,『ワーニャおじさん』では世渡りへたなおじさんが,強烈に印象に残る。これに比べて,『桜の園』は,道化シャルロッタがとにかく目立つ。ほかの作品に比べ,さらに戯曲はとらえにくい。あいまいである。台詞はだしぬけ。決まりきったやり方も少ない。戯曲の表面が,「泡立ち」「揺らめく」。それでも『桜の園』が,一番チェーホフらしい傑作なのだろう。
2013/06/15 03:32
ふじたん
演劇の意味を一から考え直しませんか。 日暮里,d倉庫で,今,劇団おぼんろは,新しい信者をお待ちしています。信者の資格は,演劇のたましいを信じるひとです。新しい,みんな参加型の童話を観て,涙してください。本教団は,みなさんを集団催眠に陥れてさしあげます。注意事項は,「ざぶとん」持参です。あとは,動画も,写真もOKです。しかし,フラッシュは待ちね!動画に,顔が出るのを嫌う方は,ご出席を見合わせてくださいね。 今,日本演劇界は,革命を起こします。 そんなバカなという方は,変装でもなんでもして,一度ご覧ください。信者が,ずらっと,お待ちします。ジョウキゲンは,演劇のたましいです。演劇を,演劇界を別のものにしていきます。そのはかなさに,たっぷり涙してください。その美しさに感動してください。とにかく,池袋d倉庫に来てください。一生のうち,これほど美しい時間は体験できません。 西洋演劇は,論理の世界です。鈴木大拙のいうような,非論理の世界ではありません。しかし,論理を貫く,そこで展開する世界にも意味はあります。チェーホフの,イプセンの世界は,とてもいいものです。でも,そこから,かくも美しく巣立った劇団おぼんろの世界を堪能してください。きっと満足してくださいます。メーテルリンクの青い鳥以来の快挙かもしれませんね。
2013/06/15 03:27
ふじたん
1896年,サンクト・ペテルブルグにおいて,チェーホフの戯曲『かもめ』は初演された。 チェーホフは,戯曲において,言葉を簡潔にしていくべきと思っていた。台詞は,いきおい全体としては減ってしまう。その分,観客は,目に見えないものを,自ら読みとっていく必要ができた。これが,チェーホフを鑑賞するための,スタート地点になる。 実際,『かもめ』では,ヒロインのニーナは,恋人であるコンスタンチン・トレープレフ(コースチャ)から渡された劇中劇を演じるにあたって,「あなたの戯曲で演じるのは難しいわ・・・ほとんど行動がないんだもの」という感想をそれとなく述べている。 戯曲『かもめ』は,戯曲の重心を,外面的なものから内面的なものへ移したという。このことは,どういった意味があるのか。それまでの,演劇の常識を破って,現代演劇が,一歩,踏み込んだものになった転換点であったのだ。登場人物の内面的,心理的な世界へと,演劇の世界が開かれていったことになる。 それでは,具体的には,演劇はどう変わったのか。チェーホフにいわせると,人間の苦悩というものは,彼が生きている実際の生活の中で,そのまま表現されているものであるべきだ。演劇になっても,声の調子とか,目つきが重要になる。微妙な内的感情が,生活のままに表現されていくべきである。 でも,チェーホフの劇をやる俳優は,初演では,この考えについていけなかった。単純な台詞を単純にいう,それでいて,舞台が退屈にならないのか?いや,そもそも,そのような演劇で,感動できるのか!チェーホフは,今までの俳優が,「演じ」過ぎてるのだ,というが,言葉の背後にある「サブテキスト」をいかに伝えるべきなのだろうか。 ここで,演出家としてのずば抜けた才能があったスタニスラフスキーが,チェーホフの世界に挑戦する。彼は,チェーホフの世界を自分なりに,理解し,「チェーホフ」を壊すことなく,新しい演劇をめざした。 たとえば,『かもめ』の上演の重要な工夫は,「間」の使用である。