満足度★★★★
革命家 ロベスピエール
Bleuを観劇。素の4人のグダグダな前説(?)には「大丈夫か?」と心配になったけれど そこは役者、芝居ではビシっと魅せてくれた。
特にマクシミリアン・ロベスピエール役の早川佳祐氏の好演が印象に残る。品位、葛藤、苦悩が非常に繊細にジワジワと深く伝わってきた。
一つひっかかったのは開演前、受付に居た女性に上演時間を聞いたのだが返ってきた答えが「そこに(劇場扉部分)書いてあります」とだけ・・・。確かに書いてあるのに気付かなかった自分も悪いが 随分冷たい対応だと感じた。その時丁度受付の客足が止まり、手があいているようだったので聞いたのだが・・・そこだけが残念。
芝居全体はとても良かった。
満足度★★★★★
『フランス三部作 Blanc~空白の抱擁~』
両端をトリコロールに染められた幕を背中に、舞台を跨ぐように据えられたギロチン台。
「最も人道的な処刑装置」として開発され、革命末期に多くの奪ったギロチンによる死刑執行。
マリー・アントワネットも露と消え、革命後期の恐怖政治と化した頃には、政治にも革命にも何の関係もない市民や子供までが、凡そ罪とも言えないような些細な罪で、死刑になりギロチンの露と消えた。
あのギロチンと代々処刑人の職を受け継いできた家に生まれ、革命期にはギロチンの全てを任せられた、死刑執行人「ムッシュー・ド・パリ」と呼ばれた男、サンソン。その命を奪ったギロチン台。
罪人の首を落とし続けたギロチン台と、死刑人サンソンの視点から見た革命と、死刑執行人の苦悩と真実を描いた舞台、『フランス三部作 Blanc~空白の抱擁~』。
『フランス三部作』は、女性革命家の視点から描かれるRouge、貴族令嬢から図らずも身を措くことになった令嬢の視点から描かれる Bleu、そして死刑執行人の視点から描かれるBlancの3つの視点で描かれる舞台。
死刑執行人とギロチンの視点からフランス革命を描いた舞台は、私の観て来た舞台で、私は初めて観た。
ギロチン台は、ギロチンの精と擬人化され、中川朝子さんのギロチン・マダム、濱野和貴さんのギロチン・シトワイヤン、調布大さんのギロチ・ンキュロットのギロチン一家として、観客の前に現れ、当時の情勢や革命の歴史やサンソンの事について、神出鬼没に現れては語る狂言回しの役回り。
ギロチンというと、おぞましく怖いイメージがあるが、このギロチン一家は、シニカルであると同時に何故だかじわじわとした可笑しみがある。
中川朝子さんは、Rouge、Bleu、Blancと3作品通しで全てに出演。Blancに至っては、ChariteチームとこのGenerouxチームの両方にシングル・キャストで出演されている。性別もキャラクターも全く違う役を、1日通して連続で演じるのは相当の体力と精神力が必要な筈だが、ギロチン・マダムを軽やかにコケットにひとつまみの毒と可笑しみを加えたマダムとしてBlancの中で生きていた。
濱野和貴さんのシトワイヤンは、去年此処で観た『リチャードⅢ世』とは、がらりと違い、たっぷりの皮肉と毒に、可笑しさとひとつまみの狂気を感じるシトワイヤン。
調布大さんのキュロットは、冷静にサンソンと革命を観つつも、何処かほのぼのとして、Twitter等でもかわいいという声が上がっていたが、何だかかわいさがあるキュロット。
武田航さんのデムーランは、人々から厭わしく忌まわしい仕事と、謗られ蔑まされ苦悩するサンソンの唯一の理解者で友人であり、革命によって、差別のない平等で自由な国を創ろうと革命に参加し、ロベスピエールと同じように次第に、独裁的になって行き、その事に気づいた時には引き返せない所まで来てしまった者の苦悩と痛みを感じた。
デムーランの妻小松崎めぐみさんのリュシルは、ただ一途に夫を愛し支える純真な姿が可憐で素敵だった。
死刑執行人の家に生まれ、兄と同じ苦しみを抱えて生きてきた加賀喜信さんのマルタンの家業を厭い家を出て、外の世界に行っても、結局は死刑執行人の家に生まれたことがついて回り、普通に暮らすことさえ儘ならない事に憤りと悲しみ、絶望を感じた姿が胸を刺した。
