百年の秘密 公演情報 百年の秘密」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.1
21-35件 / 35件中
  • 満足度★★★★

    秘密はだれでも
    不覚にも(笑)ラスト間際泣いていた自分。思えば百年って短いのかもしれない。あの楡の木にとって百年は…。ケラさんの描く女性のセリフの素晴らしさに酔い、笑い、ドキドキして、ハッとして、そんな3時間20分でした。連休にもう1度観ることに決めました。

  • 満足度★★★★

    そして人生は続く
    100年間を3時間15分で。観終わって、頭がく~らく~らしていた。時間が経った今もまだ続いているので、パンフが読めないなあ。

    ネタバレBOX

    幼馴染みの女性二人を取り巻く家族史。ここは外国。時系列が遡るため、観客はことの顛末を知りながら、もがく人間の姿を観ることになる。それは愛おしくもあり、哀しくもあり。人生が木や死人の視点で語られることに安堵を覚えながら劇場を出た。
  • 満足度★★★★

    費用対効果の高いお芝居
     ケラさんの創るお芝居には、いつも見料以上の満足感を得ている。観られた方には賛否両論あると思うが、私にはとても「見応えがあり、映像を巧みに取り入れた格好良さ」は毎回センスの良さに感動する。
     今回の行きつ戻りつする芝居構成は、何度リピートしても楽しめると思う。可能であれば神奈川公演も足を運びたいが、キャパが大きくなり過ぎると伝わりにくくなるのでは?という懸念もあるかな?

  • 満足度★★★★

    いいおはなしでした。
    翻訳劇を観ている感覚でした。
    作品は、女性二人の人生が長いスパンで描かれ
    現在、過去、未来と時間が行き来し
    それぞれの確信にせまって行きます。
    オープニングとか、毎回、映像のアイデアには感心です。

    ネタバレBOX

    舞台は、大きな楡の木が中央と囲むように館の広間の壁とドア。
    出はけ(下手の2つめの扉と上手(屋外)がつながっている)と
    照明効果で館の内外にいる人物を分けています。

    兄エースとカレル(萩原聖人)の亡くなり方はありますが
    ドロドロとした表現は少なかった。
  • 満足度★★★★

    世界樹の木の下で
     木と話をする家族の物語である。
     伝説、寓話の時代から、ドラマの中心に「無生物」が配置される物語は決して少なくない。たいていの場合、それは物語のテーマを象徴している。『白雪姫』の「鏡」は人間の欲望そのものの象徴ではなかったか。そして「木」とは、「生命」の象徴であり、全てを内包した「世界」そのものでもある。北欧神話では世界の中心には宇宙樹があり、聖書においてエデンにあったのは知恵と生命の二つの樹木であった。
     ベイカー家の人々は、等しく、庭園の中心にある楡の木に執着する。その理由は、劇中、明確には語られない。語られないからこそ、それが不動の存在であり、「世界の中心」であることが明示されているとも言える。ベイカー家の興亡を「百年」見続けていたのもこの木だし、その「秘密」を抱き続けてきたのもこの木だった。しかし木は決してベイカー家の守護者であったわけではない。人間たちの生の営みも見てきたのと同時に、木はその死も、看過し続けてきた。過去も、現在も、未来も知り尽くしていながら、木は、人間たちに関与しようともせず、神のごとく沈黙し続けている。
     我々観客はまさしく「木」と同じ視点で、ベイカー家の人々の動向を見せられて行く。早い段階で、彼らの「結末」は観客に提示され、時間が過去と現在を行ったり来たりするうちに、我々はそもそもの「秘密」の始まる「発端」へと誘導されていく。そして我々は気付かされるのである。
     我々こそが「神」であることに。人類はなぜ「神」という概念を創造したのか。それは我々がまさしく「神」と同一の存在であったからなのだ。我々は、あの震災に対しても、今なお続く国家間の戦争や、人間の経験してきた全ての悲劇に対して、ひたすら「神」であり続けてきたのだ。
     即ち「神」とは、世界の運命に対して、あの木のごとく「傍観者」であることしか出来ない我々の「無力」を象徴している存在なのである。ベイカー家の「悲劇」に責任を負っているのは、実は「我々」なのである。

