ここには映画館があった 公演情報 ここには映画館があった」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★

    坂手洋二のアマルコルド
    映画的に言うと。
    (「映画」を中心とした)「アマルコルド」。
    生涯忘れ得ぬ1年。

    燐光群の面白さは、リアルで執拗な台詞の濃さがありながらも、そこから、すっと浮遊するように、演劇的な、本当に、とても演劇的な空間を作り上げていくところにあると思う。

    それは、どちらかに惑わされるとどちらかが見えなくなってしまう。

    ネタバレBOX

    誰にでも思い出の年がある。

    坂手洋二さんにとっての、その年が「1976年」。

    ある地方の映画館で76年に上映された映画を、執拗に辿る物語。
    その徹底さと執拗さは、いかにも燐光群。

    脚本・演出の坂手さんの個人的な思い出が詰まっている作品。
    女子中学生のエピソードのいくつかは坂手さんのもののようだ。

    実際、映画好きの学生が集まったら、こんな風に際限なく、映画の話をし続けるだろう。
    映画好きなので、よくわかる。

    「あの映画はこうだった」「この映画の俳優は、あの映画ではこういう役で…」「監督は…」と、終わることを知らない。
    映画の一場面を再現することもある。
    この舞台では『タクシードライバー』のラストシーンが楽しそうに再現されいていた。
    ほかの作品も、少しだけ顔を出していたりした。

    若いこともあるが、自分が心を動かされたコトを、人にどうしにして伝えたいと思うからだ。
    その気持ちはよくわかる。
    こうして、ココに舞台の感想を書いているのも同じような衝動からだ。
    それを共有できる仲間がいれば、なお楽しい。

    劇場を出るときに、「どんな映画かわからなかった」「説明してくれればいいのに」と話していた女性たちがいたが、それは違う。
    ある映画の喜びを共有して、楽しそうに話す仲間の会話で、いちいち「こういう映画だったね」と説明するのはヘンではないか。
    そんな説明しないで、話をするのが普通だろう。
    逆に説明をしてしまったら、仲間との楽しい会話の感覚が削がれてしまう。
    さらに、どんな演劇だって、映画だって、引用した作品(映画に限らず、音楽、小説等々)について、「こういうストーリーです」みたいな説明を加えるのはスマートではないだろう。

    ここは、「そういうタイトルの、そんな感じの映画があって、76年には映画好きが盛り上がったのか」と思えばいいだけである。

    もちろん、引用される映画についての知識があれば、なお楽しいのは当然だ。
    知らなければ、彼女たち「映画仲間」の外にいる、と思えばいいだけのことだ。

    当然、ストーリーに関係してくる、例えば『リップスティック』などは、その内容がなんとなくわかるようにしてある。

    つまり、この映画に沖縄が示唆される。
    普天間問題が激しい怒りとなったのが、米兵の少女暴行事件。『リップスティック』のタイトルを聞いて、その場から離れた転校生が「何かあり不登校になった」のは小学校高学年ぐらいのこと。もちろん、沖縄の少女と同一人物のはずもないが、あとで語られる沖縄のエピソードにつながっていくのだ。
    さらにその彼女は、米兵の家族であるアメリカの少年(このときはそう思っていた)と文通を始めることになる。

    話を戻すと、そうした76年の映画の思い出と、中学になってから転校してきた、映画好きな女の子との出会いから、さらに彼女たちの映画体験は大きく膨らんでいく。

    大学生たちのサークルや自主上映会の参加、父との関係。
    さらに、沖縄へともつながる。

    映画という暗闇の中から、外につながっていく、中学生たちの時間が語られる。
    76年は、そういう彼女たちの、ひとつのターニング・ポイントだったのかもしれない。

    女子中学生たちが主人公であるが、やはり裏にいる主人公は、あくまでも「坂手洋二」なのだ。
    だから「坂手洋二のアマルコルド」なのだ(面倒なので『アマルコルド』の説明はしない。『フェリーニのアマルコルド』です)。
    現実世界、現代につながっていく先で、坂手さんが一番関心が高いのが「沖縄」ということだから、この作品でも沖縄につながっていく。