チェーホフの世界では,この「間」をどう扱うかが,とても大事である。 スタニスラフスキーの演出における「間」では,場の行動が完全になくなるわけではない。『かもめ』の上演では,身振りやら,自然の音とか,ピアノの音が満ちていた。これは,現代の演出でも,引き継がれている。「間」のあいだの静かな家庭の晩という感じが演出される。すると,そのあと,女優になろうとした苦労話が,観客の心に沁みていく。 チェーホフの登場人物は,悲嘆に浸っているように見えるが,人生の悲嘆と戦っているキャラクターでもある。俳優も観客も,生活の悲しさに浸る面もあるが,そこから,もがき脱出しようとし,また,あえなく沈没していく面に気がつくべきかもしれない。行動を貫く線は,より生きたい,より美しく生きたいというメッセージにある。 参考文献:チェーホフをいかに上演するか(David Allen)2012 戯曲『かもめ』は,1986年に,ロシア思想」誌12号に掲載された直後,アレクサンドリンスキイ劇場にて上演されたものの,当初その斬新さに,理解されなかった。 トリゴーリン役は,この作品では,最も重要で,作家でもあり,ドンファンでもあるが,1898年には,スタニスラフスキーが演じた。このとき,コースチャ役は,メイエルホリドであった。『かもめ』は,スタニスラフスキーの演出が,チェーホフの作品を世界的にも有名なものとしていくさきがけとなった事例である。モスクワ芸術座で,『かもめ』が大成功し,カモメの紋章が建物に掲げられる。 チェーホフは,次に,モスクワ芸術座のために『三人姉妹』を書く。スタニスラフスキーの演出は,作品をペシミスティックにしたと,チェーホフは感じていた。ただ,登場人物の内的な生命の感覚は,優れたものになっていく。裏方がステッキで,橋を渡る馬のひづめの音を効果音として,発明する。チェーホフの作品には,つねに,より良い生活の憧れが根底にあり,その象徴として,「モスクワへ,モスクワへ」が叫ばれる。スタニスラフスキーの演出は,『桜の園』のサブテキストを強め,喜劇の要素を削る。 メイエルホリドは,彼の演出を行き過ぎたものであると,論文を残している。スタニスラフスキーの演出は,単に,自然主義的とレッテルを貼って良いものなのか?問題は,チェーホフ作品の本質次第だ。『ワーニャ伯父さん』でも,蚊よけに,頭にハンカチをかぶせるべきか否かでもめた。確かに,スタニスラフスキーは,自分自身のイメージで,戯曲を作り変え続けたともいえる。チェーホフは,1904年に亡くなる。演出家は,現在,劇作家を鼻であしらうとも言われ,古典を破壊することもあるだろう。この根源的な,スタート地点が,チェーホフの作品に対する,スタニスラフスキーの演出だったともいえる。 1922年,有楽座にて,水谷八重子が日本で最初のニーナ役となった。 1950年,民衆劇場では,宇野重吉が,コースチャ役,奈良岡朋子が,ニーナ役であった。
2013/06/14 21:51
ふじたん
演劇は,それを観る観客の前で,上演されるものである。舞台と,観客は,いつも一つの場所にいる。舞台は,客席から,分離できないものである。観客は,演劇が,そこで「演じられている」という意識を持つ。ここに,暗黙の了解が成り立つのである。また,舞台上のものは,現実のものは,何ひとつない。あるのは,模倣とか,表象に過ぎない。劇場を一歩出ると,観客と俳優の関係は,終わる。残っているのは,記憶の中のイメージに過ぎない。これらは,演劇における,約束事(convention)と,呼ばれるものである。 演劇性は,ある時期否定された。 演劇を,完全に,人生そのままの表現とするために,劇から「芝居らしい要素」を消してしまえという。