ハンダラが投票した舞台芸術アワード!

2018年度 1-10位と総評
『戦争戯曲集・三部作』

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『戦争戯曲集・三部作』

劇場創造アカデミー

 “大いなる平和”と題されていることから、陳腐な平和の毒についての記述かと思っていたら、トンデモナイ。(花5つ☆)

第三部も緊張の連続であり、いい意味で裏切られた。
 客観的状況は一・二部と変わらない。何せ核戦争で地球上のありとあらゆる地域が汚染され、人々は被ばくの恐怖と寄り添う形で生きてゆくしかないのだ。動植物の殆どが死に絶えているから、食糧確保も並大抵の苦労でないのは、砂漠化したエリアでの生活が描かれるパートでは同様である。
 第1部では、組織を代表する軍隊の論理を貫徹する為に用いられる論理と組織維持を最優先することを前提とし得る状況の、前提条件が言外に描かれていた。同時に一旦始動した軍が、争闘の論理を、軍の規律を守るという規則の論理にすり替え、他の一切の論理の可能性と考えるという行為を圧殺する模様が描かれた。
2部では核爆発の猛威によって、自らの生と死の判断を下すことすらできなくなった人々や、核爆発は生き延びコミューンさえ作って発見した缶詰を食糧に何の苦労もなく生きていた人々は、新たに生きている人間に接し、幸か不幸かコミュニティーメンバーが死んだことからパンデミックを疑い、境界領域で猜疑心を膨らませ、それによって自滅しかける様を悲喜劇として描くアイロニーパート。
 第3部は、漸く数々の試練を経た後にも生き残った人々相互は、互いに出会うことになったが、個々の自由とシガラミとの葛藤の中で結局何をどのように選ぶのか? という問題に関しては総てを統一的に捉えることのできる論理・実践を見つけ出すことができない、というこれまた皮肉な結末。
だが、如何にも西洋の戯曲らしく、個々人の自由が最優先されてその意味で、救いが無い訳ではない所に救いを見出すことはできよう。何れにせよ、大変な傑作である。

燃えひろがる荒野

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燃えひろがる荒野

ピープルシアター

 壮大である。この何年かの間に観た作品の中で最もスケールの大きさを感じる舞台であった。(少し追記2018.10.5 絶対お勧め! 文句なしの華5つ☆)

 舞台は大きく3段になっている。手前が最も低く、奥へ行くほど高い。奥の2段に特段箱馬などの設置はないが最上段上手には、仕掛けがあって天井から吊り物が下げられたり、部屋の一室を構成するような仕掛けがある。他は中段上手に平台が置かれやや高い位である。舞台随所にススキがあしらわれており、目隠しや点景として機能している。手前が最も作り込まれた場所だが、それでも下手に平台を1つ、上手には平台で創られた2段の段差を持つ構造物が見える他、ほぼ中央に腰かけに丁度良い高さに切りそろえられた大小3つの切株が適当な間隔を置いて配置されているのみだ。 
 原作は船戸 与一氏の「満州国演義」だが、この長編を3部に分け、今回はその第2部。時代的には、満州国を成立させその経済を安定させると共に北方に於いては武装開拓民を配置して対ロシアの備えとすると共に「漢、満、蒙、朝、日」の五族協和などという茶番を唱導してアジアを植民地化する為、柳条湖事件をはじめ、傀儡として溥儀を立てて満州国独立を強行するのみならず謀議に謀議を重ねて石炭や鉄などの地下資源収奪を目指し単にアジアに於ける覇権のみならず欧州へもその目論見を広げようと夢想していた。己の地歩も定かならぬに、その数十倍もの経済的規模を持つ地域への覇権すら夢想していたのである。その根拠は高々松陰の「幽囚録」にすぎまい。
 百歩譲ってこのような覇権主義が正当性を持ったにせよ、それを実際に実行するに当たっては、その時点時点での徹底的な調査と客観的判断を得る為の矢張り徹底した分析が必要であることは言を俟たない。然るに南洲亡きあと、(薩)長政治を通して培われたのは謀略によって敵対者を討つこと、制圧後そこから長い時間に亘って収奪するシステムを作り上げることではなかったし、明治以降そのような長期的視点に立って日本の為政者は支配して来なかった。それは五族協和というお為ごかしとして政治的に用いられただけである。何と浅墓な知恵であることか! 敵対する者達を人間として扱っていないのだ。これも愚かなことである。反撃を甘くみてしまうことになるからである。無論、西欧に於いても異人種に対してはこのような態度が大航海時代以降取られてきたのは事実だが、翻ってローマ迄遡るならば、奴隷と雖も優秀な者は解放奴隷として豊かでステイタスの高い生活を享受しえたし、皇帝になる者もローマ人ばかりでは無かったことからみても、その能力主義と人間一般を射程に収めたユマニスムの概念が確立していたことは意識しておいて良かろう。オスマントルコの治世が長く続いたのも、その支配が、他の民族をも人間として認めるという姿勢を現実に実践していたからに他なるまい。脱線が過ぎた。

