月の剥がれる 公演情報 アマヤドリ「月の剥がれる」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    重層世界への広がりと視点の転換にアマヤドリの良さを見た
    なぜだか初演を観ていない。
    なので、初『月の剥がれる』。

    一見とてもストレートなテーマなのだが、答えがそこにあるのではなくきちんと考えさせるところがアマヤドリだ。
    19時30分からスタートで上演時間2時間30分のアナウンスには、エエッとなったが、最後の最後まで目を惹き付けた。

    また長文になってしまった。
    以下ネタバレボックスヘ。

    ネタバレBOX

    フライヤーの出演者を数えたら27人もの登場人物がいるわけで、その人数を登場させ1つの方向へ演出する力は並大抵のものではないと感じた。

    ただ、どうもキレがあまり感じられない。いつもはビシビシと決まっていたのに。
    きちんと描きたいという想いからつい盛り込みすぎたのではないか。伝えたいことに対しては言葉を尽くして、役者を観客に向き合わせてじっくりと見せたかったのではないか。
    その気持ちはわからないでもないが、逆に疎かになってしまったところはないだろうか。

    演劇は、小説ではなく、戯曲を読むことともイコールではない。
    当然のことだが、生身の人が演じることで文字だった台詞に「意味」をもたらす。
    極端なことを言えば演出によって台詞の「意味」だって変わってしまう。
    「文字の固まり」の戯曲では語ることができないものを舞台の上ならば語らせることができるのが演劇だ。

    しかも「言葉で語ることができない何か」「戯曲作者もそれがなんだかわからないモヤモヤのようなもの」をそこに込めることができる。
    そして、その送り出された「モヤモヤ」と観客が受け取る「モヤモヤ」には差が出来てしまう(これは演劇に限ることではないかもしれないのだが)。さらに演出家(戯曲作者)と役者との「モヤモヤ度」や解釈の違い、齟齬も生まれるだろう。しかもそれらが「生」で訪れるのが演劇だ。
    その「生で訪れる」「差」や「齟齬」も含めて演劇であり、そこが演劇の面白さでもある。

    アマヤドリ(ひょっとこ乱舞)の舞台にはそんな面白さがある。
    つまり、観客には「劇団」(演出家・戯曲作家・役者)からの「モヤモヤ」まで繋がっている糸を探すために、舞台の上で行われていることを解きほぐしていく楽しみが常にあるのがアマヤドリの作品ではないか、と思う。

    非常にまどろっこしく書いたが簡単に言えば、「舞台を見終わってから、あれってこうだったのかな、と考えながら帰るという楽しみを与えてくれる」ということとも言える。見終わって「ああ、面白かった」だけで終わらない楽しみがそこには広がっている。

    こういう見方は私個人の見方なのかもしれないが。

    さて、この作品についてそれはどうだったのだろうか。
    「もやっとした部分」を整理するために、いったん引いた世界、つまり学校のある世界を設定したのではないかと思った。
    なぞの転校生との関係が散華の結末(物語の結末)を表している。そんな関係だ。

    「命」を巡るストーリーであり、散華のエピソードは「命」を「数」や「道具」としてしか見ていない。そこに散華という団体の問題点や限界がある。
    「死ぬ人、1名」とカウントしているからこその樹海でのスカウトだ。

    しかし、ラストに至り「命」は「生命」であり、連綿と現在まで続いていているもので、さらにさらに続いていくものだという展開が見えてくる。
    その価値観の転換の上手さに「あっ」と思った。そして少し恐くなった。

    そして、散華のリーダーだった男の妹がどうしたのかが見えてくる。
    つまり、「いたはずの転校生」がラストでは「いなくなってしまう」、つまり妹は自己矛盾をしながらも散華に対して自らの命を引き替えに止めようとしたのではないか、ということだ。だから「生命」の連続が断ち切られてしまったのではないか。

    朝起きると世界が変わっていると言う女子学生の台詞とも繋がっていく。
    「自分がいなくなる」ということではなく、過去との繋がりの中で「世界が変わっていく」ことの恐怖。価値観の変化は実は恐ろしい。世界を破滅に導いていたのが
    戦争だけではなかったという恐怖も冒頭とラストからうかがえる。

    彼女の台詞が2度あることで「繋がり」を意識させられる。

    過去と現在というリンクの中で、「現在はどうなっているのか」が見えない。「怒りを放棄した世界はどうなっているのか」がわかるとさらに世界が広がったのではないか。

    自殺をしようとしている女性の位置づけも上手い。これで散華の正体が少し見え、それだけでなく彼女のその後の台詞により、もうひとつ散華の世界の外側と内側(内面)を描いたのではないか。

    散華という団体の行動だけでなく、さらにその世界から視点を引いていくことで、さらなる世界を見せ、「命を引き替えに戦争(人を殺すこと)を止めさせる」ということだけでないテーマへも、深さを増して見せてくれたのではないかと思うのだ。

    このあたりのダイナミックさと視点の移動がアマヤドリならではであり、見応えがある。

    ただし、先に書いたように疎かになってしまったところがあると感じた。
    1つは散華の実質的なリーダー・羽田。彼はもと証券マンだったらしい。それもたぶんやり手だったのだろう。彼が本音では何を目指してるのかが、どうもつかめない。ネットで散華のアイデアを知り、彼の豪腕で団体を立ち上げ大きくしていった。そして内部からそれを破壊しようとする。カネが動いてそこが彼の目的かと思えばそんなところは出てこない。彼に賛同しているクラッチバッグを手にしているスーツの男は十分に怪しいのに。そこが見えて来ないので、散華自体の意味合いがきちっと頭の中にはまってこない。