そういったことを,チェーホフの戯曲を通して,スタニスラフスキーがめざした。でも,これでは,「演劇が,演劇として行われるという事実を,無視して,舞台というものが,実際の人生とか,生活の場面を,リアルに切り取ったものになれば良い」ということにもなりかねなかった。 チェーホフの『かめも』で,スタニスラフスキーと,メイエルホリドは,ニーナを争った。演劇界で,上演時間を厳しく計測するようにしたのは,このメイエルホリドだとも言われている。最後は,スターリンに嫌われて亡くなっている。 「演劇性」を無視し,隠ぺいしたのは,スタニスラフスキーのリアリズムであったのだろうか。自然主義的演出方法は,そんなに変だったのだろうか。モスクワ芸術座の,チェーホフの『三人姉妹』などは,見方をかえると評価できない部分もあるのだろうか。モスクワ芸術座でも,メーテルリンクの『青い鳥』なども上演されるようになる。では,夢や,幻覚の世界を描く作品は,それまでの演劇をどのように変えていったのであろうか。
2013/06/14 21:45
ふじたん
演劇の中では,「同化」と「異化」の効果があるらしい。 たとえば,名作『二十四の瞳』(壺井栄)を観ると,松江のユリの弁当の話に同化する。感情移入して,涙があふれて来る。それは,それで良い。まだ,幼い身であるのに,ひとりだけ奉公先で苦労しているのだ。ゆえに,この場面を見て,泣いてしまうことはごく当然のことである。 一方,『遭難』(本谷有希子)の中は,異化の世界かもしれない。子どもがいじめにあって,自殺未遂をした。そこにいて関わった戦犯はだれだ!気が付けば,みなが無責任で逃げることしか考えていない。このような場面を見て,ショックを受けた(異化)。私は,現実を知らないのだろうか。 舞台と観客との一対一の対応で,観客をドラマにひきずりこみ,そして,自分を劇中の人物のごとく錯覚させる。「ひとりだけ弁当箱なしの苦い思い出」を胸に秘めて,奉公先で大石先生と再会する「松江の悲しさ」を自分のことのように感じてしまう・・・これが,「同化」。 ここで,ブレヒトが,そういう幻想の舞台ばかりでなく,つまり,観客を同化させているばかりでなく,こん棒で頭をなぐって,びっくりさせて何かを気がつかせるような手法の演劇に注目する。(異化)。 俳優と作家と観客は,そもそもは一体だったのかもしれない。というのも,はじまりは単純なものだったであろう。その後どんどん分業化していった。見せるものと見るものが,分化していった。でも,やっぱり,舞台と客席の関係については対応することが多い。 その舞台と観客の関係では,観客は,自らが劇中人物であるかのように「同化」するという現象はよくあること。別の言い方をすれば,劇中人物に感情移入し,錯覚を起こしているのだ。幻想による「同化」。その場合,舞台は「観客」を対立したまま終わる存在とせず,同感し,和解していく方向に収束する。 これに対し,見慣れぬもので,びっくりさせ,目を覚まさせるという効果がある。これが「異化」。
2013/06/14 21:41
ふじたん
メーテルリンクの『青い鳥』は,1911年度に,ノーベル賞を授与された作品である。1908年に発表され,その後,世界中で上演されて来ました。 L‘oiseau blue。は,一見児童文学なのかとも思うほど,夢物語の中での冒険がその筋です。クリスマスの前夜に,妖女ベリリウンヌに,話を持ちかけられたのがきっかけである。 未来の王国・・・・ どうして,あの子は,ぼくの名前を知っているの? ぼくは,きみの弟になるんだもの。いじめないでよ。 その袋には,何があるの? ぼくは,三つの病気を持っていくんだ。しょうこう熱と,百日咳と,はしかだよ。 それで・・・ それから,死んでしまうのさ。 じゃあ,生まれるかいがないじゃないか。 