月の剥がれる 公演情報 月の剥がれる」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-12件 / 12件中
  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2016/09/25 (日)

    人々が命がけで生き抜いた激動の「過去」【散華パート】と、「怒り」という観念を放棄し、緊迫感皆無な、のどかな時代【授業パート】のシーンを行き来しながら、学校・家庭・戦争・平和・宗教・憲法などの社会的な主題を等身大の人々の、ささやかな暮らしから描き出す一大絵巻(2幕・2時間40分)。

    なお、本作品は、政治的色彩を感じさせるメッセージが内在していますが、プロパガンダな演劇では決してありません。ですんで、ワタシ個人の政治的意見の開陳などという野暮もやりません。純粋に観劇レビューとして、以下、続けていきますね。

    作品上の「現在」である【授業パート】と、その授業で「過去の出来事」として語られる【散華パート】、二つの世界を行き来する白い衣の女性(演・田中美甫さん)…平和の象徴・ハトをイメージしているのかなぁ?

    【授業パート】に出て来る、何処か人物設定が曖昧な転校生(毛利悟巳さん)に、独りだけチマチョゴリ?巫女装束?を身にまとったクラス委員長(池田優香さん)

    その時代を生きている、というリアル感を帯びた【散華パート】の登場人物たち

    過去の歴史を遠目から眺めている、ゴルフ場のギャラリーのような【授業パート】の生徒たちと教師

    (決して堅苦しくはなく、むしろ笑いも交えてですけど)虚実錯綜する人物たちの群像劇を通して、「命」とか「生きていることの意義」に関して、観客は自然と考えさせられていきます。
    そして、私たちが「平和」というコトバから連想する最もポピュラーな文章、日本国憲法第9条第一項を模した「怒りの放棄」を【授業パート】の教師に語らせることで、作者のメッセージが明確に提示されます(とワタシは感じたんですがぁ…)。

    ラストは、舞台上に伏していた演者たちが一人・また一人と起き上がって、『ボレロ』の各演奏楽器のごとく加わっていく群舞の波・波・波。その観客に訴えかけてくる迫力というかカタルシス! …ココロ震えました。

    「平和がどうした・こうした」に、特段、関心のない方でも、胸に迫る思いを体感できる作品だと思います。

  • 満足度★★★★

    内容は深いですが、見た目はとても美しい作品でした。
    その対比がまたいろんな感情を生んで複雑な観劇後の気持ちでした。

  • 満足度★★★★★

    圧倒的なエネルギーとメッセージ性で観客をぶちなぐってくるような作品でした。とにかくエネルギーが凄い。いやー良かった。

  • 満足度★★★★★

    華と散るな、月よ剥がれるな
    凄まじい作品だった。


    命が失われることに涙を流す私たちは、一方で決死に美しさを感じ続けている。
    尊い犠牲を誰も無下にはできず、ミシマの自決にさえ浪漫をみる。
    命の華が花火のように散るその様を忘れられない。
    その音に意味があるなら、意志があるなら、それをどうか掴みたい。
    そう思わずにはいられないのだろうか?

    ネタバレBOX

    華と、月に表象された「命」とはなんなのか。
    
華、命の華。美しく散った後にだけ、それを華と呼びたがる。
    
月、剥がれなければ命。卵が流れていくときの血液を私たちは、月経(月の経る)といったり生理(生のことわり)だなんて意味深に呼ぶ。

    願い事ひとつ叶えられるなら、「昼間の月も黄色くして。」白いのは納得いかない。
    と「転校生」の美耶(みや)がいう。
    「黄」体ホルモンがなければ子宮(子の「みや」)に卵は着床しない。流れ行く卵は命にならない。
    クラスメイトのソラは、象徴的なフレーズを繰り返す。「おはようって言葉がkill youって意味に変わったらどうする?」
    子宮という「まっくら」な場所から光あふれる朝をみて、「おはよう」の言葉をきいたときには、流れた卵は命(の可能性)を剥奪されている。
    美耶は、報復の正当性を疑わない。カラスにつつかれたら、石を投げかえす。カラスに目をつつかれた見知らぬおばあさんの分まで石をなげつける。
    やられたらやりかえす、では憎しみの連鎖が増すばかり、と信じている私たちの前で、生まれる前に命を剥ぎ取られた者は、別の誰かの命を剥ぎ取ることはできない。報復の正当性を無邪気に話す彼女は、誰にも報復できない者の化身として立ち現れ、そして夢のようにいなくなってしまう。トイレにいきたいといってお腹をおさえる美耶、保健室につき添おうとする恋人の南部を、「男子がいってどうする」と制止して、付き添うソラ。観客が既視感をもつだろう生理痛の暗示のシーンのあと、もう美耶のことを覚えているものはソラ以外にいない。寝起きのソラが「美耶はどこ?」と問うと、南部は「美耶?夢の中の友達か?」と答える。
    劇は、もう、美耶の生まれなかった世界にスライドしている。