菜ノ獣

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菜ノ獣

尾米タケル之一座

 ドイスル!!(華5つ☆必見にゃ!)

 板上はちょっと変わった作りだ。奥に上手から下手迄延びる大きな平台を置いて一段高くし、最深部には、可動式のパネルを4枚配してある。パネルはレールで移動できる模様。無論1枚ずつ独立で移動可。これが袖にもなれば、出捌けの際の目隠しにもなる気の利いたモノ。中程に上下対象に少し板上に迫り出した部分があり、その前後に出捌けがあるので、通常の出捌けはこの4か所から行われる。この小屋の特徴である下手客席側に延びたスペースは用いられない。然し、用いない方が、通常の舞台のように前面に集中して観劇でき、今作の演出としては効果的な使い方と言って良い。
 物語は、遺伝子工学が増々発展し食糧難回避策として食べ物ともなれば、臓器提供者ともなれるスーパー野菜が完成し、ベジタブルちゃんとか、ベジタブルマンと呼ばれて人々の生活にはなくてはならぬ必需品として流通している未来の話だ。SF映画に詳しい方は、この話を聞いて「ソイレントグリーン」をイメージするかも知れない。自分もそんなイメージを持ったが、今作はあの映画程単純ではない。F1人災ほど大きくない原発事故が起こると、不審死を遂げる人が良く出ていたことを注意深く世の中を見ている人は気付いているかも知れない。他のことでも政府や大企業が癒着している場合には、このようなことが起きやすい。無論、亡くなる人は、現場の統括をするようなポジションの人物だから亡くなってしまえば現実に核心に迫ることが頗る困難になる。敵はそれを狙っているのだ。公安やマッポもツルンデいる。それにこの国では既に秘密保護法とやらの、為政者をガードし、追及者をテロ犯罪者扱いして葬る為の悪法がトックの昔に成立してしまっている。共謀罪もだっけ? もうとっくに成立しているさね、()内は東京新聞(2018/06/16 - 犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨を含む改正組織犯罪処罰法が成立して一年となった十五日、同法の廃止を求める集会が東京・永田町の星陵会館で開かれた。人権問題に詳しい有識者らから「監視社会につながる」といった問題点 .)まあ、じわじわくるね! 間違いなく。その為の「マイナンバー」だしにゃ。このネーミングも極めて作為的なのは、どんなに鈍感でも気付くことであろう。問題は、気付かないフリをし続け廃案への動きも起こさなければ、そのように動いている人々を誹謗中傷することで己のガス抜きが為されていると気付かない欺瞞である。今作は、その手の国家犯罪をSFとして仕立てた作品だ。極めて鋭い。お勧めの作品である。
 