革命の理念に共感し、次々とロベスピエールたちの命により、痛みも疑問も持たずに死刑執行をサンソンに指示し、酷薄に見えた加藤大騎さんのダンヴィルが、自らもギロチンにかかる時に、サムソンに「お前が心配だ」と一瞬見せた人間らしさに、彼もまた、ただ、自由と平等と平和を願った革命に翻弄された一人の悲しい末路を感じた。
石上卓也さんのサンソンは、サンソンの佇まいが痛ましくも美しく、それだけに、厭わしく忌まわしい仕事と、謗られ蔑まされても、その家に生まれれば否応なしに継がなければならない者の悲しみと苦しみと葛藤とジレンマが犇々と伝わり、胸が締め付けられた。
人の手で、人の命を奪うことの葛藤、苦しみと痛み。それを一番感じ、心を苛まれていたのは死刑執行人のサンソンでなはかったのか。
木村美佐さんのサンソンの妻、マリー・
アンヌは、傷つき、悲しみと苦しみに苛まれ、葛藤とジレンマに懊悩するサンソンを静かで深く純粋な愛で包み、そっと見守り、毅然として支える姿に胸が震えて涙が溢れた。
一日通して観た3作品は、何れも素晴らしく、考えさせられることも、感じることも多かった。
『革命』とは、力や武力、弾圧で捩じ伏せるものではなく、今も蔓延る差別や区別を心から無くすこと。心をより愛あるものに変えること。心を変える事なのではないだろうか。
『フランス三部作』は、全て観ることによって、よりその事が強く伝わってくる素晴らしい舞台であり、3作品を通して観られたことを心から良かったと思う。
この舞台を観たことは、私の誇りであり宝物であると言える舞台だった。
文:麻美 雪
満足度★★★★★
『フランス三部作 Blanc~空白の抱擁~』
両端をトリコロールに染められた幕を背中に、舞台を跨ぐように据えられたギロチン台。
「最も人道的な処刑装置」として開発され、革命末期に多くの奪ったギロチンによる死刑執行。
マリー・アントワネットも露と消え、革命後期の恐怖政治と化した頃には、政治にも革命にも何の関係もない市民や子供までが、凡そ罪とも言えないような些細な罪で、死刑になりギロチンの露と消えた。
あのギロチンと代々処刑人の職を受け継いできた家に生まれ、革命期にはギロチンの全てを任せられた、死刑執行人「ムッシュー・ド・パリ」と呼ばれた男、サンソン。その命を奪ったギロチン台。
罪人の首を落とし続けたギロチン台と、死刑人サンソンの視点から見た革命と、死刑執行人の苦悩と真実を描いた舞台、『フランス三部作 Blanc~空白の抱擁~』。
『フランス三部作』は、女性革命家の視点から描かれるRouge、貴族令嬢から図らずも身を措くことになった令嬢の視点から描かれる Bleu、そして死刑執行人の視点から描かれるBlancの3つの視点で描かれる舞台。
死刑執行人とギロチンの視点からフランス革命を描いた舞台は、私の観て来た舞台で、私は初めて観た。
ギロチン台は、ギロチンの精と擬人化され、中川朝子さんのギロチン・マダム、濱野和貴さんのギロチン・シトワイヤン、調布大さんのギロチ・ンキュロットのギロチン一家として、観客の前に現れ、当時の情勢や革命の歴史やサンソンの事について、神出鬼没に現れては語る狂言回しの役回り。
ギロチンというと、おぞましく怖いイメージがあるが、このギロチン一家は、シニカルであると同時に何故だかじわじわとした可笑しみがある。
中川朝子さんは、Rouge、Bleu、Blancと3作品通しで全てに出演。Blancに至っては、ChariteチームとこのGenerouxチームの両方にシングル・キャストで出演されている。性別もキャラクターも全く違う役を、1日通して連続で演じるのは相当の体力と精神力が必要な筈だが、ギロチン・マダムを軽やかにコケットにひとつまみの毒と可笑しみを加えたマダムとしてBlancの中で生きていた。
濱野和貴さんのシトワイヤンは、去年此処で観た『リチャードⅢ世』とは、がらりと違い、たっぷりの皮肉と毒に、可笑しさとひとつまみの狂気を感じるシトワイヤン。
調布大さんのキュロットは、冷静にサンソンと革命を観つつも、何処かほのぼのとして、Twitter等でもかわいいという声が上がっていたが、何だかかわいさがあるキュロット。
武田航さんのデムーランは、人々から厭わしく忌まわしい仕事と、謗られ蔑まされ苦悩するサンソンの唯一の理解者で友人であり、革命によって、差別のない平等で自由な国を創ろうと革命に参加し、ロベスピエールと同じように次第に、独裁的になって行き、その事に気づいた時には引き返せない所まで来てしまった者の苦悩と痛みを感じた。
