演劇 公演情報 演劇」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.4
1-20件 / 23件中
  • 満足度★★★★★

    演出家谷賢一さんの演劇愛が溢れる舞台。
    演劇と人生、俳優と観客、諸々の関係を考えながら観入っていた。
    語り継がれるべき、伝説的な舞台だったと思います!?
    王子小劇場で盆が自動で回って驚きました(笑)

  • 満足度★★★★★

    泣いた。うれし泣きだった。悔し泣きだった。演劇が好きで好きでたまらない、そんながむしゃらな私の初心を思い出させてくれた。素直でいようと思った。何があっても舞台が好きだと言い続けようと思った大切な時間だった。

  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2016/05/21 (土)

    本公演をもって最短でも2年の活動休止に入るダルカラの本当にダルカラらしい、谷賢一らしい作品。出演陣も化け物過ぎ。ラスト暗転してからジワジワくる。これは1回でも面白いし、何回観ても面白い。余韻が凄い。

    ネタバレBOX

    やっぱり谷賢一は、アーティストだなと。ラストやられた。あのセリフが今日一番キタ。ズルい。アレをやられたら絶対もう一回観たくなる。更に大量のオマージュが処理しきれないから確認したくなってしまうのもズルい。小劇場でしか出来ないことが詰まってる。
    千穐楽、ダブルコール受けてくれて嬉しかった。これぞ「演劇」。素晴らしい劇空間を共有出来た事に感謝。観れば観るほど味の出る作品だった。ラスト谷さんのセリフは、何度聞いても震えた。人生とは演劇なのだな。

    エリクシール、あそこまで突き詰めれば、何でも面白くなるものだな。永楠あゆ美の透明感ハンパない。百花亜希の弁当屋と堀奈津美の女王様は、細かいネタが詰まってて大爆笑した。無茶苦茶するぜ。流石ダルカラ
  • 満足度★★★

    「言語化を諦めるな!」と叱咤されそうですが、非常に感想が難しい作品でした。
    圧倒的に凄いもの観た感じ。
    消化するのに時間がかかりそう。

    『名作短編集』
    マチネとは違う意味ですごいもの観た感満載。突き抜けてるなぁ。
    一色くんの膝の流血は大丈夫でしょうか。

  • 満足度★★★

    鑑賞日2016/05/28 (土) 18:00

    【演劇】ストレートな題名、ゆめあを連想させる万能感のある少年と、車椅子の少女の出会い。そこはファンタジー要素があって、一方で別世界のような学校でのイジメを巡る卒業式に被害者が出席する、しない会議の攻防。谷さんの暑苦しい(笑)舞台が、休止前にも炸裂、結果はハッキリ見えないけど、夢と現実が繋がるような期待感で終わる所が良かった。でもモノなりない所でもありました。

    ネタバレBOX

    https://blogs.yahoo.co.jp/minamonitokeruhikari/64091935.html
  • 満足度★★★★

    鑑賞日2016/05/15 (日) 19:00

    【名作短編集観劇】速攻で完売していた短編集、追加席を予約して観賞。ゆめあは中村さんが出演出来なかったのが寂しいかったですが、川村さんが頑張ってました。そして、アノ名作の再演「エリクシールの味わい」小林タクシーさんのオヤジから、主演二人が本物になってて、飲尿ミュージカルが素敵なものになってました。設定も若干今風にアレンジされてて、ゆめあと同じくファンタジー世界が秀逸。これはそこか他でも上演して欲しい作品です。再会出来てよかった、ピット北区が懐かしい。

    ネタバレBOX

    https://blogs.yahoo.co.jp/minamonitokeruhikari/64091935.html
  • 満足度★★★★★

    観劇させていただきました
    随分と時間が空いてしまいましたが、忘れないために、書かせていただこうと思います。

    観劇できて、良かったです。結局、他にも1日、観劇させていただきました。

    この出会いをきっかけに、少しずつですが、観劇が私の日常に少しずつ溶け込んでいくようになり、視線を大きく広げてくれたように思います。

    細かい感想は上げたらキリがないので割愛しますが、「演劇」の中の人たちは、今尚、私の中で鮮烈で、ふとした時に顔を出し、気づきや勇気や笑いをもたらしくれます。

    迷ったり落ち込んだりした時に、思い出すと、「自分とは?」を考えさせて自分という存在の原点を思い出させてくれる、大切な宝物になりました。

    この場をお借りして、ありがとうございました!!