    ネタバレBOX

     ケラリーノ・サンドロビッチは、この戯曲を執筆するに当たって、影響を受けた作品として『背信』(ハロルド・ピンター)、『セールスマンの死』(アーサー・ミラー)、『夜への長い航路』(ユージーン・オニール)、『わが町』(ソーントン・ワイルダー)を挙げている。
     ことに『わが町』との類似性を指摘する識者は多かろうと思われる。ある街の、数世代にわたる長い歴史を、主に二つの家族の物語に象徴させる手法は、演劇においてはワイルダーが最も鋭角的な構成で表現していた。それをケラ氏はそっくり踏襲している。
     「街」を象徴するものはいろいろある。城下町ならそれは城であるし、学校だったり教会だったり鐘楼だったり塔だったり灯台だったり。「木」もまたその一つであるが、前者との決定的な違いは、「木」が「自然物」であり、人間の埒外にある存在である点だ。ケラ氏が、人の営みと歴史を描きつつも、そこにこのような「天」の視点を織り込んできたことには、物語を「人間だけのものにしてはならない」と判断した強い意志があるように思われる。
     それはやはりあの震災を経て、ケラ氏が「人の力ではどうにもできない自然の力」を痛感したせいなのだろうか。

     あの「楡の木」が無かったなら、ティルダ(犬山イヌコ)とコナ(峯村リエ)の二人の少女は、カレル(萩原聖人)の手紙をその根元に隠そうとは思わなかっただろう。木がなくても何らかの形で秘匿しただろうという解釈は、その可能性はあっても、この戯曲の訴える「真実」とは無関係である。
     これは一種のプロファイリングであり、我々が何らかの行動を起こすのには、自分の意志のみならず、その行動を誘導する環境条件が揃っている時にのみ起きるという「真実」を示唆した物語なのである。
     そこに「木」があったから、悲劇は起きた。人が「神」を創造したから、その神によって「人」は作られた。人の思いなど、運命という大木の前では木の葉のように吹き飛ばされていく。それでも我々は、「木」から、「神」から逃れることは出来ない。なぜならもうそこに「木」はそんざいしてしまったから。
     この舞台はそういう物語なのだ。

     運命は絡み合うと言うが、この物語の登場人物たちは、それぞれに数奇な運命を辿りながらも、何かの偶然が更なる偶然を呼んで、突拍子もない結末を迎えるというような展開にはならない。
     全ての結末への予兆は、二人の少女が手紙を隠した瞬間から始められ、予め貼られた伏線は一切の破綻を起こさないままきちんと回収されて物語は収束される。物語を支配するのは「必然」以外にはないと主張しているかのように。
     カレルはアンナ先生への恋に破れ、彼女によく似た面差しのコナと結婚する。もちろんアンナ先生への思いか消えたわげはないから、「悲劇の種」は温存されたままである。
     ティルダもまた隣人の弁護士ブラックウッド(山西惇)と結婚し、二人の親友はそれぞれ別の道を歩いていくことになる。しかし、ブラックウッドがコナと“過ち”を起こしたことから、二人の人生は次第に狂いを生じさせていく。
     「必然」とは即ち、全ての「秘密」はいつか白日の下に晒されるという「悲劇」のことなのだ。
     ティルダの息子フリッツ(近藤フク)とコナの娘のポニー(田島ゆみか)は恋仲になる。もちろん、二人が兄妹である可能性を捨てきれないブラックウッドは、二人の結婚に強硬に反対する。その不自然な態度が、ティルダたちに疑念を抱かせないはずはない。コナから真実を打ち明けられたティルダは、絶望のあまり失踪する。

     カレルと、彼と再会したアンナ先生は、少女時代のコナとティルダの裏切りを知り、アンナ先生とともに心中(事故死?)する。
     ティルダの兄のエース(大倉孝二)は、バスケット選手としての将来を嘱望されていたが、父・ウィリアム(廣川三憲)が、母・パオラ(松永玲子)を裏切って不倫していることを知ってから次第に荒んでいき、傷害事件を起こし獄中死する。
     この兄のエピソードは、「家族の悲劇」を描くために必要だとしても、ややとってつけた印象があって巧くないが、全体的に伏線として張られた「悲劇の種」は、全て好転することなく、お決まりの結末をもたらすのである。さながら「運命の糸」からは逃れられないと我々に向かって主張するように。