    さらに、下手にときどき座っている袴姿の女性がよくわからない。彼女は過去の人らしいのだが、明治〜大正時代っぽい。当日パンフ的な相関図を見ると名字が同じで繋がりがわかるのだが、いまひとつ判然としない。教室での議長的発言があることや、九条に重ねた「怒りの放棄」で過去と現在(教室のこと)との関係はわかるのだが、どうもそのあたりがすっきりとしない。テンとソラといういい名前があるのに、それが人物相関図の中だけなのがもったいない。というか何故そこの中だけなのか。
    時間をかけて広がる世界を描いているのだが、この2点はストーリーの土台に位置すると思うだけに、つかみ切れなかったのは残念だ。

    あと、ジャーナリストの設定はなくてもよかったような気がする。取材により語る姿などは演劇なのだから「自分語り」がいきなり出てきても違和感は感じなかっただろう。

    オープニングとラストの飛行機のシークエンスは9.11を思い起こさせる。炎に包まれるビルと焼身自殺を遂げる散華のメンバーの姿が重なる。
    そして、子どもたちも死ぬ。
    「戦争」ではなく「テロ」によって奪われる多くの命があり、これからはそれと見合うだけの散華に属する人の命を差し出さなければならないということなのだ。

    大きな戦争でなくても、世界中で起こっているテロで多くの人が亡くなっているということも、ここのテーマに含まれているのだろう。
    散華の命がいくつあっても足りない世界に我々は生きているということなのだ。

    広田さんからの挨拶文によるとこの作品は、チベット僧の抗議が発端だと言う。私は見ていて、ベトナム戦争時に僧侶がアメリカ大使館前で焼身の抗議を行った写真を思い出した。「自分の命と引き替えに」という行動は気高くあるが、そこにある「死」すなわち「生」は、正しいのだろうかというモヤモヤも同時にわいてくる。それには答えはなく、そのモヤモヤが作品化されたのだと思う。
    「死をもって…」ではなく「命を捧げて…」という「死」と「生」の発想の逆転があるのではないか。

    散華という団体の行動は先に書いたとおりに問題点がある。「死」を「道具化」してしまったことだ。
    僧侶たちの抗議の焼身はどうなのか、という重い問いかけがそこにはあるのではないか。
    散華のメンバーたちがカウントしているような「他人の死」としてではなく「自分が死ぬこと」として考えることで、何かが感じることもあるのかもしれない。

    アマヤドリという劇団は、役者の見せ場をストーリーの1つの山にしているようにいつも感じる。
    そうした「山」は役者の姿と「台詞」によって形作っている。
    ついも「ここぞ」というシーンでは役者の力を見せつけられ、惹き付けられる。

    今回のこの作品で言えば、「そうしたシーンは、たぶんここではないか」と思われる個所がいくつかあったのだが、不発に終わってしまった感じがある。
    シーンがぐっと立ち上がってこないのだ。
    散華の実質的リーダーである羽田や散華の発案者である赤羽あたりには情念のような自分の想いを吐露するような台詞があっても良かったのではないか(台詞が立ち上がってくるようなシーンが)。それらが「山」となっていないと感じた。

    そんな中で、唯一立ち上がってきたシーンがある。
    兄と夫が散華に入ってしまった女性・朝桐が夫を止めようとするシーンである。
    彼女がすべての登場人物の中で観客に近いところにいる。真っ当でそれが変な方向を向いてしまっている兄や夫に伝わらないもどかしさと哀しさが観客には理解しやすいということもあるのだが、舞台の上に彼女が1人立っているように思えるほど、役者と台詞がやってきた。

    そうした「立ち上がる台詞(シーン、役者)」の少なさが、先に書いた「キレのなさ」に関係しているのかもしれない。
    もちろん、そんなシーンばかり続いてもメリハリに欠けてしまうのだが。
    そういう意味において、アマヤドリをよくわかっている笠井さんや渡邊さんの使い方は少々もったいないように思えた。

    役者は前に書いたように朝桐を演じた小角まやさんがいい。いつも普通の真っ当な人がそこにいる。切実さが伝わる。
    ザンヨウコさんの佇まいもいい。この味はほかの人では出なかったのではないか。

    ダンスで舞台の上のリズムを生み出そうとしているようだったが、一部、せっかくの会話のやり取りをしているときに、ダンサーが前に出て台詞のやり取りから気が削がれてしまうところがあったと感じた。動いているから視線がそちらに奪われていまうのだ。視線が奪われればせっかく積み重ねていた台詞が脇に行ってしまうのではないか。

    それと今回はユーモア(笑い)のパンチが弱かった。先生のところでそれが垣間見えたのだが、弱い。

    アマヤドリ(旧ひょっとこ)フォーメーションと勝手に私が名づけた群舞は迫力がある。汗だくの真剣さが伝わってくる。蠢き混ざり合い、混沌と秩序を生み出していく「生命」を感じるフォーメーションだ。

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    2016/09/30 12:31

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