春よ行くな【15日(日)18:30に追加公演決定!!!】 公演情報 春よ行くな【15日(日)18:30に追加公演決定!!!】」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.1
1-8件 / 8件中
  • 満足度★★★★

    今更ですが
    ずっと見たかったので満足です。
    気持ち悪いかっこいい!

  • 満足度★★★★★

    悪い芝居流の身体表現
    舞台美術も場を満たす音もしなやかな武器となり、
    役者たちの身体が、台詞を支え、それどころか台詞を凌駕して
    一人の女性の心風景を編み上げていく。

    その、表現の厚みに圧倒されてしまいました。

    ネタバレBOX

    入場してしばらくは、
    三角形の囲み舞台かと思った。
    中央には三角形の台が設えらえて。舞台上手の通路状のスペースの奥や
    下手奥には2列のパイプチェア。
    奥のブースのような部分にも気が付いて。
    坐っていても舞台の形状が今一つ把握できず
    すこし不可思議な感覚のままで、開演を待ちます。

    闇の中、男女の交わりで始まった舞台、しばらくは主人公を外側から見ていたように思う。やってくるものをただ物語を紐解くように追いかけていく。
    23歳の主人公の記憶、周りとの会話や関係、戻らない彼氏、仕事や生活、様々な出来事と想いの曖昧さ。躊躇、当惑、想いの逡巡。スライスのように切り取られ、観る側に訪れる時間。
    でも、気が付けば、舞台と人物たちの姿とは別の色の、シーンの枠組や台詞とはことなるものに捉えられていて。

    最初は、想いが舞台から流れ込んでくるのに、何がその感覚を伝えているのかがわからなかった。でも、少しずつ世界が開けていく中で、役者たちの演じる場所や、距離や、なによりもその身体が語る言葉に、ダイレクトに染められていることに気がつく。

    もちろん、戯曲を超えて身体が紡ぐもの自体は他の劇団の作品でも秀逸なものがたくさんあるのですが、それでもこの作品で役者たちが身体で紡ぐ想いには目を瞠った、単に刹那に現出するロールの心情に留まらない記憶のバイアスがかかっていて、その分すこし物語に寄せられ、時にベタで、あからさまで、へたうまに洗練され、その分観る側に対しての親和性を持ち、舞台美術の表すものやロール間の物理的な位置までもニュアンスに取り込む間口があって。
    音にもやられました。舞台奥からオペレーションされる様々な音が、時に突き刺すように鋭く、あるいは満たし浸し込むように鈍色に、観る側を舞台に引き入れ、繋ぎ、揺さぶり、感覚を研ぎ、視野すらも広げていく。、

    戯曲に紡がれ声で語られる台詞と役者たちの身体や距離が語る言葉の重なりや乖離から、ロール達の表層や内心、さらにはそのコアの内に息づく想いに至るまでの俯瞰が生まれる。個々のロールの名前が、そのニュアンスを観る側にしたたかに囁いたりも。
    美術は、それ自体としては前述のとおりタイトにイメージを定めることなく抽象的なのですが、役者たちの所作がそのなかにくっきりと主人公の心の内の座標や視座を刻み組み上げていきます。中央の三角形の台上のスペースに主人公が抱く想いや、不安や、慰安や、様々な事象に対する感覚が、台詞に留まらず、その所作や、さらなる身体の言葉で紡がれていく。そこに入り込んでくる他のロールの存在が、踏み入ったり、片足を台に掛けたり下ろしたりで表されたり、圧迫感や求める気持ちがスペースのエッジで演じられるのも旨いなぁと思う。
    一方でオフィスの風景が舞台の端に置かれたり、想いと重なりきれない男との生活が中央ではなく客席と見紛うように並べられたパイプ椅子の上で不安定さとともに描かれて。シーンの一つずつが、舞台は主人公の心の構図の中で、役者たちが紡ぐ心風景として観る側を取り込んでいくのです。

    舞台に刻まれる時間、なにか歯車が一つ外れそのままに動いていくような23歳、想う歪みの色や軋みの音が伝わってくるような26歳、さらにはそれでも抱き求めるものが手を離れ心を閉ざしてしまう30歳。主人公が心に抱いた「春」と現実がはみ出し、折り合い、、収め、収まらず、委ね、委ねきれず、疲弊するように、崩れるように、緩やかに、何かが手から離れていくように乖離していく。
    そのことが、単なる物語の骨組みやドラマの筋立てや、語られる表層とは繫がっても重なることなく広がる心風景とその肌触りでやってくるから、観る側もその感触を物語の枠に収めきれず自らの内の時に埋もれてさえいた記憶や気づきや感性で受け止めるしかない。