だって,どうにもならないでしょう・・・ チェーホフは,晩年次第に象徴主義に関心をいだく。『かもめ』にも劇中劇で,ニーナにそのようなセリフを言わせている。芸術座にも,ベルギーの象徴主義作家モーリス・メーテルリンク(1862-1949)をしきりに勧めている。 これに対し,ネミロヴッチは,当初,心地良いオペレッタ程度の認識であったのに対し,スタニスラフスキーは,『青い鳥』にただならぬ深さを感じていた。 人間と,堕落した社会は,子どもの素直な純粋な目を通して,鋭く批判される。自分たちの生活に必要不可欠なものたちの「化身」,光,水,パン,火,砂糖,ミルク。ほかに,友としての犬と猫。
2013/06/14 21:37
ふじたん
1906年には,スタニスラフスキーと,ネビローヴィチは共同演出であった。スタニスラフスキーは,シェークスピアやら,モリエールの劇を越え,自分が何かに挑戦し,観客の期待に最大で答えたいと思った。文学からいのちを引き出すのだ。 ところが,ネビローヴィチはブレーキをかける。スタニスラフスキーに勝手にやらせたら,劇団の成功はない。スタニスラフスキーの新しい発想を,嘲笑する。確かに,スタニスラフスキーの文法は,仲間たちに評判は良くない。部分的に成功しているものばかり。心理学的発想は,俳優間でも混乱を招いた。 スタニスラフスキーは,ここで,メーテルリンクの『青い鳥』演出に夢中になっていく。劇団は,生き残るべきである。ネビローヴィチとの共存は困難である。芸術座は,いったい誰が創設したのだろうか。このふたりである。 スタニスラフスキーは,『青い鳥』の下稽古で,黒いビロードの効果に気が付いた。黒の上では,黒は見えないのだ。黒いビロードの小切れが大事なのだ。芸術上の課題を,この『青い鳥』で解決しようとした。この趣旨は,メーテルリンクにも届いていく。 人間は,地球を支配し,その神秘を意のままにできると思い始めている。精神的豊かさを本当に持っているのは,少数なのだ。大衆に,未知の世界の神秘を伝えたい。幸福をさがし求めたい。その幸福は,青い鳥のように,暗黒の世界で飛び去ってしまう。人間は,生涯ではじめての,曇りない眼を持つべきなのだ。その眼で,人間を見つめ直し,誠実な感謝の気持ちで世界を見守るべきなのだ。 スタニスラフスキーは,演出の中で,デザインも装置も,子どものヴィジョンをイメージする。ネビローヴィチは,これをからかう。見てみろ!俳優たちは,全員犬や猫の真似ばかりしているぞ。うれしそうに,スタニスラフスキーのまわりで,わんわん・にゃんにゃんやっているのだ。 スタニスラフスキーは,ネビローヴィチと喧嘩などすることは,愚かなことだと感じていた。彼が考えていたことは何か。それは,俳優は,戯曲のことばの受動的な解説者にとどまるべきではないということ。能動的な,創造者になるべきなのだ。そして,スタニスラフスキーの研究目的は,最終的に観客に感銘をもたらすべきであることに尽きるのである。
2013/06/14 21:31
ふじたん
スターリン体制下において,スパイ活動の汚名を着せられて,1940.2.2.メイエルホルドは,銃殺される。メイエルホルドは,ロシアの演出家の中では,スタニスラフスキーと並ぶ演出家であった。エドワード・ブローン『メイエルホルド:演劇の革命』によると,いかにおもしろい演出の仕事があろうとも,メイエルホルドは,役者の仕事に興味があったと,述べている。 われわれ俳優は,単に演技するだけで良いのだろうか。いや,われわれは,演じかつ考えるべきである。なんのために,演じているのか。何を演じているのか。自分たちの演技で,誰かを教育しているのだろうか。・・・メイエルホルドは,こういうことを気にした。メイエルホルドは,チェーホフの『かもめ』では,コースチャを演じた。