春よ行くな【15日(日)18:30に追加公演決定!!!】 公演情報 悪い芝居「春よ行くな【15日(日)18:30に追加公演決定!!!】」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    深層可視化演劇
    悪い芝居はお初でしたが、人の内面や人間社会の実相を斬新な手法で顕在化させる“深層可視化演劇”ともいうべき新手の劇をたいへん面白く鑑賞。それだけに、客をポカーンとさせるラストシーンで終幕したのが残念至極。

    ネタバレBOX

     そこまでがとても精緻に作られていただけに、劇そのものを放り出すようなあの結末ではもったいない。仮にそれが正視に耐えないものになろうとも、底(主役の若い女性の名前)自身も言及していた“69歳の底”の姿を、底の末路を見せてから劇は閉じられるべきだった。
     そうは言っても、結末云々が瑣末事に思えるほどに力強く、面白い劇だったのは否定しようのないところ。
     何よりまず、“超リアリズム”とも言うべき方法に圧倒された。
     悪い芝居は初体験だったため、この方法が本作に固有のものなのか、他作品でも使われているのか判然としないが、人間や世界の実相を表現するため、役者たちがおそろしくリアリティを欠いた演技をするのである。
    「実相」を表現するため「リアリティを欠いた」演技をするとはなんだか矛盾しているようだが、そこに矛盾はない。
     先に本作を“深層可視化演劇”と称した通り、役者たちは世界や心の内奥を表現するべくわざと反・自然体の演技をするのである。
     変に声を張らず、変に身振りを交えず、変に力まない。我々が「自然体の演技」と聞いてイメージするものとは真逆の演技を悪い芝居の役者たちはあえてする。変に声を張らないどころか多くの場面で叫ぶようにセリフを発し、変に身振りを交えないどころかケイレンするように荒々しく体をよじって心の震えを体現し、変に力まないどころか多くの役者は力み返って芝居をする。
     それもこれも、すべては実相を表現するため。恋人に去られたショックから立ち直れない主人公の底をはじめ、本作の登場人物の幾人かは大きく心が荒立っており、その荒立ちを表現するためあえて上のような芝居をするのだ。
     激しい演技で人間の、世界の実相を表現する役者たちを見ていると、劇世界に生きてはいない我々がいかに心の荒立ちをひた隠して生きているかを思い知らされる。
     劇世界に生きてはいない我々はたとえ恋人に去られようともそんなことなど無かったように何食わぬ顔で社会生活を営み続け、別の登場人物よろしく父親の蒸発を体験しても動揺を表に出さず真人間を装い続けるだろう。
     だからこそ、激情を隠そうともせず思うままに振る舞う舞台上の役者たちは我々の代弁者のような役割を帯び、思うさま振る舞いたくとも常識に縛られてそうはできない我々にいくばくかのカタルシスを与えてくれる。
     自然体でないのは演技だけにとどまらず、会話も然り。劇世界に生きる彼らは実社会に生きる我々が対話者をはじめ各位に配慮し“心の声”にとどめておくような事までをあえて口に出し、現実世界ではありえない“互いの心に土足で踏み込み合う”ような露骨な会話を当然のように繰り広げ、そんな会話など出来っこない我々にやはりカタルシスをもたらすのだ。
     このような劇の有り様はむしろ古典劇に近く、「静かな演劇」「現代口語演劇」などと呼ばれる、20年ほど前に生まれて今もその影響下にある劇が後を絶たない“リアリズムの劇”の有り様とは大きく異なる。
     そのような劇が“リアルでない”との理由から長ゼリフを排し、同じ理由により声を張るのを歓迎しないのに対し、悪い芝居の役者たちは“心の声”をも口に出して長々と、しかも声を張り上げて絶叫調で喋る。この点からも、悪い芝居が最近の口語劇より古典劇に近いことは明らかだろう。
     そして、今なお読み継がれ演じ継がれる古典劇の多くがそうであるように、悪い芝居の本作も紛れもない悲劇である。
     恋人に去られた若い女が途方もない喪失感に呑み込まれて苦しさに身悶える、文字通り“身悶える”この劇が悲劇でなくていったい何であろうか?