  • 満足度★★★★★

    観ました
    とにかく圧倒的。

    ネタバレBOX

    タイトルは「演劇」より「DULL-COLORED POP」の方がいいかもしれない、とも思う。
  • 満足度★★★★★

    考えさせられる幸せ
    観劇直後、頭のキャパオーバーで物語に気を取られてテーマの「演劇」に頭がまわらずアンケートも満足にかけずどう解釈していいのか悩みました。でも考えて考えて霧が晴れてきて自分なりの解釈が見えてきた時の快感・・・。観劇から10日経った今それを味わいつつあります。観て単純に面白かった!哀しかった!怖かった!などと思えるお芝居も素敵ですが、生活に浸食してくるほど考えさせられるダルカラの『演劇』に出会えたことを幸せに思います。

    ネタバレBOX

    たまたまかもしれませんが観客に関係者の親族がいらっしゃってさながら授業参観のような雰囲気を感じたり、パンフレットが卒業文集のようだったりで学校という舞台をとても感じやすかった。ぼくの成長した姿が松野だということだが、2人が対峙することによってぼくも松野ももう少し希望のある人生を送ってくれるんじゃないか、と願わずにはいられない(松野がんばれよ)
    そして役者さんがとにかく凄い。一人残らず凄かった。
  • 満足度★★★★★

    演劇だった
    圧倒的に凄かった。
    観られて良かった。

  • プレビュー初日
    観に円形劇場のような王子小劇場で、どこに座るか迷いましたが、とりあえず上手側の真ん中あたりで観てみました。

    ”演劇”って演劇ってなんだろう?と思いながら観ていて、作品の内容掴んだころには後半だったので、前半分はあまり咀嚼できなかった。

    東京楽日にまた観に行くので、プレビューとの違いを期待してます。

    個人的には、堀川炎さんが観たかったので、その点は満足でした。

  • 満足度★★★★★

    面白かったぜ!!
    「演劇」20日「短編集」22日観劇

    いや、面白かった!
    演劇のもたらせる面白さと痛さ
    ズッシンと突き刺さったぜ
    受け止めました。

    演劇って何だろうと…良きにせよ、悪しきにせよ、観る度に思っていました。
    計算されている演出、湧き出るエネルギー
    今年の収穫です!

  • 満足度★★★★★

    飛び道具的笑いは反則
    中盤まで、なんかよう分からんまま推移してきて、評価に困る作品だったけど、終わってみたらとても感動的な仕上がりに大満足。

  • 満足度★★★★★

    初見
    観るまではこのタイトルから、どんな舞台なのかまるっきり想像できなかった。「演劇」って、当たり前だろう、と。しかし、幕が開くと同時に見入ってしまい、アッという間に終演!!今までにない、なんとも言えない感覚で、まさにこれが演劇なんだ!と満足できた、素晴らしい作品!

  • 満足度★★★★

    短編集
    贅沢な気分を味わいました!!観劇できる幸せも感じました!!!

  • 満足度★★★★

    演劇
    いままで色々な演劇を観てきたつもりの自分にとってこの作品は様々な演劇手法を散りばめられた演劇と感じました。さらに演劇に嵌められそうです。

  • 満足度★★★★

    約125分
    演劇による演劇論の佳作にして、力強い人間ドラマでした。

    ネタバレBOX

    演劇を人生になぞらえる少年の主張に、もうひとつ説得力があれば。。。
  • ダルカラまた観たい!
    演目名がそのまま作品にぴったりだった。
    ダルカラの活動休止最後の作品であるが、私ははじめましての劇団。活動休止はショックである。が、そんな大事な作品に出会えた事を幸運に思う。
    演劇が好きな人間は観るべき!
    劇団員も他のキャストもとてもいいが渡邊りょう、小角まやが特に良かった。

  • 満足度★★★★★

    演劇
    ところどころで演劇を意識しました。

    ネタバレBOX

    6年生の少女が転落した事故を巡って、自殺を試みたのか、いじめがあったのか、学校側は気が付かなかったのか、昏睡状態からわずかに回復基調にある少女を卒業式に出席させようとする父親の意向は受け入れられるのか等々の父兄と学校側との面談の様子を描くことを通じて、世の中は演劇の如く動いていることを示す話。