『シーチキン®サンライズ』Musical『殺し屋は歌わない』

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『シーチキン®サンライズ』Musical『殺し屋は歌わない』

T1project

「殺し屋は歌わない」ミュージカル初日を拝見。
 T1プロジェクトのオリジナルミュージカル第2弾。作・演の友澤氏は、今作で5つの挑戦をしたという。先ずはそれを当ててみて欲しい。追記2018.5.1 。
 日程的に大体真ん中辺りだから5つの挑戦を明かしておこう。当パンをベースに引かせて頂く。
① ミュージカルをやらないような劇場でミュージカルを創る
② 生声で上演する
③ 転換なし、一場で進行する物語
④ ロングタイムのナンバーを入れる
⑤ 30年近く脚本を書いてきた自分自身の感性を30代前半に戻して物語を紡ぎ上げる
の5つである。
 結果的にミュージカルとしては、かなり素朴な作りになっている。然しT1プロジェクトの良さは、再演、再々演などという時に、時代や状況に合わせて脚本を練り直し、キチンとコミットしてくる点である。芝居というものは、生身そのものだし、2度と同じ舞台は作れないので、ヴィヴィッドある為にはその都度創造してゆかなければならないのは当然のこととはいえ、これをキチンと実践し続けることには、大変な努力と真っ直ぐで直向きな向き合い方が必要である。それを若い人達と一緒になってやっている所にこのグループの将来性と可能性があるように思う。

リチャード三世

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リチャード三世

芸術集団れんこんきすた

 今作、最大の特徴は、「時の娘」を埋め込んでいることだろう。(追記2018.4.27 01:32)華5つ☆

「時の娘」と言われてピンとくる方はそう多くあるまいが、シャイクスピアが、今作を書くに当たって資料とした文献は、勝者ヘンリー7世を正当化する史家のものしたものである。つまりチューダー家のプロパガンダとして書かれた史書をベースにしているとして、これに反した解釈を述べた本のタイトルが「時の娘」なのである。
 残っている歴史というのは、勝者の歴史に過ぎない、との歴史見解があるが、それを地で行った書物ということが出来よう。
 脚本家の奥村氏は「時の娘」のエッセンスを要約すると同時に自分自身の批評を込めてラストの科白を創作しているが、この科白によってシェイクスピアの傑作、「リチャード3世」という大作をひっくり返してもいる。詳細は追記するが、流石というしかあるまい。
 役者で気に入ったのは主宰の中川さんの、死神のようなイメージから「時の娘」に描かれたもう一人のリチャードの荘厳な佇まいに至る演技は無論のこと、リチャードの妻・アンを演じた木村さん(受け身で緊張を強いられる難しい立場を見事に演じた)、王女のエリザベス役を演じた佐瀬さんは、作品としての「時の娘」を体現してみせた。更に爽やかで聡明なエドワード王子を演じた中村さんも聡明故に己の位置を正確に知る王子の覚悟を演じて見事であった。