    映画館、映画と、一見、間口のようにして、実は「超個人的」な世界を描いている。
    もちろん、坂手さんには確実で、当然な道筋が見えているのだ。

    観客は、その道筋を見て、坂手さんの世界を辿ることになる。
    だから、すべてについて説明はできないし、不要なのであろう。

    だからこそ、弱点もある。
    「沖縄」について、語るシーンだけがやけに解説すぎて、現実に連れ戻されてしまうのだ。

    また、幻想的とも言える、蛾のイメージと女性のイメージも、ひょっとしたら坂手さんの体験、または願望なのだろう。
    2013年から戻ってくるシークエンスも意味深だ。
    しかし、両方ともに、一方は女性の書いた小説、もう一方は映写技師のシナリオだった、というオチは、説明的すぎて、これも冷める。

    この2つのエピソードはとても演劇的で面白いと思う。
    したがって、具体的なオチを見せなくても、匂わせるだけで十分だったと、私は思うのだ。

    「もうひとつのラスト」もこの作品のキーワードだろう。
    映画好きが、自分なりのラストを考えるということはよくあるだろう。
    それが、キーワードになり、この作品の中でも活きてくる。
    何しろ、この舞台そのものが、もうひとつの坂手ワールドでもあるからだ。

    映画のタイトルの列挙、沖縄のシーン、いずれも、観客にとっては均一の「想い」があるわけもなく、作品からの「熱」の伝わり方も悪い。
    だから、どちらか一方にピンとこなかったり、両方ともにピンとこなかった観客は、視点を失ってしまうのではないだろうか。私は沖縄のシーンがピンとこなかった。
    この「超個人的」な作品が、私(観客)の普遍的な意識にまで到達しなかったのかもしれない。

    『ここには映画館があった』という懐古的なタイトル。
    映画館はなくなりつつあるが、映画館でいろいろ学んだ、ということへの感謝の気持ちもこの作品にはあるのではないだろうか。

    それがノスタルジーで終わってしまったようなところが、少し残念ではある。
    「映画の中の人は死なない」「生き続ける」という台詞も、少し悲しい。映画(映画館)好きのあがきのようだ。
    映画の未来がよく見えないのはわかるが、なにかもう少し「明かり」がほしかったというのが本音だ。

    比較的小規模の、町の映画館を模したセットはよかった。
    客が入っている映画館、入っていない映画館、オールナイトの映画館、それぞれのイメージが現れていた。

    休憩時間以外のほとんどの時間は真っ暗で、ひとりポツンといるのが映画館であり、ひとりポツンといながら、周囲の観客と時間を共有しているという、特殊な空間のイメージも出ていたと思う。

    ラストはとても好きだ。
  • 満足度★★★★

    映画を通して日米関係を見る
     映画好きには堪えられない内容に沖縄の現実を重ね、以て日本全土の沖縄化をも示唆、米国の植民地、日本を照射している点は流石である。

    ネタバレBOX

     話は1976年に日本で公開された映画を中心に、映画大好き少女3人組と地元の映写技師を中心に進む。少女のうちの1人が、応募した原稿で賞を取り、その事が報じられた結果、沖縄に住む、ピーターという人物とペンフレンドになったことで、沖縄は、もう一方の極になる仕掛けだ。
     坂手氏自身が映画少年だったということで、鏤められた映画情報は、見事なものである。また、日本という国を見る際、沖縄からの視点で見ると実にハッキリその正体が見えるという事実も指摘しておきたい。観客諸子も良くご存じの通り、坂手作品には沖縄を扱った作品が実に多いのは、作家自身の表現する者としての立ち位置が、本質を見通すことのできる所にあるということであろう。1995年の少女拉致・輪姦事件という最低最悪の凶悪事件に於いてすら、植民地日本は、起訴に至らない限り、関与の明らかな犯人引き渡しが請求できないという日米地位協定の差別そのものの規定によって実行犯3人が引き渡されなかった件以来、島ぐるみ闘争が激化する中で、日本政府が取った態度は民主主義を標榜する独立国のものでは無論ない。寧ろ、近代以前の封建制だろう。江戸時代であれば、幕末を除き、それでも独立国の体裁は保っていたのだが。
     私見によれば、それもこれも、益々、力を増してくる中国と勢いを盛り返しつつあるロシアを睨んで日本をアメリカの前線基地とする為のステップである。つまり、沖縄の現況が、全国レベルで展開されるということだ。秘密保護法、日本版NSC、その先には国家安全保障法案概要で示されたように、憲法改悪等しなくとも集団的自衛権が行使できる体制構築がある。また日本版CIAとして諜報機関新設も公言されているのだ。こんなもので、自分だけは安全だなどと考える国民が居たとしたら、そいつはホントにお目出度い、としか言いようがない。イマジネーションの欠落をおぞましい迄に露呈しているからである。
     何れにせよ、映画の楽しさも含めて、日米の関係が良く分かる作品になっている。
  • 満足度★★★