チェーホフ自身は,舞台は芸術!舞台は,人生の真実を映すものであって,余計なものを引きずり出す必要はありません。そのために,過度の演出は控えるべきである!というが,これに対して,スタニスラフスキーとは,べつのかたちでメイエルホルドも演出に挑んでいる。 メイエルホルドの日記では,役者というものは,どの時期でも,自分の得意分野など作るべきでない!と,言っている。それは,役者として,幅を拡げる,経験を深める・・・そういうことは,絶対不可欠なのだろう。現代の演劇でも,役者は,かなり広い分野で仕事をしている気がする。メイエルホルドに影響を与えた考えには,演劇は,慰みや娯楽ではなく,礼拝の意味を持つものだという点がある。社会になんらかの貢献を与えるべきものだったので,余計に人間としても成熟し,高い見識を持って活動したいというのだろう。 メイエルホルドは,『桜の園』では,トロフィーモフ(学生ペーチャ)を演じた。芝居の本当の意味,深層のテキスト,ことばによらない感情の対話,チェーホフのことばによれば,「人生の真髄」を追求した。
2013/06/14 21:25
ふじたん
演劇は,とても素晴らしいものだ。日常生活も,いわば演劇的な仕組みで成立しているということは,いえるが,何もそこまでいわない。歌劇団だって,葵と楓のショーだって,ある種の演劇といえるはずだ。でも,演劇を好きでない,興味のないひとたちも多い。もちろん,価格が高過ぎるからかもしれない。映画を,映画館で,リラックスして観るとか,DVDやらTVで,居間で寝転んで観る方が気楽ということもあるはずだ。ときには,演劇には,嫌悪感を持つ例もあるらしい。 演劇には,とりわけ,小劇場では,「引き寄せられる魅力」があると私は,思っている。ある場所に,小人数で集まって,一回限りのパフォーマンスを堪能する。顔と顔が,間近にあって,息遣いまで聞こえ,汗やらつばまで飛んで来るかもしれない。そこで,演者の悲しみやら,苦悩は,自分の心に深く届くのだと思う。しかし,見方をかえると,生身の人間が,目の前でフィクションを演じること自体が,生理的に受け入れにくいという面もある。装置が,俳優が,あまりに近いのは,苦手であるということだ。見え過ぎ,圧迫感があるのかもしれない。たしかに,ほこりまで飛んで来るだろう。なにか,のぞきの悪趣味にも近いとかいうのかな。 イオネスコという人がいる。この人は,フランスの不条理演劇を代表する作家だ。イオネスコは,「演劇嫌い」について,述べている。自分自身,子供の頃に見た人形芝居は好きだったが,演劇一般はキライである。舞踊(ダンス)とちがい,演劇には,セリフがある。俳優は,それを発する。しゃべるというより,叫ぶというべきかもしれない。演技というものは,あたかも本当のように,話し,動くが,それでいて,その隠されたテクニックは,見えない方がいいだろう。映画とはちがって,演劇では,「詩」とか,「想像力」とか,まだ十分に生きている。現代演劇は,心理的だったり,社会的だったり,要するに頭脳的なのだから,観るのもたいへんだ。
2013/06/14 21:19
ふじたん
浅利慶太はいう,「僕らの生は無目的だし,どう生きても全ての行為は無償」。そして,「自分をつくることが,自分自身になること」。 人生の現実とは,その根本に,対立的なドラマを内容する。演劇は、この人生の反映である。いついかなるときも,演劇は人間にとって,不可欠のよろこびだった。人間は,何もなすこともなく時に流され,やがて死ぬ。人は,劇場に,自分自身をいやしに来る。 もし,演劇が,啓発行為なら,それは,教育等のことで十分できるはず。一同に集まって,生きるよろこび,歌う感動を確認しあうことが,大事なのだと。そこでは,必ず,自由があって欲しい。性格や,心理に重点を置くような演劇は好きではない。 三田文学にかつて,浅利自身が書いたことからは,以上のようなことが要約できる。 演劇が単に遊びに終わってはだめ。劇場を現実逃避の場にするな。演劇は見世物ではない。商業主義に毒されるな。俳優の生活を優先して,演劇の本質を失うことがないようにしたい。
