満足度★★★
SYMPOSIUM
壁に映像が映される四角い空間。観客は床に座ります。出演者がテーマごとに話し合うのが“シンポジウム”っぽい。脚本通りのところもあれば、アドリブもあると思います。たぶん回によって全然違うんでしょうね。私が観た回は大人しい目だったんじゃないでしょうか。観劇ではなくワークショップのような後味。
満足度★★★★
ポストドラマ
「こんなの演劇じゃない」などと言うつもりは毛頭ない。
テキスト(脚本)ありきではない演劇の可能性を、私は観たいと思っている。
役者が役を演じるのではなく、生身の人間の存在と、その人間が紡ぎ出す言葉、そこに生起する空間こそが演劇であるという考え方に異論はない。
ただ、この作品は、ただの「シンポジウム」でしかない。
演劇的な仕掛けは多少あることはあるが、劇的な効果は生んでいない。
語られた内容は、正直、導入に過ぎず、深まることはない。
それでも、テーマとなっていることは、今の時代に自分(たち)はどう向き合うのかということなので、興味深くはあった。特に「当事者性」の問題など。
また、埼玉県の富士見市で行われているという場所性を踏まえて公演が行われているという点はとても良かった。
(満足度をはじめ★3にしましたが、作品の可能性を考えて、★4にしました。)
満足度★★★
言葉とコミュニケーション
役者、ダンサー、批評家等からなる9人の出演者がタイトルの通りに討論会をする作品で、素で会話しているように見せながら、ラストにメッセージが浮かび上がってくる様に仕掛けが施されている構成が印象的でした。
3面の壁に映像が投影され、壁に沿って置かれた椅子に出演者達が座って議論し、観客は間のスペースの床に座って観る形で、冒頭に各出演者の出身地や現在住んでいる所を絡めた紹介がありました。
第1部のテーマは「なぜそこに住みたいのか?」で、土地への執着・愛着、記憶の積み重ねといったトピックについて討論し、第2部のテーマは「選挙について」で、選挙に止まらず政治との関わり方について議論が展開しました。
20分程度の休憩時間(飲み物とお菓子が観客に配られました)が入り、出演者と観客が入り混じった『響宴』の場が形成されていました。
第3部のテーマは「SNSの使用法について」と「愛について」で、後者についてはマ・ドゥヨンさんが韓国語で長く語った内容を通訳が一言に要約してしまい、言葉で伝わること/伝わらないことについて考えさせられました。
エンドロールの映像が流れたあと多田淳之介さんが現れて、その日の公演を振り返り、最後に「なぜ言葉を用いるのか」(うろ覚えで不正確です)というテーマを挙げるものの、誰も答えず沈黙のまま数分経ったところで終わりました。
即興的にテーマが決まって展開した様に見えるものの、チラシや当日パンフレットに書いてあることに絡んだ内容だったので、予め全てが構成されていたのだと思います。
東京デスロックがここ1年の間続けている、『リハビリテーション』、『カウンセリング』といった、物語性のない、素(あるいは素の様に演じている)の会話をベースにした作品は、観客に能動的に考えることを促していて興味深い試みだとは思いますが、今回は切れ味が弱く感じられ、普通の討論会とは違うことを示す演劇的な趣向がもっと明確に見えた方が良いと思いました。
満足度★★★★
東京デスロック「シンポジウム SYMPOSIUM」観ました
出演陣を見た時点で、「あ、これはいわゆる演劇ではないな」と、予測がつきます。実際、会場に入った時点でそうでした(笑) 開演して行われる、二部構成の行為は、さらにそう。
場を制御しようとする成員と、容易に操作されない場。
感覚から離れた思惑で「ことば」を使う事の難しさ。
人はなぜ「はなす」のか。
自分と異なる人と交わる理由。
観客の多くが、この場にどういればいいか、かなり戸惑っていた様子。状況をさらに突き詰めた第二部の方が、合意ができていた雰囲気。
観客の中で動く物が重要。受け取るというようリ、喚起される。答えは提示されない。
先日名古屋で観た、村川拓也構成・演出「羅生門」を思わせる、演劇キワキワの舞台表現でした。 全員で、実験室のフラスコの中にいる気分。
何時間でもいられるのに、二時間で終わるのが不満(笑)