デムーランの妻小松崎めぐみさんのリュシルは、ただ一途に夫を愛し支える純真な姿が可憐で素敵だった。
死刑執行人の家に生まれ、兄と同じ苦しみを抱えて生きてきた加賀喜信さんのマルタンの家業を厭い家を出て、外の世界に行っても、結局は死刑執行人の家に生まれたことがついて回り、普通に暮らすことさえ儘ならない事に憤りと悲しみ、絶望を感じた姿が胸を刺した。
革命の理念に共感し、次々とロベスピエールたちの命により、痛みも疑問も持たずに死刑執行をサンソンに指示し、酷薄に見えた加藤大騎さんのダンヴィルが、自らもギロチンにかかる時に、サムソンに「お前が心配だ」と一瞬見せた人間らしさに、彼もまた、ただ、自由と平等と平和を願った革命に翻弄された一人の悲しい末路を感じた。
石上卓也さんのサンソンは、サンソンの佇まいが痛ましくも美しく、それだけに、厭わしく忌まわしい仕事と、謗られ蔑まされても、その家に生まれれば否応なしに継がなければならない者の悲しみと苦しみと葛藤とジレンマが犇々と伝わり、胸が締め付けられた。
人の手で、人の命を奪うことの葛藤、苦しみと痛み。それを一番感じ、心を苛まれていたのは死刑執行人のサンソンでなはかったのか。
木村美佐さんのサンソンの妻、マリー・
アンヌは、傷つき、悲しみと苦しみに苛まれ、葛藤とジレンマに懊悩するサンソンを静かで深く純粋な愛で包み、そっと見守り、毅然として支える姿に胸が震えて涙が溢れた。
一日通して観た3作品は、何れも素晴らしく、考えさせられることも、感じることも多かった。
『革命』とは、力や武力、弾圧で捩じ伏せるものではなく、今も蔓延る差別や区別を心から無くすこと。心をより愛あるものに変えること。心を変える事なのではないだろうか。
『フランス三部作』は、全て観ることによって、よりその事が強く伝わってくる素晴らしい舞台であり、3作品を通して観られたことを心から良かったと思う。
この舞台を観たことは、私の誇りであり宝物であると言える舞台だった。
文:麻美 雪
満足度★★★★★
力技で押し切られたBleu
ロベスピエールがギロチンにかけられた7月28日にロベスピエールの人生最後の5年間の物語Bleuを見る。若き日の繊細な心の彼が丁寧に描かれて感動。中川朝子さんが国外に出かけた後は、こんなのあり得ないんじゃないかという展開ですが、3人の役者さんの力演で何となく納得させられてしまいました。とてもおもしろかったです。ところで、この劇場の照明(スポット)はLEDなんですね。どんどん世界は変わっていくんですね。
満足度★★★★★
『フランス三部作 Bleu~青嵐の憧憬~』
舞台にあるのは、Rougeの時にあった両端トリコロールカラーの幕だけで、舞台の上には小道具ひとつない舞台の上で、4人の人物たちによる物語が描かれて行く。
貴族令嬢マリー・アニュースと彼女に仕える執事家の青年セルヴィニアン、従僕の青年アルノー、革命家のロべスピエール。
4人が、革命の渦に呑まれながらも愛と友情と誇りに必死に生きた若者たちの青春を描いた物語。
4人だけで「革命」を描く。
Rougeは、女性革命家の視点、Bleuは貴族令嬢から図らずも革命に身を置くことに
なった一人の女性の視点からみた革命が描かれる。
最近、自由と愛するものを守るために、武器を取り、戦うことの矛盾とジレンマについて、考え向き合う舞台を観ることが続いていたのだが、この作品でもその事を改めて考えさせられた。
自由と平等と平和を得る為に武器を取り戦い、血を流すことの矛盾とジレンマと、いつしか暴走して行く恐怖と、そこから生まれる新たな差別と憎しみとやる瀬なさをこのBleuを観て改めて感じた。
差別のない自由で平等で平和な世界を創る為の革命であり戦争が、いつしか暴走し、嘗て自分が味わった苦しみと悲しみを新たに生み出し、自分がされたことを自分が人にしていることに気づかない怖さとジレンマ。
力や暴力、思想弾圧による革命や戦いでは何も変わらないことを、何故これほど歴史で繰り返しても気づけないのか。
そんな中で、小松崎めぐみさんのマリー・アニューズの掛け値なしの透明で真っ直ぐな明るさと純真さ、純粋さに触れた時、涙が溢れるほど心に染み入る。