2013/06/14 21:11
ふじたん
見ていて悲しくつらい悲劇は,結構求められる。自分の悲しみや,苦悩がそこで浄化(カタルシス)される。悲しみや,苦悩が深い人ほど,カタルシスを求めている。悲しみはそこで,共有される。自分だけの悲しみではなくなる。自分の悲しみを見つめたい。無理して,明るく振舞っても,だめ。その悲しみを封じ込めようとしないこと,むしろ,誰かに聞いてもらうこと。それは,演劇の持つ本質かもしれない。 ところで,演劇には,多数の観客を,どこかに誘導する仕組みがある。これは,ある種の催眠術である。催眠の定義は,覚醒のレベルがどんどん下がり,被暗示性が極度に高まることだ。催眠にも深さはある。椅子から立ち上がれなくなる人もいる。幻覚が現れるような場合もある。催眠中のことをすっかり忘れることもある。これは,一般には,男性より,女性。大人より子どもがひっかかりやすいという。 でも,催眠は,むしろ,大人がかかる。子どもは,昔からいわれているように,自分と遊んでくれるかもしれない大人を直感的に見抜く。五分もあれば十分だろう。この人は,自分と会って,優しくしてくれる。あるいは,いつも不機嫌で,怒鳴り散らしている人。そのことは,子どもはすぐわかる。でないと,次に自分はひどい目に会うからだ。さらに,女性も結構,そうそう催眠にはかからない。 むしろ,進学・就職で,世界文学のひとつも読んだこともなく,社会的には,地位も名誉も,お金だってたくさんあるようなおじさんが危ない。この時期に,ミュージカルや,演劇にはまると,際限がない。大衆劇団のおひねり状態で,目立ってしまう。でも,ミュージカルや,演劇は,それなりに背景もあり,歴史もある。だから,自ら,催眠状態に没入し,トランス状態になった輩は相手にしてはいけない。 演劇の使命は,短いかもしれない。10年も同じことをやっていると,あきられる。もし,自分の好きな劇団が,自分を心理療法で今救ってくれても,それはさほど長くは続かない。長期にわたると,クライアントと,依存関係になっていくからだ。催眠療法というのもあるから,一概に心理療法的演劇も悪くはいえない。しかし,すべてのことをわかって,やっていかないと,演劇は,ドラッグのような効果しかもたないだろう。
2013/06/12 19:52
ふじたん
『ビョードロ~月色の森で抱きよせて~ 』は,どういう作品だろう。私は,これは,作者が,学生時代より現劇団をたちあげ,何度も挫折しながら,演劇の精神,魂を守るために作った象徴的で,寓意的な作品なのだと思う。彼は,それを,細菌でもある,「ジョウキゲン」を使い,より幻想的に描くことに成功したので,爆発的ヒットになっている。 「ジョウキゲン」が,演劇の精神,演劇の魂,というのは何の話?といえば,細菌でもある,「ジョウキゲン」というのは,論理的にも変なのだ。これは,なべて,文学作品なんてものは,本人が上機嫌で,世に問うが,だいたいのところ無視され,たたかれ,死んでいくものでしかない,いう皮肉があるだろう。 「ジョウキゲン」=文学作品には,そもそも,子どもは読んじゃいけない,とか危険な要素がある。それは,子どもたちの中ではやると,なんとかごっこになって,教師は授業もやりにくいものになる。だから,「ジョウキゲン」=文学作品は,中学生が,走れメロスを読んで,友情の尊さを教えたら良いが,それ以上の深入りは避けるべきでなのだ。 