    先生たちが対応シナリオを練り上げるところは正に演劇、学校のシナリオ通りに動く先生がまっすぐな気持ちを持っていた子供の頃を描けるのも演劇、おじいちゃんが一度しか出ないと言ったのはメタフィクション、そのおじいちゃんが別の役で登場するのも演劇、これら全てを書き上げて仕切るのも作演のお仕事、そして開演時刻ぴったりに始めるも始めないも演劇あるあるでした。

    父親の暴力が原因だったかもしれないという攻守逆転がしれっと分かるところは素敵でした。

    中田顕史郎さん良かったですね。耳の聞こえない作曲家役をやってほしいですね。
  • 満足度★★★★★

    「空気」は周到に作られ、演出される。その極意。
    感動はしても行動にならない、ぐっと来て涙が流れても本当の勇気は湧かない・・・そんな「演劇」どもをなぎ倒し、ここに確かに「演劇」屹立せり、と見届けた。良い芝居を見た後は笑顔で談笑も可だが、ここは旧交を温める場面にそぐわない。その場所を鋼の刃先に喩えるなら、居心地よく佇む場所では勿論なく、何処かは知らねど何処かへと促されて立ち去る場所である。活動休止は消滅と同じでないが、「なくなること」の視野で「演劇」がその本来の使命を探り当てようとして探り当てた場所なのだとしたら・・。
     舞台上で起こったことが全てで、他は要らない、と潔く去らせてくれのは、この芝居が「良い芝居」であるための点数はきっちり稼ぎながら、その余韻にではなく「演劇」が既に明白に導き出しているある真実のほうに浸ることを促しているから、だと感じた。(うまく言えないがそんな感じだ。)
     多彩な趣向はあるが色目使いになる事なく、ただ一つの目的に全てを集約した「潔さ」「硬質さ」が直球のように腹に来た。
     ダルカラは実はまだ2作目(谷賢一作は4作目)、俳優の顔も初めて間近で見た。個人的思い入れのある燐光群『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』で特徴ある役をやった東谷英人が今回も核になる役に。とにかく‘物凄かった’渡邊りょう(悪い芝居)、これも初めて間近に見た‘できる’小角マヤ(アマヤドリ)など、各俳優がこのお話の中心にある「出来事」の周辺で渦巻くそれぞれ感情を、精度と熱度をもって表出した。かく導いている脚本力もさりながら、人間の複雑な感情を的確に表現する俳優の姿にこそ「格好良さ」を感じる「演劇」、これぞ「演劇」の鑑。
     ところで「演劇」とは食ったタイトルだが、劇中で「これは演劇です」の意味では使われない。少なくとも、人を食ったタイトルでない、とまで。後は劇場で。

    ネタバレBOX

     子ども同士の「絵本」のような世界と、汚濁した大人たちのシリアス世界が並行して進む。いずれ二つは結合するが、子ども=希望、大人=失望・諦めという対比的な両世界の結合は、「絶望的展望」か~ら~の~「希望」、とはならない(なぜなら子ども世界のMが成長した結果が、大人世界のMだから)。だが、時系列を超越する演劇の呪文で、この後先は逆転する。(というか、そう見ることも可能。)
     子ども世界は寓話的で、台詞は大人の気の利いた言葉だったり、子供らしかったり、身体的にも観念的にも自由に飛び回る。この「子ども世界」に登場してくる車イスの少女、すなわち少年Mが恋する相手が、ゲスト出演者に当てられる役だ。今回は堀川炎、クレヨンしんちゃん系の雰囲気を醸していたが、「子ども世界」の要であり、演者によって雰囲気が変わる面もありそうだ。眩しいほどに輝く子ども時代の、その中のヒロイン役は、黒と白の対照の一方の極点として神々しい存在(大人世界8人に対し、子ども世界は3人だし、負担も大)。劇団女優降板の穴埋めに有力な助っ人を招んだのも納得だ。
     さて、「大人世界」はリアルでシリアスな息詰まる半密室劇である。とある学校、問題はいじめが絡むらしいが、複雑な様相だ。
     似たような、念押しのような対話の繰り返しごとに、「出来事」の輪郭が立ち上がる。そしてその「問題」はどういう力学が働いてか、悲劇的に歪められており、この力学に抗おうとする教師Mが葛藤する、そういう話。その意味ではシンプルな話だが、最後の主役教師がとる行動に、刮目すべし(「カムイ伝」のラストに匹敵する・・とは行かないが、「まんまとしてやられる」意味では同じ)。
     観客は、どうやらこの教師Mが辿り着いた感覚が正当である事を見分けるが、この感覚からの行動は貫徹されない。なぜか・・これを示しながら、問うている。果たして敵は何なのか・・・