人の心を開くことで、平和で平等で自由な世界を創ることが出来る事に気づきかけ、それでも一途に革命こそが全てを変えると頑なに思い込み行動し、やがて当初の思いとは裏腹に、独裁者へと変わっていってしまった、早川佳祐さんのロベスピエールに、平和で平等で自由な世界を守り、得る為に戦うことの矛盾とジレンマを感じ、胸に深く痛くもどかしく、ロベスピエールの悲しみを思った。
中川朝子さんのセルヴィニアンもまた、大切なマリーを守る為に、戦いに身を投じざるを得なかった姿と一途さが切なくも、最後まで守り切ろうとするその姿が、とても潔くかっこいい。
そんな中、いつもマリーをそっと見守り続け、最後まで傍にいて、マリーの心を守り続け、唯一武器を取らず、戦うことに身を投じなかった平田宗亮さんのアルノーは、ほっとする存在だった。
やはり、変えられるのは、綺麗事かも知れないけれど、心であり、愛であり言葉だと思えてならない。
「物語には、言葉には、力がある。だから、物語で、言葉の力で世界を変えたい。」私の好きな劇団の主宰であり、俳優である末原拓馬さんの言葉だが、私も同じ思いで作家になろうと思った。その言葉の持つ意味がこのBleuの舞台を観て重なった。
めぐみさんのマリー・アニュースの透明で真っ直ぐな、優しく強い純粋さと純真さが胸に染みて包み込み、様々な心と感情を抱き、駆け巡り涙が溢れた。
めぐみさんから、『ぜひ、観て頂きたい』とご案内を頂いたのが解る、心に焼き付いたとても素晴らしい舞台だった。
文:麻美 雪
満足度★★★★★
『フランス三部作 Rouge~花炎の残像~』
劇場内に一歩踏み込むと其処には、両端をトリコロールカラーに染められた幕がかかり、その前に1脚の椅子と花の生けていない花瓶のようなものが乗ったテーブルが1つ置かれた舞台があるだけ。
舞台の幕が上がり、白い布の塊が蠢き、這い出すように現れたのは、女性革命家テロアーニュ。
ベルギーに生まれ、イギリス、イタリアと流転の人生を送り、流れ着いたフランスで民衆による革命に出会い、アンヌから「フランスの自由の恋人」と称される女性革命家テロアーニュ・ド・メリクールとなった実在の女性革命家の生涯を、中川朝子さんが激しく、艶やかに鮮やかに、切なくも毅然としたひとりの女性として描き駆け抜ける一人芝居、『フランス三部作 Rouge~花炎の残像~』の物語の扉が開いた。
優しくはあるが、継母の暴力から守ってくれなかった父に絶望して、家を飛び出してから信じては裏切られを繰り返し、イギリス、イタリアとその都度自分の居場所を探して流転の生活を送っていたアンヌが、最後に行き着いたのは、「自由と平等の国を創る」という思想を旗印にして革命を起こしていたフランス。
革命に出会ったことで、アンヌの中の何かが弾け、革命へのめり込んでいった彼女の前に大きな壁として立ちはだかるのは、またしても男たちであり、女という自分の性。
女であるテロアーニュが注目され、認められることで、敵視され、陥れようとする男たちの狭量さ、テロアーニュを翻弄してきた男たちの視線と目線、女であるということ。
革命家を標榜する彼らでさえ、男としての本質は変わらないことに憤り、絶望したであろうテロアーニュ。
命尽きるまで、テロアーニュの身を焼き尽くした、赤い革命への熱の滾りは、その最後に緋へと昇華してのではなかったか。
彼女の目指した革命は、性別や貧富の差、宗教や思想、地位の差で差別されない平等で自由な世界にすることであり、決して血で血を洗い、誰かを陥れたり排除するものではなかったはずだ。
テロアーニュの『革命は、心を変えること。心を変えなければ革命は起こせない。』の一言が胸を抉る。
心に差別や区別を持っているうちは、その考え方を変えなければ、自由と平等を手にいれる革命は起こせない。
最近のテロの報道を見る度に感じることも正にこのことである。
時に可憐に、時に艶やかに、毅然と激しく、鮮やかに切なく、命を緋(あか)く燃やし尽くしたテロアーニュ・ド・メリクールそのものの中川朝子さんが其処にいた。
一人の女性の身の内側を染め尽くした革命という名の熱の赤、その赤が身の内全てを焼き尽くし緋(あか)に変わる迄を一人で描き切った、中川朝子さんの熱の紅が私の心に移り、感じるものがあった素晴らしい舞台でした。
文:麻美 雪