    美耶という不可思議な存在を含みながら行われる学校授業で「ミシマ先生」から語られるのは、「散華(サンゲ)」の歴史だ。
    人は人を殺してはいけない、戦争はいけない、70年間、平和に祈りをただ捧げてきた私たちは、戦争がなくならない世界の中に浮かぶ平和の国に生きている。どうやったら戦争がなくなるのか。赤羽という青年の思いつきは、羽田の寂しさと目蓮の金と太地の純朴さとを糧として、世界的な影響を与える平和運動へと発展する。

    「人が人を殺したら、私も私を殺す」という脅迫。
    母国が他国の者を殺したら、私は私を殺す。
    母国よ私を生かしたいのであれば、誰も殺すな。

    赤羽は妹と愛しあっている。その設定は、散華の思想に、繁殖の発想が欠如していることを教えている。

    太地という兄を、散華で失い、
    太地の意志を無碍にはできないもう一人の兄とは決裂し、
    そして夫までもが散華に与しようとする、という運命のただなかで「朝桐」菜津は、
    美耶を生まないことという決断をもって、
    散華に抗議する。

    ここにある小さな幸せを守ることをしないで、
    美しく命を散らして平和を問うなんて、間違っている。

    サンゲが終焉を迎えた「大抗議」という歴史的大事件は、
    私たちに怒りの感情を放棄することを選択させる契機となった。
    怒りを放棄した私たちは、報復をおこさない。
    月の剥がれるまえに、散った命よ、どうか還ってきてくれないか。

    『月の剥がれる』というひとつの舞台作品が、
    生者である私たちに、命を懸けることを問うている。
  • 満足度★★★★★

    命の存在感。
    2回、観劇しました。
    2時間半、物語の持つ緊張感、役者さんたちの緊張感、そして、それを受け止める客席の緊張感で、ずっと張り詰めていた気がしました。
    でも、それはとてもいい緊張感でした。
    無機質な舞台で、生々しいまでの命の存在感が圧倒的でした。
    小角まやさんの演じた女性が、印象に残ります。

  • 満足度★★★

    月の剥がれる
    殺人(主に戦争らしい)に抗議の意を表明するために自殺する。命を賭けた抗議と言えば聞こえはいいが、自殺した本人はその死が果たして意義があったものかどうか確かめようがないのである。そればかりかその思想を持つ平和団体さえも、偉い人たちは会員を増やして自分は死ななくてすむように画策しているだけで、自分たちの行為の確証さえないように見える。そんな団体でもまっとうなものとして受け入れられてしまう流れが恐ろしい。
    散華のメンバーだった元フリーターの男が「アルバイトで生計立てて、それでもなんとかやっていけて、たまには焼き肉とかも食べられて特別何もなくて生きているのはいけないんですか?」と言うセリフが胸に刺さる。特別なことなど何もなく生きているから。とても考えさせられる舞台でしたが、登場人物にどういう人なのかわからない人がいたり、ダンスの意味・意義がわかりませんでした。終演後主宰さんを捕まえてお聞きしたところ「言葉のさらに先にあるものを表現したい」とのことでしたが、私から見たらあんなに長くはいらないんじゃないかと。上演時間だって短くできるのではないかと思ってしまいました。

  • 満足度★★★★

    重層世界への広がりと視点の転換にアマヤドリの良さを見た
    なぜだか初演を観ていない。
    なので、初『月の剥がれる』。

    一見とてもストレートなテーマなのだが、答えがそこにあるのではなくきちんと考えさせるところがアマヤドリだ。
    19時30分からスタートで上演時間2時間30分のアナウンスには、エエッとなったが、最後の最後まで目を惹き付けた。