     言えるのは、こうしてドラマ化されなければ(Mが葛藤しなければ)、「空気」というものは普段は見えない。我々の生活と同じく。
     空気を読み、空気に流され、無難に立ち居振るまい、必ずしも無難な選択でなかった事に、後で気づけば良いほうだろう。
     「空気」というものがその時、生まれ、流される光景を明瞭に示したこのドラマの最終局面は、ありがちなシーンではあるが、「空気は意志によって生まれる」、という事が重要だ。
     学校で自殺未遂をして救急搬送され、全身麻痺状態にある娘を、卒業式に出してほしいと、父親が土下座をして頼んでいるのに、否定されてしまう異常事態を、観客も受け入れてしまっている。
     この「演劇」には、この異常さを正しく認識し、行動する人物が登場しない。せいぜい、父親をまじえた会合をシナリオ通りに進めようと「打合せ」を厳しく取り仕切る上司に、「指示通りに動くのはごめんだ、自分の感じた事を言う」と、抗うのが精一杯。
     代わりに、その父親が行なった「いじめ」告発の過激な行動のお陰で、いかに児童が萎縮し、また「自殺」という行為によって児童たちが心理的悪影響を被っているか・・・学校や父兄側の見解が、まことしやかに語られるのだ。父兄代表のある男が「子どもたちの安全安心」のためと称して登場し、その「正論」の欺瞞が見え隠れする場面も描いてあるが、芝居の中では尻尾を掴まれない。
     その一方で、娘の父親がひとり、大声で謝罪し、何度も土下座をし、娘の思い(卒業式に出たい)を遂げたいと言い募っている。確かに血の気の多そうな父だが、周囲の冷めた、理解を示さない態度の中で、ただただ「お願い」を続けている。彼の存在によって、学校側の「不当さ」は際立たず、学校側の「対処」への真剣さが際立つ。
     ・・彼は娘の容態についても語り、辛うじて上下に動く腕で意思疎通ができるようになった、今彼女は質問に答える事ができる、食事のこと、そして卒業式のことも・・と、腕を動かしたその瞬間のことを話す。周囲は聞き入っている、が、「空気」そのものは動かない。彼の言う事は大勢に影響しないのだ、という「空気」がある。客席からこの「空気」の正体を読むに、その父親への「レッテル」だ。「この人はこういう人だからな。。」そんな空気。観客をも味方につけられない構造が「演劇」では作られている。

     さてこの「空気」なるもの。 ここでは、少女を学校に来させないように立ち働く上司の、使命感を語る口調や態度に影響されて作られているとも見える。彼の「意志」が、空気を作り出している。
     この娘の卒業式出席をめぐる問題は、対話によって解きほぐせば結論は変わるはずなのだが、そうならないようなうまい「立ち回り方」によって、空気が作られている(維持されている)訳である。
     ・・空気とは即ち、「対話や議論を省略して結論をたぐり寄せる」方法、であり、「空気」には、その結論へ導こうとする強い意志が含まれている。そして、その意志を感知した者によってさらに再生産される共有物である。
     安倍首相がテレビ番組に出たり報道にイチャモンを付けるのは「意志」をマーキングする行為で、逆に野党の露出を抑制するのは、「意志」を伝える回路を奪う事で、影響力を遮断しているのにひとしい。