    舞台機構的には、成功作なれど
    しばらく坂手作品には御無沙汰続きでした。

    社会性があって、勉強にはなるけれど、少し理屈っぽくなって来たし、役者さんが高齢化されて、坂手さんの書く膨大な台詞を消化できなくなりつつある感じで…。

    でも、私もかつて、映画に通い倒した時代があるので、懐かしくて、一昨日、劇作家協会割引で予約して、行ってみました。

    伊東豊雄さんの建築物が大の苦手の私は、この劇場ができた時から、演劇愛を全く感じない劇場の作りに不満を覚えていましたが、今回の舞台は、弱点を生かした舞台機構のアイデアが成功していました。

    横長の舞台を見上げる形の観劇は、芝居の内容以前に、人間工学的に不自然な体形を強いられ、苦痛を感じることが多々ありましたが、この舞台は、客席より、舞台が低位にあり、大変見易く、空間に馴染むのにも時間が掛りませんでした。

    ただ、心配したように、社会性を前面に出す坂手風劇作は、今回の作品でも例外でなく、どうしても作者の言いたいことを伝える舞台が第一義となって、後半から、世界観がどんどんいつもの坂手風味になってしまったのは、やや残念でした。

    古き良き映画館へのノスタルジーに主軸を置き、それとなく、沖縄問題などを隠し味ぐらいな感じで提示した方が、この芝居の場合、効果的だったように感じます。

    芝居の中で、「ニューシネマパラダイス」がディレクターズカット版は感動作だったのに、完全版は、蛇足で、すっかり駄作になってしまったというような台詞があり、内心、そうそう坂手さんの書く芝居も、そういうところあるあるなんて思っていたので、観終えて、政治色が強い部分に、同じような感想を抱いてしまった自分に受けてしまいました。

    当パンに記されている、劇中に言及される映画群リスト中、私が観た記憶のある映画は、ちょうど50本でした。

    この作品の舞台になる時代に、きっと私も一番映画を観たのだと思います。
    それに、自分のラジオ番組が始まる時に、ホテルでジュリアーノ・ジェンマさんと会って、私への応援メッセージを頂いたことがあるので、彼の名前が出てきた途端、自分まで、あの頃に気持ちがタイムスリップしたりもしました。

    でも、これらの映画を観たことがない観客には、この舞台、どうだったのかと大変疑問でもあります。それでか、かなりモゾモゾ動いたり、寝ていた観客も多数いました。

    そろそろ、燐光群の芝居作り、再考の時期かもしれません。

    ネタバレBOX

    客席と対峙して、映画館の客席が設えてありました。

    蜷川さんの演出舞台でも、こういう形式のがありましたが、今回は、舞台のセットの方が、客席より、見下ろす形になり、この劇場の舞台機構の不備を逆手に取ってお見事!さかてさんだけあって…。(笑)

    途中から、主人公の一人、サヨコが、少女時代、沖縄でレイプ被害に遭ったのかもしれないというヒントが提示され始め、そのあたりから、舞台は、沖縄問題など、社会性色濃くなって行きます。

    「リップステック」という映画がありました。今で言うデートセクハラ。主人公が、知り合いの男性にレイプされるシーンが、当時の私には衝撃的でした。この映画を観て以来、しばらく男性不審に陥りました。
    この芝居でも、自主上映会をする男子生徒が、この映画に興奮するというようなニュアンスの台詞があり、それがサヨコの昔の傷に泥を塗ります。

    同じ映画館の座席のみで、舞台は、ちょうど「屋根裏」の時同様、時代も場所もあちこちに変化して行きます。その見せ方自体は大変気が利いて面白いとは思うのですが、語られる映画に関して、何も資料がない観客にとっては、かなり難解に映ったのではないでしょうか?

