地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム) 公演情報 地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
1-3件 / 3件中
  • 満足度★★★★★

    納得するところも多く
    心地好い疲れを感じる。冒頭では「ん????」ってなっていたけど。自分も母として子供をどう見て来たのか?とかね。反吐が出るくらい正直な訴えにうなずきつつ、ロックだぁ~~って。それなりの歳になったらワルツ踊りたいわ(笑)

  • 満足度★★★★★

    160分間の苦痛
    肉体的にも精神的にも疲れ果てた。

    上演時間160分で休憩なし、のアナウンスに恐怖した。
    まさに恐怖はやって来た。

    (うまくまとまっていませんが、ネタバレボックス内は長文になりました)

    ネタバレBOX

    オープニングから苦痛とも悲鳴ともつかない叫びと、身体の芯に響くような重低音が会場を充満する。
    さらに下着を脱いでの自慰が舞台の上に。
    激しい男女の台詞。字幕の文字が追い切れないほど捲し立てる。
    舞台上方にある字幕と舞台上の俳優を交互に観ているから、目もつらい。

    ワルツの生演奏とダンスで箸休め。
    箸休めと思っていたら7曲ぐらいも続く。
    意外と気持ちいい。

    そしてラストの超個人的カオス。
    たぶん1時間以上も1人で叫び、囁き、歌い、がなった。
    圧倒される。

    そんな160分。
    終演後は、身も心も疲れ果てていた。


    作・演出のアンジェリカ・リデルの内面がグロテスクなほどさらけ出される。
    ラストのモノローグだけではなく、オープニングからラストまで延々と「彼女」が語られる。

    アンジェリカ・リデルは1人で立っている。
    どこにいても1人だと感じている。

    「ウトヤ島」。
    その名前だけ聞いて、申し訳ないが凄惨な事件と結び付かなかった。

    彼女の孤独とウトヤ島で命を落とした若者たちの、断ち切られてしまった未来が重なる。
    それは彼女を産んだことで、彼女から憎悪を浴びせられることになる「母」の存在をも巻き込んでいく。
    「生」と「死」。

    「生」に結び付かない「性(行為)」である“自慰”は、「母」への憎悪の象徴だ。
    しかし、ラストへの展開で、そのすべてがクルリと裏返ってしまったように感じた。もちろん意図的に。

    つまり、彼女が、「自分の母」から、「世のすべての母」への憎悪を拡大していくアジテーションの中で繰り返し繰り返し叫び、吐き出していたものが、ラストに見せるウトヤの光景(少年との邂逅で)で一瞬にして「生(命)」というものの大切さ(もっとふさわしい言葉が思い浮かべばいいのだが、残念ながら今はこれしか浮かばない)にひっくり返されてしまったのではないか。

    彼女が作った作品であるから、ウトヤ島の事件から彼女が長年抱えていた問題(母とか母親とか)への、1つの糸口が見えての、この作品ではないのだろうか。
    「母への憎悪」とともに、生きていることの尊さ、ありがたさも同時に感じているのではないか。
    「老い」への恐怖を道連れにしながら。

    「ウェンディ」は、「母」の象徴だ。
    気ままに暮らすピーターパンの母親役を務めさせられる。
    まさにアンジェリカ・リデルがなりたくないモデルが「ウェンディ」である。

    ウェンディという女性は、なぜ作られるのか?
    それは、「社会」がそうさせる。
    すなわち「女性は結婚して子どもを産んで幸せに……」というまったく変わらない世の中の考え方があるから。
    「産む性」である「女性」に期待されるものは結局のところこれなのだ、ということ。

    アンジェリカ・リデルはそれがたまらなくイヤなのだろう。
    ここは、自分の「母」との関係ではなく、そうした社会の“在り方”と「自分自身」の“在り方”の関係性から出てきたものではないのか。
    それが彼女独自の「母」への気持ちと結び付いた(付けた)。

