満足度★★★★
劇92『リチャード二世』新国立劇場小劇場(B2-18)2013年10月27日(日)13時千秋楽 豪華キャストの中でも異彩を放つ柄本佑が光り、歌手でなく女優として存在した中村中
最初、新国立劇場の中劇場の方だろうと思い込んでいた
豪華キャストの群像劇。
その中でもひときわ異彩を放っていた柄本佑の
何とも言えない、ダレた?つかみどころのないような演技が
実に強烈だった。
そして、これまでも舞台経験はあれど、そのどれもが
あくまでも「歌手としての役割」があった中村中が
そのポジションから解放されて、あくまでも女優、
しかも紅一点として存在した。
満足度★★★★
柄本佑
シンプルな舞台に、いや、壁は金色だし、床は光るし、シンプルではないのかもしれないけれど、カーテンが開いては閉まり、それは手動で、誰かが開け閉めするのだけれど、とても豊かに思えた。
それはそうと、主役の柄本佑さん、佑くん。あの脱力感と、人を引きつける何か得体の知れないものの強さは、ほんと才能という感じがした。そんな言葉で片付けるのも失礼だけど、やっぱり思考がちがうんじゃないかな。
演出もなんかシンプルかつダイナミックでかっこよかった。
いいものを見た。という感じ。結構寝てしまったけど。
声はるダケが芝居と思っている人もいたような、そうなっちゃうけどね。分かったつもりになると、見ているほうも疲れる。
満足度★★★★
人間の欲望を大胆に
マーロウ作の劇を初めて鑑賞した。よくシェイクスピアと並べられて評される人物だが、シェイクスピア劇よりも、より単純で大胆という印象。本作ではマーロウの権力なんてくそくらえ、というような反骨精神のようなものも感じる。
二つの愛(王とギャビンストン、モーティマと王妃)とそれぞれの権力闘争は、一体愛と権力のどちらがその者にとって優先だったのか。上記4人は決して割り切ることなく愛も権力も両方維持しようとする。ここに、人間のエゴイズムが如実に現れていて、昔も今も、人間って変わらないんだなあと思ったりもした。欲望こそ、人間の根源的な「生」を突き動かしているものなのかもしれない。
構成としては、舞台構成は見事であった。服装を現代的にしたり、一面金色の壁、戦闘シーンの紙吹雪など、「おお、すげえ。面白い。」と何度も思った。役者の演技はどれも優れているが、王や家臣の欲望がこれでもか、というくらい直情的に訴える必要があったためか、終始役者は声を張っていた。演出には理解できるが、見る側としては、とてつもなく疲れた。評価できない点としては、この一点のみ。
古典をこんなに親しみ易くできるのは、森さんの手腕にほかならない。
満足度★★★★
アフタートークの日
シェイクスピアと同時代の作家による作品、若くして早世した為、作品も3年前のコクーンで上演された「ファウストの悲劇」位しか知らず、その時も悪魔とか宗教観とかかなりぶっ飛んだ印象だったが、今作の王様の末路もかなり悲惨。BLっぽい描写はあるけど、実在の人物と事件。また、話の展開の面白さに、これってまんま歌舞伎に応用出来そうな、と思ったり。
エドワード2世の約40余年の時間経過、ブレヒト幕を使い、一気に時を変える演出。一瞬「え?」と思うが見慣れると苦にならず。
男色家エドワード2世と成り上がりヒールの立場になってしまったギャヴィストンとの恋愛中毒から来る御家騒動、のめり込んで政治やら妻放ったらかしで惚ける姿は正にバカ殿、でもどこかそれを装っている風にも見えたり。
柄本明氏や時生氏とも違う柄本家のDNAの面白さと凄さ、と言うのかな。
四方が金箔色で囲まれた簡素な空間、同色の玉座、場面転換のブレヒト幕。そんなセットの中を、座長級のベテラン俳優陣がメガネと髭を蓄え、ビシッとスーツを着こなした姿や、動き回る姿に惚れ惚れするやらシブカワに見えたり。紅一点の王妃イザベラ、歌わない中村さんのドレッシーな姿も綺麗で、確固たる気品を保った王妃さま、他に終盤の老モーティマーの甥の石田さんや王子エドワードの安西さん達には、目が離せなかった。
休憩込みの3時間近い舞台だったけど、話の行方に時間の経つのを忘れてしまった。面白かった。
当日、観客層が中高年の男性客が多めだったのには驚きました。
面白い演目だし、告知の仕方によってはもっと若い(演劇部以外の)観客呼べると思うんだが・・・。
当日アフタートークあり。(11/6up)
発言をそのままメモ書きし,羅列記述しているので、非常に読み辛い箇所が多いです。