イプセンの『人形の家』なども,あとで,考えたら,さほどの危険思想もないが,男尊女卑のばかげた世界には,危険思想だった。サルトルの『汚れた手』なんかのように,政治が,どのくらい流動的なもので,正しい政局などどこにもない,という発想は,いついかなる時代でも,とんでもなく危険なのである。 だから,「ジョウキゲン」=文学作品が,少数のインテリではやっている程度であるのは,さほど問題はないが,これが,細菌でいえば,空気感染レベルにまで上昇し,パワーアップすると,危険度は最高になるだろう。そこでは,作者自身に,事件を沈静化させるような作品ばかり書かせる(=ワクチン)ようなことが要請される。 「ジョウキゲン」=文学作品は,演劇の精神,演劇の魂という意味で,学生時代から一貫して,作者を支配し,美しく輝いていた。そのために,そこにある種の毒性,麻薬みたいなものがあることも熟知している。ふれすぎる,つまり,熱中し過ぎると,夜も眠れなくなるし,誰かにその話をし始めると,嫌われ,社会的関係を失うことすらあるのだ。 この物語では,運悪く,一人のビョードロが,あやまって,殺される。で,このとき,作者自身が演じているビョードロが,思いやりで,渡したガス・マスクが悲劇を呼んだ。作者には,友人が多くいた。彼らが,自分たちの意思で,劇団を去るのは自由であって,その時,作者はしいて止めなかった。ガス・マスク(就職)で世の中生きてみろ! 役者にならなかった人間は,ガス・マスク(就職)をして,もはや,ビョードロなんかやっちゃくれない人たちだ。しかし,お金も得,地位も,妻子も得ても,死んだようなものじゃないか。毎日,酒ばかり飲んでいて,一体どうしたんだ。あの合宿で,一晩中,熱く演劇思想を論じたときの楽しさは,もうどこにもないのだ。おまえたちは,上機嫌なのか。
2013/06/11 03:53
ふじたん
演劇の魂を,呼び起こせ!もう一度,原点から考えよう。 文学には,象徴の言語という考え方がある。赤ずきんちゃん,にしても何にしても,表面的なお話ではなく,何かを現していて,それに作者の意図が隠されていたりすることは多い。 『ビョードロ』の童話は,細菌兵器の愚かな人類の話かもしれない。あるいは,ジョウキゲンは,人の優しさをデフォルメしているもののような気もする。しかし,私が,たった一度ではあるので,十分に確認はできないが,これは,演劇という世界の話かな,と思う結論にいたった。 どういうことかと言うと,作者の意図は別のところにあったのであれば,それはそれ。藤田流で,想像力をはたらかせ,洞察すると,ジョウキゲンは,演劇の魂を象徴するものだ。それは,あちこちに行って,その世界を変えてしまうのだ。やがて,空気感染というような形で,社会をひっくり返すようなことにもなる。だから,為政者は,これをつぶしにかかるのではないか。 『ビョードロ』の血を持って,演劇の魂・タネは,もちろん滅ぼすことはできる。彼ら自身が逆の作品を作ることもできるだろうからだ。しかし,演劇人は,純粋過ぎて,内部分裂を何度も起こす。仲間は,進学した以上,呼びかけ人をおいてきぼりにして,さっさと就職しちまう。裏切り者,ばーか,ばーか。お前こそばーか。そっか,こんな廃れ小屋で,ロックシンガー衣装で,借金を抱えてこの先うまくいくのか。 演劇の子,演劇の魂は,純粋なので,それにいつも笑顔で,輝いているだけだ。さわると,死んでしまうので,近くによることもままならないが,光輝いて僕を導いてくれるのさ。やがて,内紛は,ピークに達し,演劇人だけでなく,支援者の分裂もあり,作風の妖しさに,日本国政府から監視されてしまうのかもしれない。 それにしても,何でここまで,演劇にのめりこむのか。あまりに,強烈に,演劇のあり方を変えると,それは,ある種の新興宗教みたいになっちまう。自分たちは,人間の優しさを布教する新型宗教団体か。いや,そうじゃない。まあ,それでもいい。お金や,地位がなんぼのもんだね。いずれは,人間は死んでいく。おい!おまえら,貴重な時間に何をやってるんだよ。俺たちのでなくても,いい演劇見ろよ。カメラに収まる映画より凄いぞ。 演劇の魂を,呼び起こせ!もう一度,原点から考えよう。