     彼らを見つめる「木」の影は、場面が転換するごとに舞台に広がり、闇となり、地獄へ誘うかのように人々を飲み込んでいく(この映像処理は、ケラ氏の『わが闇』でも見られたが、あの作品もまたワイルダー『わが町』にインスパイアされた「家族の物語」であった)。
     運命は変えられない。ある原因は、それに相当する結末を必然的に用意する。木の陰はその「逃れられない運命」としての象徴だ。
     そこで思い至るのは、ケラ氏がこの戯曲の時間軸を錯綜させた理由はなんだったのかということだ。物語のラストは、少女二人が、木の下にカレルの手紙を埋める瞬間で締められる。彼女たちはそれが悲劇の始まりになるとは夢にも思っていない。むしろ、アンナ先生に騙されたカレルを救った気になっている。ティルダは言う。「カレルにかけられた催眠術を解いてあげなくちゃ」と。夢を見ているのは、彼女たちの方なのに。

     「真実」を知る「神」である私たち観客は、そこに胸を締め付けられるほどの切なさを覚える。彼女たちは何も知らない。何も知らないから夢を見ていられる。彼女たちは愚かで哀れだが、同時にこうも感じられる。夢を見ていられた12歳のあの頃が、彼女たちが人生で一番美しく輝いていられた、「幸せの瞬間」であり、「黄金の時間」であったのだと。
     これは、通常の時系列に沿った物語展開では、あまりにも「悲惨」を強調することにしかならないと判断したケラ氏が、観客に与えてくれた、これも一つのハッピーエンドなのではないだろうか。生から死へと向かう儚い人間の物語の中で、そしてどんな悲劇的な人生であったとしても、人にはほんの少しくらいは、「幸せな時」があったのだ。それがたとえ少女時代の一瞬であろうとも、微笑みに満ちた瞬間というのは確実にあったのだ。それ故に人は生きられるのだと、ケラ氏はそう謂わんとしているのではないだろうか。
     「始まりの時」が結末になる物語は、たとえば夢野久作『瓶詰の地獄』があり、桜庭一樹『私の男』がある。そのラストシーンは、実はファーストシーンであり、いずれも「幸せ」に包まれているのである。

     キャスティングは、犬山、峯村の両女優が、12歳から78歳まで、さらにはひ孫まで演じて、その実力のほどを見せつけてくれる。その分、他のキャストが「弱く」見えてしまうのが難ではあるが、最近、旧作の仕立て直し公演などでお茶を濁していた感のあったナイロン100℃の舞台の中では、人間の「業」を冷徹に描いて、久方ぶりに見応えのある舞台となった。
  • 満足度★★★★

    二人の女性の友情を彼女たちと家族の半生を通して描く。
    犬山さんと峯村さんが演じる二人の女性の『友情』、二人だけの秘密。
    時代を行き来して描かれる二人の半生。
    エピソードは時間順ではなく、
    観客に「見せる順番」「知る順番」を考えて、時にさかのぼったりする。
    そして、予期せぬ結末。

    ネタバレBOX

    最近は感動的なエンディングも多かったケラさんですが、本作では…。
    一気にダークな展開をみせるのも面白い。
  • 満足度★★★★

    いつもながら映像は素晴らしい。
    前回の作品があまりにもガッカリだったが、今回は良かった。
    特に映像が今回良かった。
    長いスパンで時代を行き来するのも見ごたえがあった。

  • 満足度★★★

    前半は良かった。
    「わが闇」を彷彿とさせるかのような前半でした。

    が後半は尻すぼみ・・・
    期待しすぎだった?

  • 満足度★★★

    大きな楡の木の下で
    ナイロン流の文芸作品を見てるみたいだった。
    生きている上で生き方の釦の掛け違えなんて、その時は気づかないけどある程度の体験を経た年代にとっては身につまされる箇所が往々にしてあるのでは。3時間近く年代を行ったり来たりし、話は全体的に暗い。
    自分のこれからの老年期を示唆するような物語でした。
    ナイロン女優陣が良かった。
    新人さん達の役柄が何となく統一した役柄設定に感じてきたのは、ケラさんの作品に嵌って見ているせいかな?

  • 満足度★★★

    ストレートでした
    奇を衒うこともなく、芯のある芝居でした。3時間の及ぶ大作で、説明にあるとおり、観るほうも真剣さを要求されたような気がした。
    後半少し集中力が切れてしまった。

  • 満足度★★★

    丁寧なシーンが
    時間を前後して映し出され、複数の人間に波及していうような秘密が解かれていく。役者さんの演技もよかったのですが、物語としては平板に感じてしまいました。人間の心情が木を悪魔にもしてしまう、でも映像まで凝って作るまではしなくてもいい気がします。