    また長文になってしまった。
    以下ネタバレボックスヘ。

    ネタバレBOX

    フライヤーの出演者を数えたら27人もの登場人物がいるわけで、その人数を登場させ1つの方向へ演出する力は並大抵のものではないと感じた。

    ただ、どうもキレがあまり感じられない。いつもはビシビシと決まっていたのに。
    きちんと描きたいという想いからつい盛り込みすぎたのではないか。伝えたいことに対しては言葉を尽くして、役者を観客に向き合わせてじっくりと見せたかったのではないか。
    その気持ちはわからないでもないが、逆に疎かになってしまったところはないだろうか。

    演劇は、小説ではなく、戯曲を読むことともイコールではない。
    当然のことだが、生身の人が演じることで文字だった台詞に「意味」をもたらす。
    極端なことを言えば演出によって台詞の「意味」だって変わってしまう。
    「文字の固まり」の戯曲では語ることができないものを舞台の上ならば語らせることができるのが演劇だ。

    しかも「言葉で語ることができない何か」「戯曲作者もそれがなんだかわからないモヤモヤのようなもの」をそこに込めることができる。
    そして、その送り出された「モヤモヤ」と観客が受け取る「モヤモヤ」には差が出来てしまう(これは演劇に限ることではないかもしれないのだが)。さらに演出家(戯曲作者)と役者との「モヤモヤ度」や解釈の違い、齟齬も生まれるだろう。しかもそれらが「生」で訪れるのが演劇だ。
    その「生で訪れる」「差」や「齟齬」も含めて演劇であり、そこが演劇の面白さでもある。

    アマヤドリ(ひょっとこ乱舞)の舞台にはそんな面白さがある。
    つまり、観客には「劇団」(演出家・戯曲作家・役者)からの「モヤモヤ」まで繋がっている糸を探すために、舞台の上で行われていることを解きほぐしていく楽しみが常にあるのがアマヤドリの作品ではないか、と思う。

    非常にまどろっこしく書いたが簡単に言えば、「舞台を見終わってから、あれってこうだったのかな、と考えながら帰るという楽しみを与えてくれる」ということとも言える。見終わって「ああ、面白かった」だけで終わらない楽しみがそこには広がっている。

    こういう見方は私個人の見方なのかもしれないが。

    さて、この作品についてそれはどうだったのだろうか。
    「もやっとした部分」を整理するために、いったん引いた世界、つまり学校のある世界を設定したのではないかと思った。
    なぞの転校生との関係が散華の結末(物語の結末)を表している。そんな関係だ。

    「命」を巡るストーリーであり、散華のエピソードは「命」を「数」や「道具」としてしか見ていない。そこに散華という団体の問題点や限界がある。
    「死ぬ人、1名」とカウントしているからこその樹海でのスカウトだ。

    しかし、ラストに至り「命」は「生命」であり、連綿と現在まで続いていているもので、さらにさらに続いていくものだという展開が見えてくる。
    その価値観の転換の上手さに「あっ」と思った。そして少し恐くなった。

    そして、散華のリーダーだった男の妹がどうしたのかが見えてくる。
    つまり、「いたはずの転校生」がラストでは「いなくなってしまう」、つまり妹は自己矛盾をしながらも散華に対して自らの命を引き替えに止めようとしたのではないか、ということだ。だから「生命」の連続が断ち切られてしまったのではないか。

    朝起きると世界が変わっていると言う女子学生の台詞とも繋がっていく。
    「自分がいなくなる」ということではなく、過去との繋がりの中で「世界が変わっていく」ことの恐怖。価値観の変化は実は恐ろしい。世界を破滅に導いていたのが
    戦争だけではなかったという恐怖も冒頭とラストからうかがえる。

    彼女の台詞が2度あることで「繋がり」を意識させられる。

    過去と現在というリンクの中で、「現在はどうなっているのか」が見えない。「怒りを放棄した世界はどうなっているのか」がわかるとさらに世界が広がったのではないか。

    自殺をしようとしている女性の位置づけも上手い。これで散華の正体が少し見え、それだけでなく彼女のその後の台詞により、もうひとつ散華の世界の外側と内側(内面)を描いたのではないか。