2013/06/08 06:53
ふじたん
私は山梨県甲府市にいて,最近やっと演劇にめざめた初心者です。なので,マチネがとかも,なんの待ちね!というぼんくらです。ジョウキゲンは,ジョウキゲンでは決してなかったことにあとで,気が付いて反省しきりです。 もう演劇人生も駆け足で観ないと,きっとどこかでいいものがあるのかもしれず,あと二週間も,『汚れた手』『ヘッダーガプラー』『鹿鳴館』『オセロ』とチケットを取っていますので,そちらに再度顔を見せる余裕はありません。 演劇などのマニアは,どこか非常識な人で,現実を逸脱した世界に遊びたいのでしょうから,そこを,常識でもう一度巻考えてというなら,いつも,劇団四季にでもいっていたら良いのではないでしょうか。 記憶力は比較的良いので,一度しか観てなくても,ずっと反芻して,本公演の内容を理解し,今後の良い人生・観劇生活に参考にさせています。これから,少し蒸し暑くなりますので,体調など気をつけてがんばってください。 私は,平和主義で,ケンカ的なものや,そういうのを結構苦手だし,しばらく貴劇団・観劇は辞退します。一発退場でも仕方ない。ただ,思い出して,いつの日かまたお会いできるかもしれません。今回は,失敗しました。ちょっと,暴挙でした。
2013/06/07 22:10
ふじたん
おんぼろが,全身全霊をかけて紡ぐ,美しくも切ない物語。 たった一度観た演劇で,こんなにインパクトあったものはほかにない。主人公のジョウキゲンは,ふれると相手を殺してしまうのに,相手にふれることができない。救いたい人を救いたい。どうしたら,ジョウキゲンを救うことができるのか。人としゃべれなくなって,人に八つ当たりし,街をうろいつた。役作りというものは,本当にかくも苦しんで,あのような美しい作品ができるろうなあ。納得。『ビョードロ』のことばかり,考えて考えて,病気になってしまった。寝ても覚めても『ビョードロ』。わかるなあ。 脚本を書くのは,スケッチに似ている。世界が決まれば,その景色をスケッチすればいい。納得のいくものを,なんとか仕上げたいたい。物語を書くのは,物語を消すことかもしれない。決して,上から目線ではないよ。舞い降りて,きょろきょろして,誰かを生かしてあげたい。誰かをしあわせにしてあげたいのさ。架空の世界だから難しいこともある。森はなぜ白いの。稽古は楽しい。ほんとうに楽しい。この贈りものをささげたい。一人でも多くの人に。なんか,わかるわ。すごい。 はじめて会って,ちゃんと,来た理由をきいてくれたお兄さん,いいとこいくぞ。がんばれ。そして,最後,おばかな私と三人で写真におさまってくれた人たちありがとうね。 あとは,動画は,少し不安ですよ。あの状態でフリーにしちゃうと,みんなが写っちゃうから。ぼくの,鼻水たらしたショットがどこに出回ってもいいけど,長い目でみたら,心配さ。では,また,いつかお会いしましょう。がんばれ。おぼんろ劇団!
2013/06/06 06:32
流れ星
ほんとうに,毎日,あんなことになっちゃたら,本当どうなっちゃうのか? 考えちゃいますよね・・・傑作だと思います。
2013/05/27 20:32
化石の森
きこえるよ!耳をすませばですね・・・
2013/04/09 13:07
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