    「リップステック」ひとつ取っても、この映画を観たことのない観客には、サヨコの痛みはたぶん理解不能です。

    最後の方で、飛行機の中の映画鑑賞シーンがありましたが、これは視覚的にも、かなり斬新なインパクトがありました。

    セットの座席は、1970年代の映画館のそれには見えませんでした。当時は、赤い椅子が大半で、座席のスプリングの裏側は、布製だったように覚えています。この舞台の映画館の椅子は、裏がスチール製で、色はオフホワイト。
    これは、後半明らかになる、ビリーがいた、沖縄普天間基地内の映画館の座席を示唆していたのでしょうか?
    アフタートークで、質問できたら伺ってみたかったのですが、ゲストに、坂手さんが一方的に質問するだけの形態で、興味のない観客が、三々五々、先に退場されて行かれました。アフタートークの形式にも、もう少し、観客目線があればと感じました。

    それにしても、この作品で、重要な意味を持つ蛾、フイルムも消滅したけど、最近蛾も見かけなくなりました。
    私の子供の頃には、嫌という程いたのに。これも、地球環境の変化のせいかしら?人も植物も、動物も、日本は、在来種が絶滅の一途を辿り、外来種が席巻する国になりつつあるよなあなんて、余計な不安も心を過った舞台でした。
  • 満足度★★★

    斬新な美術に驚き!
    とともにちょっと不安が。舞台空間が広すぎて、声がばらけて聞き取りにくい役者さんがいて、そうなってくるとこの長尺かつマニアックなお芝居、だんだん苦痛になってきた。映画というか、映画館をテーマにしているがエンターテイメント性が薄く、フライヤーからの印象とはほど遠い。さらに初日のせいか台詞の噛みが多く、緊密さに欠けてしまったのも残念。さほど映画に執着の無い人間にとっては、懐かしい映画名が出てくるたびに、少しでもプロジェクターででも映画の一場面を流して欲しかったなぁと感じた。(こういうの難しいのかな?ポスターでもいいのですが)視覚的にちょっとさみしかったですね。

    ネタバレBOX

    普天間基地問題などでどんどん長くなってきた舞台。これ脚本家の意思を強く感じた。言いたいんだなぁ、述べたいんだなぁ、という感じ。それより、1970
    年代に特化した映画フェアなんてどこかでやってくれないかな?面白そう!
    映画というか、フィルム、映像というのはもともとは時事問題を一般市民に知らしめると云う一面を持っていたというから、映画と政治問題を絡めるのは作者の方にとってはすごくナチュラルな流れなのかもしれないな、と一日置いてやっと気が付いた。でも公演中は気が付かなかったなぁ。なので唐突な感じでした。
  • 満足度★★★★

    名画座懐かしい!
    懐かしい映画名がどんどん出てきて本当に懐かしい。
    1976年 ロード~ショーは有楽座(現日比谷シャンテ)中心に日比谷で観てた。
    当時ロードショーも入れ替えなし、最低2回は観てた。
    友達とは、名画座の八重洲スター座、飯田橋佳作座、飯田橋ギンレイホール、
    池袋文芸坐、三鷹オスカーなどで観てた。入れ替えなしで名画座は2〜3本立て
    350円〜400円と記憶楽しかった。京橋にあったフイルムセンターは200円しなかったと思う。岩波ホールの亡くなられた高野悦子さんが自分で探した上質映画を上映するようになった(1974年)
    フェリーニ、ビスコンティ、ベルイマン、パゾリーニ、デヴィッド・リーン、も皆これらの劇場で観た。

    ネタバレBOX

    劇場に入って驚いた。
    客席が左右にある。そうです。片方は舞台としての映画館の客席でした。
    映画好きの女学生に現代(2013年)からタイムスリップした男、撮影技師などが登場。1976年の映画から好きな映画を選び上映を願う。
    途中、普天間の話が入るが、さすがにこの映画で出すのは無理があったように思えた。
    それを除いては、斬新な芝居で楽しめました。
  • 満足度★★★★

    思春期と映画と沖縄と
    燐光群ですから単純な映画館の話ではないだろうとは覚悟してましたが、ここまでスケールでかいとは…。50歳前後じゃないと、すべては理解できないのでは?おっさんの俺でもわからないところが多かったくらいなので、隣に座っていた高校生二人組は頭抱えていた。彼らゴジ監督なんて知らないだろうに。あと、初日とはいえ役者さんがカミカミでちょい残念。

このページのQRコードです。

拡大