    30歳の「春」を殺し、「春」と繫がれた舫を解き、闇に包まれた獄のなか閉ざされた時間を渡る。その時、舞台の在り様と主人公が語るクリアな想いと諦観とその先への想いが自らの語った台詞がすっと一つに束ねられて。扉が開き解き放たれ、差し込んだ光に歩み出す主人公を、今度は観る側が手放し、見送って・・・。

    終演。その余韻に圧倒され、やがて受け取ったものがゆっくりと、圧倒的な質量とともに処しがたく行き場のない想いとして自身を染め淡々と深く心を満たしておりました。
    劇場に足を踏み入れたときには不可思議に思えた舞台の形状が、もはやあからさまな心風景の具象となり、劇場を出るとき暫く止めてその世界に見入る。その印象は、帰りの電車の中でも、その翌日も、ずっと消えずにとどまっておりました。


  • 満足度★★★★★

    春よ行くな東京版
    大阪インディペンデントシアターとのサイズ、構造の違いから、ラストが異なります。大阪版では舞台背後にある搬入用シャッターが上がり(だから東京版は音だけ)そこから底が町へと消えていって、再度シャッターが下りて終わり、という流れでした。ちょうどシャッター越しに通り向かいのかつ丼の有名店「こけし」見えるというところがなかなか情感たっぷりだったのですが、駅前版は搬入口なんてありませんから、脇の出入り口から出ていくことになったわけですが、底の背中が見えなかったので、ちょっと何が起きているのだろうとあいまいな印象になったようです。
    東京版は東京版でコンパクトな良さがあって、役者をしっかり(違和感たっぷりの気持ち悪さで)見えましたし、照明も東京の方がすんなりしていてよかったと思います。
    いずれにせよ、久しぶりに悪い芝居でした。好きです。

  • 満足度★★★

    マイム?
    大阪公演の絶賛が鳴り響いてたので、悪い芝居、初めて観劇しました。岡田太郎さんの生劇伴がとても印象的で、工事用の?長さの違う鉄パイプなどジリジリとする場面にとても効果的に作用していたと思います。照明と舞台美術も、噂どおりに良かったです。でもマイム?のようなボディを揺らしたりする動きが、どうにも心地良くなく。シチュエーションにも台詞にもシンクロしているように見えず、違和感と気持ち悪さが消えず。体操選手やダンサーだったら体幹バランスも良くきっと気持ち良くみれたかも。森山未來さんとか身体表現が素晴らしいデスカラネ。かと言って好きか嫌いか問われれば嫌いの類いではなくて。不思議な感覚。次回作が楽しみ。

  • 満足度★★★★

    言葉にするのは難しいいいいいい
    けど、ヒリッヒリに腫れ上がったいい芝居だった。
    観るたびに魅力的になってくなあ、この劇団は。

    (観劇の後半が若干尿意との戦いになっちゃったのがとても残念・・・^^;)

  • 満足度★★★★★

    誰もが前を向いている
    何を書いてもネタバレになるのでネタバレBOXに書く。

    ネタバレBOX

    僕たちは互いに互いを騙し合って傷つけあって生きているし、何よりも自分を騙して傷つけていて、そんなぐちゃぐちゃな傷だらけの(もちろん一度ついた傷は消えることはない、忘れることはできても)状態のもとで自らの正しさを声高に叫んでみても残響に怯えるだけで、それでも自分が前だと思う方を向いて歩いていくしかないのだろう。

    序盤、不快なほどのノイズに包まれ、それでも言葉が通じないさまは喜劇的ですらあった。それが進行とともに沈静化しイメージがひとつに収斂し一定の距離を保つようになる(したがって表面上リアリスティックなものになる)のは、ついには天井底が自分だけで世界を完結させてしまうことへの伏線だったのだろうか。

    岡田太郎の音楽はどことなくNirvanaに似ていた。演者のひとりとして舞台に立ち(そう、彼がいるところはもはや舞台の一部である)、空気の流れを自在に変容させる魔術師のような姿に圧倒される。