     閑話休題、しかし観客は次第に「事実」を知っていく。どうやらあの親父の言ってるのは本心だ、何か復讐心や見返りを求めてこの申し出をしているのではない・・・そう十分に「認識」をする。その認識に応じるように、東谷演じる教師Mが自分の意思を表出しようとする。
     ところが、観客は「事実」として父親の証言を聞きながら、彼に全的には同調して行かない。十分に彼の証言が事実であり、彼の心境が自殺をはかった当初とは違った所にあり、「いじめ」犯人を告発すると騒いでいた頃とは異なる事が知れても、いやその頃とは異なる彼だからこそ・・つまり「いじめ告発」という武器を捨てた丸腰の相手だからこそ・・、その要求を拒んでも手前の利害には影響ない、従ってこれは拒否して正解だ、といった算盤を、私も頭のどこかで弾いていたりするのだ。 さもしいこの性は何だ。忌々しい日本人の血だろうか。
     だが、最後の最後に、父親の言葉はやっと届いて来る(まあ脚本上の工夫でもあるだろうけど)。そして、見事に覆されてしまう。
     会合において、上司の仕切りのきつい中でも、「自分の意見を言う」意思を貫いていた女性教師がいたのだが、その父親が娘をしばしば「叩いていた」という事実を本人から聞いて、態度を豹変させる。「自殺の原因を作った本人かも知れない父」の頼みは聞けない、という判断になってしまう。
     本来、その娘や児童にとって何が良いか、それが問題であって、父親がどういう人間か(尊敬に値する人間かそうでないか)など、関係のない事である。が、この豹変をきっかけに、校長と上司ら「体制側」は攻勢に転じ、「そんな重要な事実をなぜ今まで話さなかったのか」という問題設定が上位に来てしまう。
     皆「知らなかった」と答える中、Mだけは正直に「噂として聞いていたが本当だとは・・」と答えると、「そんな重要な事をなぜ今まで・・」と非難され、この指摘がその「空気」ではテキメンに効く。一方父親は既に認めていた事実を新事実のように訴追され戸惑いながらも、そのことを謝り、良かれと思ってやったが悔いていると語り、しかも自殺の原因がそこにあった可能性も否定しない、私の命に換えてもいい、娘の願いだけは聞いてほしいと、ボロボロになりながら叫び、泣き、土下座をするのだ。 が、「空気」は硬直する。
     さて、女性教師の「豹変」は、彼が「自分の思い」をぶちまけようとした直前の事であった。もし彼が本音を「ぶちまける」のと、女性の豹変に始まる「暴力」問題のくだりと、順序が逆だったら・・。
     異常さの密閉空間に、正常さの風が流れれば、問題はその重さに相応しい重さで語られたことになった事だろう。いや、そんな理想的な空気など訪れなかったかも知れないが、「マシ」であった事は確かだ。
     が、実際には逆になったのであり、おそらくこれも、女性教師の「空気」に対する反応であった、という意味では自然な結末であった。

     この結末の後では、いかな「演劇」とて、打つ手はない。「こうならないようにしよう」と、ただ思うだけである。時間を逆戻しにして、オルタナティブな結末へ導く、そんな演劇的手法も有りと言えば有りには違いないが、これほど的を射た「結末」は後からどう覆そうと、きっと虚しいだけである。
     虚しい呪文を唱えて、舞台上で実行する「演劇」と、ここで言う「演劇」は、違う。
     ・・過去の(覆せない)悲劇的な事実を、舞台上で覆してみせる、そんな演劇がある(戦争を題材したものはそれにあたる)。そういうドラマになぜ涙が流れるかと言えば、まず「悲劇」が前提となっており、これをハッピーエンドに置き換えることで悲劇性が際立ち、「それをわれわれは悲劇と感じている(望んでなど居なかった、という悔悟)」証左と確信する、そんな甘い共有空間が出来るからだ。要は「悲劇を思い起こす」時間である。戦争はそれに相応しい、皆が共有できる素材であり、それはそれとして、意味のある事ではあるだろう。
     だが、事を「未来」に移してみる。未来を作るのは、他ならぬ私たち自身だが、「これから作って行く場面であり風景」である意味での「未来」と、「演劇」は相似・同義・同質ではないのか。
     その問いかけがこの芝居の最後に叫ばれるスローガンにはある。ただし、願えば未来は変えられる、といった一般論・励ましだけ抽出するのでは殆ど意味がない。
     「空気」というものに克てたためしがなく、ほぼ負け続けの私たちが、この芝居でのリアルな(あの)結末を直視せずに、その未来を語ることは虚しい、という事なのである。
     残念ながら、「空気」に抗わず、「空気」と対峙する場面を回避しながら、より良い未来を手にすることは「自己暗示」以外には無理である。残念ながら。
     自立した「個人」の総和としての、相対的に正しい「全体」を作ることが出来るか・・それがこの華々しい終演の背後に、もたげている問いだ、と受け取った訳であった。
      ひどく主観的かも知れないが、私なりの解釈だ。

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