    散華という団体の行動だけでなく、さらにその世界から視点を引いていくことで、さらなる世界を見せ、「命を引き替えに戦争(人を殺すこと)を止めさせる」ということだけでないテーマへも、深さを増して見せてくれたのではないかと思うのだ。

    このあたりのダイナミックさと視点の移動がアマヤドリならではであり、見応えがある。

    ただし、先に書いたように疎かになってしまったところがあると感じた。
    1つは散華の実質的なリーダー・羽田。彼はもと証券マンだったらしい。それもたぶんやり手だったのだろう。彼が本音では何を目指してるのかが、どうもつかめない。ネットで散華のアイデアを知り、彼の豪腕で団体を立ち上げ大きくしていった。そして内部からそれを破壊しようとする。カネが動いてそこが彼の目的かと思えばそんなところは出てこない。彼に賛同しているクラッチバッグを手にしているスーツの男は十分に怪しいのに。そこが見えて来ないので、散華自体の意味合いがきちっと頭の中にはまってこない。

    さらに、下手にときどき座っている袴姿の女性がよくわからない。彼女は過去の人らしいのだが、明治〜大正時代っぽい。当日パンフ的な相関図を見ると名字が同じで繋がりがわかるのだが、いまひとつ判然としない。教室での議長的発言があることや、九条に重ねた「怒りの放棄」で過去と現在(教室のこと)との関係はわかるのだが、どうもそのあたりがすっきりとしない。テンとソラといういい名前があるのに、それが人物相関図の中だけなのがもったいない。というか何故そこの中だけなのか。
    時間をかけて広がる世界を描いているのだが、この2点はストーリーの土台に位置すると思うだけに、つかみ切れなかったのは残念だ。

    あと、ジャーナリストの設定はなくてもよかったような気がする。取材により語る姿などは演劇なのだから「自分語り」がいきなり出てきても違和感は感じなかっただろう。

    オープニングとラストの飛行機のシークエンスは9.11を思い起こさせる。炎に包まれるビルと焼身自殺を遂げる散華のメンバーの姿が重なる。
    そして、子どもたちも死ぬ。
    「戦争」ではなく「テロ」によって奪われる多くの命があり、これからはそれと見合うだけの散華に属する人の命を差し出さなければならないということなのだ。

    大きな戦争でなくても、世界中で起こっているテロで多くの人が亡くなっているということも、ここのテーマに含まれているのだろう。
    散華の命がいくつあっても足りない世界に我々は生きているということなのだ。

    広田さんからの挨拶文によるとこの作品は、チベット僧の抗議が発端だと言う。私は見ていて、ベトナム戦争時に僧侶がアメリカ大使館前で焼身の抗議を行った写真を思い出した。「自分の命と引き替えに」という行動は気高くあるが、そこにある「死」すなわち「生」は、正しいのだろうかというモヤモヤも同時にわいてくる。それには答えはなく、そのモヤモヤが作品化されたのだと思う。
    「死をもって…」ではなく「命を捧げて…」という「死」と「生」の発想の逆転があるのではないか。

    散華という団体の行動は先に書いたとおりに問題点がある。「死」を「道具化」してしまったことだ。
    僧侶たちの抗議の焼身はどうなのか、という重い問いかけがそこにはあるのではないか。
    散華のメンバーたちがカウントしているような「他人の死」としてではなく「自分が死ぬこと」として考えることで、何かが感じることもあるのかもしれない。

    アマヤドリという劇団は、役者の見せ場をストーリーの1つの山にしているようにいつも感じる。
    そうした「山」は役者の姿と「台詞」によって形作っている。
    ついも「ここぞ」というシーンでは役者の力を見せつけられ、惹き付けられる。

    今回のこの作品で言えば、「そうしたシーンは、たぶんここではないか」と思われる個所がいくつかあったのだが、不発に終わってしまった感じがある。
    シーンがぐっと立ち上がってこないのだ。
    散華の実質的リーダーである羽田や散華の発案者である赤羽あたりには情念のような自分の想いを吐露するような台詞があっても良かったのではないか(台詞が立ち上がってくるようなシーンが)。それらが「山」となっていないと感じた。