 多くの方が指摘しているように、噛む役者さんが複数いたことは事実で、残念ではある。然し、経済的基盤のしっかりした劇団の公演や、ヨーロッパの演劇環境と日本のそれとは大いに異なる。民衆の文化に対する感覚が異なるし、人間的なレベルでアートに対する考え方の基本も大きく異なる。こんなこともあってか、役人の文化政策自体、ヨーロッパ先進国に比べてお話にならないレベルである。標準語なる言葉が恰も存在しているような文部行政の言葉感覚も全く肯んじ得ない。少なくともヨーロッパの先進国は、標準的な言葉を定める為にその国のトップクラスの国語学者がチームを作って世紀を跨いで辞書を作る。だから、語源や初出から、時代を追って変遷してゆく意味から現代使われている言語表現をどのように位置づけるか等々を延々とやり続けている。そして例えばアカデミーフランセーズのような機関が国語全般に亘って侃々諤々の議論をして正しい言葉、用法を示して基準としているのである。日本でこのような基礎作業もせずに標準語などと言っているから、僅か数十年の間に送り方などが変わって混乱を来したりするのだ。全く何をやっているのだか、国民の貴重な税金を使って、監視社会を作ろうなどと馬鹿なことをしている。おっと、話が逸れ過ぎた。
 何れにせよ、人間社会の根底を為す言語に対する「国家」の態度がこの程度のものであるから、文化行政などあって無きが如きお寒い状況であるのは、芝居好きなら誰でも知っている事。こんな状況があって、小劇場演劇に携わる人々の多くが、生活の為に何らかのアルバイトをしつつ芝居をやっているという事情がある。シェイクスピアは、天才中の天才、その彼の天才ぶりは何処に発揮されているかというと、その科白によって登場人物の全体を活き活きと描いていることにある。その分、一つ一つの科白が長くなり、どうしても練習時間の少なくなりがちな小劇場出演俳優には負担が掛かる。無論、それでも噛むこと自体は避けられればそれに越したことはないし、噛むことの無いよう努力する必要がある。だが、このような状況を斟酌することも必要なのではあるまいか? 無論、脚本を書いた感受能力の高い奥村さん自身、これだけ密度の高いシャイクスピアの科白を刈り込むことには、大変な苦労をしたに違いない。感受能力が高ければ高いほど、その困難は増し当に死闘であったろう。同時にこのような脚本家は、今自分が生きている地域、時代、世界情勢についてもヴィヴィッドで高い感受性を具えてもいるものだ。そして更に優れた批評意識も。即ち今回脚本化としての原作を刈り込む作業は、感受性と批評意識との壮絶な戦いであったと考えられる。この作業が、高い精度で為されたが故に、ラスト部分で、この傑作を全く古びさせず、而も現代における差別史への視座、力関係やプロパガンダによって歪み得る我らの認識とこの事に対する批判及び反批判を通じての客体化、フェイクとファクト、それらを見極める知恵としての総てのメディアに対するリテラシー、これら諸問題に対するにあたり己の立ち位置と批評眼を如何にバイアスから解放し、メディアリテラシーを根拠づけ、世界に解放してゆくかに賭けたハズである。お疲れ様。一言ねぎらいたい。

沼田宏の場合。

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沼田宏の場合。

グワィニャオン

 沼田 宏が撥ねられて死んだ。(追記2018.6.26華5つ☆)
 彼が天国へ迎え入れられるか、地獄へ落とされるかは、死者達の園に暮らす12名の陪審員に任された。偶々選ばれた陪審員達は随分個性的だ。その元職は、ヤンキーもヤクザも地獄帰りの人斬りもいる。生きていた時代も様々だ。この他、看護師、教師、作家、革命家、ホステス、ホテルマン、オタク、社長、半死半生(中々明らかにならないのでここでも伏せておく)の12名。評決は全員一致制を採る。
 脚本は、如何にもグワィニャオンの脚本らしく、単に完成度が高いというレベルではない。実に落ち着いたそして説得力のある科白の応酬に満ちたシナリオである。この優れた作風が、科白を極めて自然に観客に届けてくれる。無論、今作の風合いを着実に観客に届ける演出、役者さん達のキャラの立った演技、照明と音響の効果とシンプルだが無駄の無い舞台美術や裏方さん達の活躍があって初めて、これだけ優れた作品が紡ぎ出される。