    各辺の長さが不揃いな三角形のシンプルな舞台はスムーズに距離感を狂わせてくれた。

    俳優に見えているものは観客にも見える――山崎彬は昨年末の谷賢一、岡田あがさとの共同作業の折にそう語ったという。僕にはたしかに天井底や免罪符揺が見ているものが見えた。それだけに慮公平や美里多里綺麗が何を見ているのかもっと知りたかった。

    戦泰平の情けなさ、やるせなさは身につまされるものがあり観ていて辛かったが、そのために彼が良い「入口」になっていた。

    最後、「四十六歳」は蛇足だと感じた。というのも、あのシーンを見たために僕には時間の先にある死が救いに見えたのである。しかし天上底はそういう意味で救われてはいけないと思う。

    次回公演も行きたい。
  • 満足度★★★★

    深層可視化演劇
    悪い芝居はお初でしたが、人の内面や人間社会の実相を斬新な手法で顕在化させる“深層可視化演劇”ともいうべき新手の劇をたいへん面白く鑑賞。それだけに、客をポカーンとさせるラストシーンで終幕したのが残念至極。

    ネタバレBOX

     そこまでがとても精緻に作られていただけに、劇そのものを放り出すようなあの結末ではもったいない。仮にそれが正視に耐えないものになろうとも、底(主役の若い女性の名前)自身も言及していた“69歳の底”の姿を、底の末路を見せてから劇は閉じられるべきだった。
     そうは言っても、結末云々が瑣末事に思えるほどに力強く、面白い劇だったのは否定しようのないところ。
     何よりまず、“超リアリズム”とも言うべき方法に圧倒された。
     悪い芝居は初体験だったため、この方法が本作に固有のものなのか、他作品でも使われているのか判然としないが、人間や世界の実相を表現するため、役者たちがおそろしくリアリティを欠いた演技をするのである。
    「実相」を表現するため「リアリティを欠いた」演技をするとはなんだか矛盾しているようだが、そこに矛盾はない。
     先に本作を“深層可視化演劇”と称した通り、役者たちは世界や心の内奥を表現するべくわざと反・自然体の演技をするのである。
     変に声を張らず、変に身振りを交えず、変に力まない。我々が「自然体の演技」と聞いてイメージするものとは真逆の演技を悪い芝居の役者たちはあえてする。変に声を張らないどころか多くの場面で叫ぶようにセリフを発し、変に身振りを交えないどころかケイレンするように荒々しく体をよじって心の震えを体現し、変に力まないどころか多くの役者は力み返って芝居をする。
     それもこれも、すべては実相を表現するため。恋人に去られたショックから立ち直れない主人公の底をはじめ、本作の登場人物の幾人かは大きく心が荒立っており、その荒立ちを表現するためあえて上のような芝居をするのだ。
     激しい演技で人間の、世界の実相を表現する役者たちを見ていると、劇世界に生きてはいない我々がいかに心の荒立ちをひた隠して生きているかを思い知らされる。
     劇世界に生きてはいない我々はたとえ恋人に去られようともそんなことなど無かったように何食わぬ顔で社会生活を営み続け、別の登場人物よろしく父親の蒸発を体験しても動揺を表に出さず真人間を装い続けるだろう。
     だからこそ、激情を隠そうともせず思うままに振る舞う舞台上の役者たちは我々の代弁者のような役割を帯び、思うさま振る舞いたくとも常識に縛られてそうはできない我々にいくばくかのカタルシスを与えてくれる。
     自然体でないのは演技だけにとどまらず、会話も然り。劇世界に生きる彼らは実社会に生きる我々が対話者をはじめ各位に配慮し“心の声”にとどめておくような事までをあえて口に出し、現実世界ではありえない“互いの心に土足で踏み込み合う”ような露骨な会話を当然のように繰り広げ、そんな会話など出来っこない我々にやはりカタルシスをもたらすのだ。
     このような劇の有り様はむしろ古典劇に近く、「静かな演劇」「現代口語演劇」などと呼ばれる、20年ほど前に生まれて今もその影響下にある劇が後を絶たない“リアリズムの劇”の有り様とは大きく異なる。
     そのような劇が“リアルでない”との理由から長ゼリフを排し、同じ理由により声を張るのを歓迎しないのに対し、悪い芝居の役者たちは“心の声”をも口に出して長々と、しかも声を張り上げて絶叫調で喋る。この点からも、悪い芝居が最近の口語劇より古典劇に近いことは明らかだろう。
     そして、今なお読み継がれ演じ継がれる古典劇の多くがそうであるように、悪い芝居の本作も紛れもない悲劇である。