    そんな中で、唯一立ち上がってきたシーンがある。
    兄と夫が散華に入ってしまった女性・朝桐が夫を止めようとするシーンである。
    彼女がすべての登場人物の中で観客に近いところにいる。真っ当でそれが変な方向を向いてしまっている兄や夫に伝わらないもどかしさと哀しさが観客には理解しやすいということもあるのだが、舞台の上に彼女が1人立っているように思えるほど、役者と台詞がやってきた。

    そうした「立ち上がる台詞(シーン、役者)」の少なさが、先に書いた「キレのなさ」に関係しているのかもしれない。
    もちろん、そんなシーンばかり続いてもメリハリに欠けてしまうのだが。
    そういう意味において、アマヤドリをよくわかっている笠井さんや渡邊さんの使い方は少々もったいないように思えた。

    役者は前に書いたように朝桐を演じた小角まやさんがいい。いつも普通の真っ当な人がそこにいる。切実さが伝わる。
    ザンヨウコさんの佇まいもいい。この味はほかの人では出なかったのではないか。

    ダンスで舞台の上のリズムを生み出そうとしているようだったが、一部、せっかくの会話のやり取りをしているときに、ダンサーが前に出て台詞のやり取りから気が削がれてしまうところがあったと感じた。動いているから視線がそちらに奪われていまうのだ。視線が奪われればせっかく積み重ねていた台詞が脇に行ってしまうのではないか。

    それと今回はユーモア(笑い)のパンチが弱かった。先生のところでそれが垣間見えたのだが、弱い。

    アマヤドリ(旧ひょっとこ)フォーメーションと勝手に私が名づけた群舞は迫力がある。汗だくの真剣さが伝わってくる。蠢き混ざり合い、混沌と秩序を生み出していく「生命」を感じるフォーメーションだ。
  • 心に落ちて来た・・。
    アマヤドリ「月の剥がれる」@吉祥寺シアター9/29マチネ観劇(10分休憩有)
    観終って、一度止めた涙がまた、零れ落ちてしまった。

    何故だろう、初演の時に「?」が多く残ってしまった自分の3年前を取り払うような、語弊があるかもしれないが感情が物凄くシンプルに、舞台から解き放たれた時間。
    大きく変わったと感じたのは、テンポの変化。

    観客の視線を置くところが見易くなった気がした。

    学校のシーン、散華のシーン、より、「個」の成り立ちが明確。

    更に、初演からの進化。

    まっさらな心に落ちて来た。

    色んな場面が流れるように、緩やかに交わる。

    ふと、思う。

    夜間飛行している彼らがみたのは燃える過去のヒトだったのか?

    未来が過去を俯瞰しているのか?

    命はだれのものなのか?

    自分が傍観者でいることは悪なのか?