寒花

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寒花

演劇ユニット ハツビロコウ

 舞台中央に横長の机、机上には石油ランプ。左右及び奥に椅子が各々1脚ずつ据えられている。下手壁には、模造紙の上段中央に「安」と大書された文字、その左右と下には罫線が引かれ、「安」の字を囲むかのようだ。この模造紙の奥からやや右斜めと上手のシンメトリカルな位置に奈落がある。(華5つ☆追記後送)
上手壁際にはバケツが置かれ、舞台中央の客席側には料理に用いる寸胴のようなかなり大きなものがあり、湯気が立っている。暖を取る為のストーブと考えてよかろう。
 模造紙に書かれた「安」の文字は伊藤 博文を殺害した安 重根の苗字である。左右には、独居房下にも独協房があるのだが、安の左側は及び対面には、看守が、そして右側には、これまで獄卒に協力してきたことで模範囚とされている囚人が入り安を監視している。安の独居房は3寸の厚さの板を重ね、釘、ねじなど他の物を加工することが可能になるような金属類は一切入手できないようになっており、天上付近には24時間監視が可能なように天窓を加工し頑丈な鉄格子を配して電燈が灯されている。而も安を拘束する手錠には鍵が無い。一旦取り付けてしまえば、手首もろとも切り落とさなければ外せないという代物だ。開演早々、この図面に対する説明があって、事件のあらましと安に対する日本の態度が分かるという寸法だ。而もこの監視体制わざと一か所だけ空き部屋を設けるという念の入れ様。
 この図面の説明で今作のアウトラインが伝えられた後、安と隣接する模範囚の居る独居房は上手奥のコーナー辺りに設けられ鉄格子に捉えられた一角として描かれる。この導入部の展開が実に上手い。

明日

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明日

演劇企画イロトリドリノハナ

 タイトルから直ぐに原爆の話だと気付くが、一体我々は原爆の恐ろしさについてどれほどの想像力を持ち得るだろう? 今作のファーストシーンは、核炸裂の瞬間ではない。
日本によって戦後、勲一等旭日章を授与されたアメリカの将、カーチス・ルメイ旗下の米空軍による佐世保への焼夷弾攻撃である。日本全国に焼夷弾の弾雨を降らせた張本人だ。彼のやり方は、先ず逃げ場を塞ぐ。東京大空襲を例にとると、進入路の海側を除く3方の各辺を火の海にして一般市民の逃げ場を断ち、その上で絨毯爆撃をするというもので、僅か数時間で十万名以上の女、子供、老人が亡くなった。カーチスらは攻撃前「日本の家は竹と紙でできている、良く燃える」と笑っていたとの話は人口に膾炙していたから聞いたことがあるかも知れない。何れにせよ、当時の国際法でも一般市民への無差別空爆は国際法違反であった。それは、日本が重慶に対して行った空爆も同様である。国際関係論の中で、以上の事実を挙げただけで何とかの一つ覚えを繰り返す御仁も居るが、そんなことはおいて、今作は、もっと肝心なことを描いている。それは、殺される側の生活である。フィクションという形ではあるが、史実をキチンと踏まえ庶民の日常を丁寧に描いている点、対比する戦争を情報とヒロイン・ヤエの姉、ツル子のB29恐怖症として表している点が秀逸である。8月8日から、原爆投下の瞬間迄の26時間の要所、要所を時刻表示で表し、不可逆的な時間の齎す不可避性を最も効果的に表現した演出も、役者達全員の、役を生きる一見控え目だがタメの効いたしっかりした演技も良い。原作は知らなかったのだが、原作も是非読みたくなる出来である。上手奥に掛かる掛け軸や有田焼の壺なども、この一家の社会的位置と気位を偲ばせる。同時にあの時代のヤエの婚礼に出席する者達の中に、紋付袴や和服を着ている者が登場したり、お頭付の鯛が登場したりするのを近隣の者達が涎を垂らさんばかり食い入るように見つめているさまを表している点、矢張り近隣の者が、物資横流しの罪を被った親戚の者の娘を恫喝して石鹸を奪い取ってゆく様を描く辺りのリアリティーが、戦争の最も本質的核心である情報戦と経済力・政治力などの下支えとして機能していることも見逃せない。
 更に、戦争で傷ついた者が持つデカダンスとニヒリズム、苦悩の帰結としてのさつきと石原の関わりも、単なるサイドストーリーに終わらぬ深い考察を促す点がグー。