    劇中で何度も流れるアニマルズの『朝日のあたる家』。
    歌(歌詞)も出てきたのでアニマルズであることがわかる。
    アニマルズ版の『朝日のあたる家』は、少年が主人公である。
    しかし、伝承曲のオリジナルに近いであろう、ウッディー・ガスリーやボブ・ディラン版では、主人公は女性なのだ。
    高田渡も『朝日楼』のタイトルで訳して歌っている。こんな歌詞(訳詞)だ。
    「ニューオリンズに女郎屋がある ひと呼んで朝日楼 沢山の女が身を崩し そうさあたいもその一人さ…」
    つまり、アンジェリカ・リデルは“あえて”「アニマルズ版」を使ったのではないか。
    「娼婦」の歌を「少年」の歌にしてあるほうをだ。
    「娼婦」とは、「ウェンディにされた女性たち」のことではないのか。
    アンジェリカ・リデルはそこを捻ってみせたのではないだろうか。
    『朝日のあたる家』が何度も流れ、自らも歌ってみせることで、彼女の叫びは「朝日のあたる家」=「朝日楼」の中にあるということを。

    彼女は「母」が悪いと言う。
    世の中の「母」がすべて唾棄すべきモノだと言う。
    それは本当なのだろうか。

    「母」が「母」となるのは自然のこととしても、「社会的」に「母」になっていく(なることを期待される)のは、「社会」との関係ではないのか。
    自らも「ウェンディ」と結びつけているのだし。
    だったら、「母」をこのように激しく攻撃することは違うのではないのか。

    彼女が向かうべきは「社会」である。
    そして、ウトヤ島の殺人犯が向かうべきなのは、ウトヤ島の若者たちではなく「社会」なはずなのだ。
    そして「銃」で向かうのではない。

    ラストにそのことが提示されたのではないのか。

    アンジェリカ・リデルは、殺人犯であり、殺された若者たちでもあった。

    アンジェリカ・リデルは1人で立っている。
    どこにいても1人だと感じている。
    たぶん孤独だと思っている。
    外国人として過ごすことができる上海では、それが“外国人”というレッテルで隠れたようになる。

    上海でワルツを踊る老人たちには「老い」の「醜悪さ」は感じない。
    「老いていく」自分の存在の、諸悪の根源である「母」という図式がここでも少し崩れたのではないか。
    1曲踊るだけではなく、7曲もワルツは演奏され、老人たち以外も踊るのだ。
    「老い」「死」へのワルツを。

    160分間の苦痛は、アンジェリカ・リデルの内面での葛藤だ。
    それを観客である我々に押し付けてきた。
    アンジェリカ・リデルは1人で立っていて、(彼女にとって)すべての出来事の中心にいる。
    当然、我々も、“我々にとって”すべての出来事の中心にいるわけだ。
    しかし、そうしたすべての出来事を背負うことはできない。
    背負えば狂ってしまうだろう。
    狂う前に吐き出すこと、それが生きる術なのではないか。

    若者たちが血を流し横たわるラストは、延々と続いたアンジェリカ・リデルの叫びよりもズシンときた。


    個人的な「母」への憎悪が、世の中すべての「母」に対する憎悪へ拡大することには、もう1つ「何か」ありそうな気もする。
    それは彼女が「女性」だからだ。
    しかし、この作品では、そこには蓋をしてしまっている。
    そこまでは露出しなかったのだ。
    その蓋もいつか開けるときがくるのではないか。
  • 満足度★★★★★

    ポストドラマ、あるいはパンクロック
    額縁内でドラマを異化するタイプのポストドラマ演劇。

    幻想には現実(ドキュメンタリー)が
    言葉には身体が、対置され、ぶつかり合う。

    あるいは、パンク歌手のコンサート。
    それはアンジェリカ・リデルの魂の叫びであり、
    そこに人間の普遍的な姿が浮かびあがる。

    ネタバレBOX

    後半はパンクロッカーよろしく、マイク一本でリデル本人が叫び続ける。
    それは1コードで延々吹きまくるフリージャズのソロプレーヤーのようでもある。

    物語の構造はシンプルで、延々、母(なるもの)ならびに、社会秩序を罵倒したおす。面白いのは1つのメッセージとしか思えない叫びを聞き続けると、その内容よりも彼女の痛みが強く伝わってくるということ。そしてそれが反転し、憎めば憎むほどに母なるものや秩序・愛を求めてやまない彼女の姿が見えてくる。それこそ人間の普遍的な姿。

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