    再演であって、再演ではなく、新たな「祈り」を見届けた時、涙が止まらなかった。

    上演時間は数字にすると、長いと思われるが、実際今日観劇してそんな事は無かった。

    ああ、とても愛おしい時間となった。

    宮崎雄真さんの今作、いつものイメージだととても、温厚なお父さんといったものを個人的に持っていたが、愛らしくも有り、誠実でもあり、引き込まれる。

    ザンヨウコさんの語り部的な役は、反則的に素敵だ・・・。

    本当にあの方は不思議な俳優さんだと思う。でも、先生はきっとザンさんが演じるのだろうと思っていたので、嬉しかった。

    石本政晶さんの今作の役は

    初演よりなんていうんだろうか、セクシー度数が高まったような気がした。

    初演は、「純愛」なイメージだったのだが・・。

    彼の発案も、本当は、最初は些細な事だったのだろう。

    そこから「散華」の膨れ上がるスピードが

    現実の世界と気持ち悪いほどリンクする。

    小角まやさんの言葉に共感する人が一番多いと感じる。

    「私ならそう思う」といったある意味観る側の一番置きどころが近い役であるゆえに、台詞が刺さる。

    同性である事もそうだが、彼女の「正論」が届かない悲しさ、怖さ、切なかった。

    長男が死、その後に次男もまさかの同じ流れに身を投じていく様をみて、別れ際に

    「またね」と言って走り去る場面。

    縁を切ってもいいくらいの常識的には考えにくい行動をする兄に対して

    それでも、「さようなら」と言わず「またね」という所が個人的にナツの優しい心根を観た気がする。

    西川康太郎さんの役は、「自分」を持ちながら、一番翻弄されてしまった役なのかなとも感じた。知らない間に、抗う事をしないで、あの場に、自分を置きにいってしまった。

    きっと、考えて、考えて、でも、あえて、あの流れに。

    優しい人なのだな、と。

    倉田大輔さんの役は、この役のイメージが、とても、飄々というかぬらりくらりとすり抜けていく。「散華」というマリオネットを操っていたが、何処かでその糸を切りたがっていた気がする。

    「散華」の最期。

    人々は死に、それは、新たな再生にむかう・・。

    いや、「死」はあくまでも、「死」。

    天寿を全うしない「死」はただの「死」。

    生き残った者・・。

    笠井里美さんの最後の場面。「きいてるよ」と心の中で呟く。

    ファインダー越しに、彼女の涙が見えたような気がした。

    渡邊圭介さんと、石井葉月さんの最後に死を止める言葉について話してる場面が好き。

    震える様な細い繋がりを手繰り寄せる様な会話が切なかった。

    そして、劇中、常に皆を見守り続ける

    田中美甫さんの役。

    天使のような、影のような、もう一人の「あなた」。

    テンも、ソラも、

    大きく、広く、隔たりの無い、何処までも、何処の場所にもつながっているモノ。

    神様が、垣間見た人間たちのほんのちょっとの時間だったのかもしれない。

    神様からみたら、人間の一生って、瞬きした位の感覚なのかもしれない。

    でも、

    親は子を産み、育て、やがて、また、その子が親となり、子を産む。

    一個の命は、大きな木の様に過去から繋がって繋がっている。

    とても、シンプルに考える。

    だからこそ、心音にも似たステップの音の群舞に心奪われる。

    善き時間を過ごせました。

    楽までお怪我無きよう・・。

  • 満足度★★★★

    騙されたくないなー
    一番興味深かったのは、誤った思想であっても、そのプロデュース力によって世間に通用させてしまうプロセスの描き方でした。 
    ドラマチックに印象付けられてしまうと「正義」と勘違いしてしまう怖さ。 
    そしてドラマチックとは程遠い、薄汚い内情。 
    今のマスコミはあっさり騙されてしまうほどバカじゃないと思うけど・・ちょっと心配。 
    今作を完成させるにあたり、どれだけ沢山のエネルギーが注がれているのかと思うと頭が下がります。 
    思ったより理解しやすいストーリーで良かったですが、この2時間30分の力作に対しては、こちらも相応な気合で挑まなければ負けてしまうのではないかと思いました。(観劇に勝ち負けとは何を言っているんだか)

  • 満足度★★★★

    再演
    吉祥寺シアターは天井が高いのでセットも綺麗 光も綺麗
    それを生かした動きも綺麗で力づよく感じました。

    天井が高いのですが声もしっかり通って聞き取りやすい

    私は、若い劇団員さんの中で存在感のある先生がとても印象深く、オモイテーマでもその部分でくすっと出来ました。前回はお母さん役で毎回楽しみです。

    内容はとても重いテーマですが、平和ってと考える機会を与えて頂け有難うございました。

  • 満足度★★★★

    重いテーマ
    初演も見てますが、本当に重いテーマです。
    「命の格差」見ていて、本当に色々と考えさせられます。
    色々な側の立場で考えてしまい、共感したり、共感出来なかったり。
    なかなかな舞台でした。

  • 満足度★★★

    難しい~
    オープニングがダンス公演なのかなと思うような始まりで意外でした。 殺人をしないための自殺行為というのは宗教的に見えました。集団自殺が抗議の意味をなすのか? そもそも自殺は自身を殺す行為ではないか。説得力がない。そして立ち上げた本人は生きている。 自殺をされた家族の気持ちの行き場はどうなる?そこに憎しみが生まれる。もしかしたら新たな殺人の切っ掛けになっていくのかも。そんなことを考えながら観た2時間半。見る側にとっても難しい題材でしたね。

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