  • 満足度★★

    ケラ式「わが街」、はたまたチェーホフ劇
    って感じのお芝居でした。

    確かに、ケラさんの作劇は上手いと思います。

    3時間半、長いけど、カットすべき箇所は思い当たりません。

    あれだけの、登場人物、一人二役、三役もあったりして、その上、時間が過去や未来に行ったり来たり。それなのに、全くこんがらがらないのは凄い。

    でも、この作品、所詮、作り話の域を出る芝居ではなく、よって、登場人物誰一人として、感情移入できるような存在もみつけられないまま、ずっと、客席から、傍観してしまいました。

    何役も演じたり、同一人物でも、若い時や老齢まで演じ、役者サイドのテキストとして見たら、秀作脚本かもしれませんが、一般観客である自分には、今回の作品は、凡作に思えました。

    実力ある俳優陣が勢揃いしている劇団だから、途中で帰りたい気持ちにもならず、観られるのですが、これをもし、素人紛いの劇団が上演したら、たぶん、途中で、帰りたくなるかもしれません。

    萩原聖人さんと、ベイカー家の女中、メアリー役の長田さんがとにかく秀逸な演技と存在感でした。

    100年の歴史を現す、映像の使い方、見せ方の巧みさにも、感嘆しました。

    ただ、室内と庭の境がないので、舞台の中盤まで、登場人物がどこにいるのか不明な箇所が多く、そういう余計な神経を使わされて、やや疲れました。

    せっかく、台本構成は巧みに書かれているのに、セット面で、難解にしてしまったようで、残念でした。

    ネタバレBOX

    ケラさん流の「我が街」か、「桜の園」、「三人姉妹」、「かもめ」などのチェーホフ劇かというような、壮大な趣の、ある家族と、その周囲の人々の100年に及ぶ歴史物語で、本当に、芸達者な皆さんの、何役もの演技や、幼児から、晩年までのおちゃのこさいさいの演じ分けは、観ていて、楽しいものがありました。

    行きつ戻りつのお話で、一体どこでラストシーンになるのかと思っていたら、小学生のティルダとコナが、年長のカレルが思慕するアンナ先生に宛てた恋文を木の下に隠す相談をするところで終わり、これはちょっと意外でした。
    正確な台詞は忘れましたが、二人が、「アンナ先生に洗脳されてるかも」というような会話をするのは、先日の中島さんの騒動などを想起してしまい、この芝居のエンディングには相応しくないような気がしました。

    むしろ、本当は、兄弟かもしれない、元恋人同士の、老年のポニーとフリッツが、二人手を取り、寄り添って退場するところで、終幕としてほしかったなと、個人的好みでは、そう思いました。
  • 満足度

    素うどん食べたい
    ナイロンはずっと好きで見続けているが

    ネタバレBOX

    オープニングの映像からして、もはや見慣れすぎて
    「またこの感じね、はいはい」と思ってしまい、
    木を中心に物語を据えている設定に見る気を失くし
    大量に人が出てきた時点で大半寝た。

    映像はもはや懲りすぎて脂っこくてもどしそう。
    もっと「素うどん」みたいなツルッといける感じの映像がいい。
    コテコテの背脂らーめんみたいな映像、何杯も食えない。

    あと出てくる人が多すぎるのと名前覚えられなかった。
    山西惇さんの役が期待していたのとまったく違って超残念。
    (→これは個人的にも勝手な期待しすぎですが)

    とりあえず、最後までまったくよくわからなかったが
    長田さんが良かったかなという印象だけ残った。

    やっぱ消失の感じがいいなぁ。
    あと、男スポは最高傑作と思う。

    ナイロン大好きなんでまた次見ようっと。
  • 満足度

    良いところよりも悪いところの方が多い
    脚本が悪いと思った。演技の質が高いのに勿体無い。

    とにかく長い。その長い舞台で何が示されたのか。主要な登場人物がそれぞれ幾ばくかの秘密を抱え、それぞれと絡み合いながら死んでいく。しかし、そのどの場面も淡白で、観終わった後の徒労感はかなりのものだった。色々な話が出てくるが、とっ散らかっていてどれもよくわからない。

    “百年”という時間の無機質感が強調されていて、誰がどうであろうと無関係に時は過ぎゆくという寂寥感でも提示したかったのか。それが全体の印象。登場人物たちも、基本線が暗いというか悲しい話が多い。悲しい状況にあって悲しい人たちばかりで、観ていて鬱鬱としてくる。

    秘密も凡庸で、秘密よりも年を重ねることによる苦痛の方が大きそうな話ばかり。人は、誰しも少しずつ錆ついていく。そんな話、魅力的ですか?

  • 201204251400
    201204251400@本多劇場

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