     恋人に去られた若い女が途方もない喪失感に呑み込まれて苦しさに身悶える、文字通り“身悶える”この劇が悲劇でなくていったい何であろうか?
     興味深いのはなぜ“今”このような劇が作られ、支持されているのかということだ。
     それは本作の主人公・底が抱えているような暗黒が、多くの日本人にとって他人事(ひとごと)ではなくなったからだろう。
     ネアカがもてはやされた80年代が終わり90年代に突入した頃、サブカルチャーの世界で“暗黒”がもてはやされたことはバルブと同世代の演劇ファンならご存知のことと思われるが、いま「もてはやされた」と書いた通り、そのころ“暗黒”は我々を蝕むリアルな敵ではまだなく、“面白いから”と金で買われる流行品だった。だからこそ、人や世界の暗黒をカタログ化した『危ない1号』のような雑誌が売れ、人や世界の暗黒をユーモアにくるんで描いた大人計画がウケたのだ。
     だが、大人計画が売れ始めて約20年、暗黒は笑いの対象にできるような“遠くの火事”ではもはやなくなり、ユーモアにくるんで描けるような他人事ではなくなった。
     市場原理主義が地球を覆いつくして世界規模での安売り合戦が起こり、労働者の賃金までが買い叩かれる昨今、近代国家が理性で抑え込んできた弱肉強食の世界が再来し、“富める1%”からあぶれた者は社会にコマとして使い捨てられる“消費財”として生きることを余儀なくされつつある。
     そんな絶望的な時代に暗黒を描き痛みを描く“悪い芝居”が現れたのは偶然ではないだろう。
     もとより、本作の主人公・底を苦しめているのは恋人の失踪であり、市場原理主義ではないが、底は恋人から、少なからぬ現代日本人は社会から見捨てられて“己の無価値”を感じている。生きるよすがを失って苦しんでいる点において両者は同じなのだ。
     自分を自分たらしめてくれるものを失った主人公が自分を取り戻すためにあがき、悶え、自壊する本作はまた、“自分探しの劇”、“自分探しの果てのアイデンティティ崩壊劇”という側面も持ち、その点において六、七十年代のある種の映画や小説にもまた似ている。
     映画でいえば『東京戦争戦後秘話』をはじめとする大島渚の一部の作品、小説ならば『箱男』『他人の顔』などの安部公房作品がそれにあたり、いずれの作品でも“自分探し”は重要なテーマだ。
     この時代に自分探しを主題とした芸術作品が目立ったのは、「実存主義」や「人間疎外」「自己疎外」といった言葉が多用された時代相と無関係ではありえまい。
     だとするなら、それから四半世紀以上を経た今また悪い芝居のような“自分探し”を描く集団が現れたのは、“人間疎外”がまた進み始めている証左なのではないだろうか?
     本作にはそういえば、労働というものが引き起こす“人間疎外”を描いたシーンがあったはずだ。世界の実相を分かりやすく描き出すため超リアリズムの手法を採るこの劇団の方針に従い、かなりデフォルメされて描かれたそのシーンは滑稽味さえ感じさせたが、失踪した彼氏のことを気に病むあまり仕事に身が入らない主人公を上司たちがいびり倒す場面で彼らがしていたことは“人間疎外”以外の何ものでもありえない。
     もちろん、“自分探し”の劇は80年代にも90年代にも00年代にもあったに違いなく、鴻上尚史などはこれら3つの年代にわたってそうした劇を積極的に作ってきたが、悪い芝居の“自分探しの劇”からは80年代以降の“自分探しの劇”にはない切実さ、のっぴきならなさが感じられる。
     自分を探してしっかり守り抜かないことには、再来した“弱肉強食社会”の荒波にさらわれてしまう! そんな危機意識がひしひしと伝わってくるのだ。
     この劇団が採用している、一見すると奇を衒っているかに見える斬新な“方法”に嫌味が感じられないのは、切実に訴えたい何ものかをこの劇団がしっかと持ち、それを表現するのに最適な方法として上の方法が不可抗力で選ばれているからだろう。その意味において、この劇団における内容と方法の関係、もしくは内容と形式の関係は極めて健全であると言える。
     やはり演劇は“内容ありき”でなくっては!
     方法に淫して内容が二の次になっているあの劇団やかの劇団は悪い芝居を見習うべきだ。
     
  • 満足度★★★


    面白いけどやや長いなと感じた。

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