【ご来場有難うございました】THE TRUTH OF PALM

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【ご来場有難うございました】THE TRUTH OF PALM

super Actors team The funny face of a pirate ship 快賊船

 舞台は客席中央に花道をとって板に通じる形。板上手前はフラット。奥中央の出捌け手前の板面から中央に向けてシンメトリックに右旋回、左旋回する階段が設けられている。この階段を上り切った所にも出捌けがある。同時に板フラット部分の上(カミ)、下(シモ)にも出捌け。花道も出捌けに使われる所に動きの多い作劇をするこの劇団の特徴が現れていよう。(華5つ☆)
 1945年8月9日、アメリカによる長崎への原爆投下から敗戦後の庶民の生を、戦中から人間としての当たり前の価値観(肌・髪・目の色、国や宗教の違いで差別してはいけない。命は同じだという判断)で生き抜き、非国民の誹りを受けながらも行為で自らの判断を実践してきた医者と教師とその家族。彼らに助けられ、恩を蒙った彼らが困難に追い込まれた時にはちゃんと恩を返し続けた在日朝鮮の人々の篤い紐帯と築地小劇場の役者達をモデルにしたであろう自由主義者の役者、自由の意味する所と実践すべきことを実践し得た勇気ある人々のブレの無い生き方を中心に、非国民呼ばわりをしたり、赤紙や時代の流れの中でポピュリズムの嘘を見抜くには若すぎた少年兵たちの言動を対置することで、また朝鮮の人々の中にも差別する日本人に反抗する人物も描いて一筋縄ではゆかぬ人間の在り様を重層化してみせると共に、士官兵卒の差と命令の下に行動する訓練を受けた軍人たちの縛られた生き方を加えることで、更に大人達の個人的悩みや社会人としての在り方、時代に対する対応の是非、またその方法、普遍的価値と時代のイデオロギーとの相克等を輻輳的に描いてみせた秀作。個々のエピソードの具体性やリアルな感覚を呼び覚ます科白と身体表現、演出も素晴らしい。被曝者を含む多くの戦争犠牲者が感じていることをキチンと描き出している点でも秀逸。日本で現在軍事化を推し進めているアホな政治屋共にも是非観せたい作品である。

瀬戸の花嫁

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瀬戸の花嫁

ものづくり計画

 序盤、何と冴えない、ダサイ作品! と思わされた所から術中に嵌ってしまった。花5つ☆
ヘタウマの手法だったと気付いたのは中盤後半辺りだ。島の人々の素朴さを表現する為に敢えてダサイ、ちょっと都会感覚からずれた生活態度、風景、発想を序盤でたっぷり味あわせ、中盤に入ると徐々にそのぎこちなさを克服するという形で、観客を取り込んでくる。その如才の無さは半端ではない。完全に芝居の内容を観客に追体験させているのである。
 一方、劇中でもこの観客の追体験の流れと並行する形で、島の人々が大失敗をやらかしたり、あってはならない喧嘩を始めたりすることで、都会から来た女性達の隠して置きたかった過去をカミングアウトさせるまでに解放する。この流れが自然に感じられる所が素晴らしい。脚本の良さは無論のこと、手際の良さを見せないほど練達の演出が素晴らしいし、役者陣の演技もいずれ劣らぬ素晴らしいものであった。音曲の合わせ方、照明効果も見事なコラボレーションを為して観客の感涙をそそった。
 終演後、外に出ると、皆既月食がほぼ、完成する所、天体までが応援してくれたような舞台であった。

総評

 1位~3位迄は極めて社会性の高さが前面に出た作品で、特に1、2位はスケールの大きさが際立った。本当は25本位をリストアップしたかったのだが、10位までとの条件でこのようなことになった。自分の中で25位位迄作品のタイプが異なるのでどちらが上位というのは殆ど決められないような僅差だった。

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