     興味深いのはなぜ“今”このような劇が作られ、支持されているのかということだ。
     それは本作の主人公・底が抱えているような暗黒が、多くの日本人にとって他人事(ひとごと)ではなくなったからだろう。
     ネアカがもてはやされた80年代が終わり90年代に突入した頃、サブカルチャーの世界で“暗黒”がもてはやされたことはバルブと同世代の演劇ファンならご存知のことと思われるが、いま「もてはやされた」と書いた通り、そのころ“暗黒”は我々を蝕むリアルな敵ではまだなく、“面白いから”と金で買われる流行品だった。だからこそ、人や世界の暗黒をカタログ化した『危ない1号』のような雑誌が売れ、人や世界の暗黒をユーモアにくるんで描いた大人計画がウケたのだ。
     だが、大人計画が売れ始めて約20年、暗黒は笑いの対象にできるような“遠くの火事”ではもはやなくなり、ユーモアにくるんで描けるような他人事ではなくなった。
     市場原理主義が地球を覆いつくして世界規模での安売り合戦が起こり、労働者の賃金までが買い叩かれる昨今、近代国家が理性で抑え込んできた弱肉強食の世界が再来し、“富める1%”からあぶれた者は社会にコマとして使い捨てられる“消費財”として生きることを余儀なくされつつある。
     そんな絶望的な時代に暗黒を描き痛みを描く“悪い芝居”が現れたのは偶然ではないだろう。
     もとより、本作の主人公・底を苦しめているのは恋人の失踪であり、市場原理主義ではないが、底は恋人から、少なからぬ現代日本人は社会から見捨てられて“己の無価値”を感じている。生きるよすがを失って苦しんでいる点において両者は同じなのだ。
     自分を自分たらしめてくれるものを失った主人公が自分を取り戻すためにあがき、悶え、自壊する本作はまた、“自分探しの劇”、“自分探しの果てのアイデンティティ崩壊劇”という側面も持ち、その点において六、七十年代のある種の映画や小説にもまた似ている。
     映画でいえば『東京戦争戦後秘話』をはじめとする大島渚の一部の作品、小説ならば『箱男』『他人の顔』などの安部公房作品がそれにあたり、いずれの作品でも“自分探し”は重要なテーマだ。
     この時代に自分探しを主題とした芸術作品が目立ったのは、「実存主義」や「人間疎外」「自己疎外」といった言葉が多用された時代相と無関係ではありえまい。
     だとするなら、それから四半世紀以上を経た今また悪い芝居のような“自分探し”を描く集団が現れたのは、“人間疎外”がまた進み始めている証左なのではないだろうか?
     本作にはそういえば、労働というものが引き起こす“人間疎外”を描いたシーンがあったはずだ。世界の実相を分かりやすく描き出すため超リアリズムの手法を採るこの劇団の方針に従い、かなりデフォルメされて描かれたそのシーンは滑稽味さえ感じさせたが、失踪した彼氏のことを気に病むあまり仕事に身が入らない主人公を上司たちがいびり倒す場面で彼らがしていたことは“人間疎外”以外の何ものでもありえない。
     もちろん、“自分探し”の劇は80年代にも90年代にも00年代にもあったに違いなく、鴻上尚史などはこれら3つの年代にわたってそうした劇を積極的に作ってきたが、悪い芝居の“自分探しの劇”からは80年代以降の“自分探しの劇”にはない切実さ、のっぴきならなさが感じられる。
     自分を探してしっかり守り抜かないことには、再来した“弱肉強食社会”の荒波にさらわれてしまう! そんな危機意識がひしひしと伝わってくるのだ。
     この劇団が採用している、一見すると奇を衒っているかに見える斬新な“方法”に嫌味が感じられないのは、切実に訴えたい何ものかをこの劇団がしっかと持ち、それを表現するのに最適な方法として上の方法が不可抗力で選ばれているからだろう。その意味において、この劇団における内容と方法の関係、もしくは内容と形式の関係は極めて健全であると言える。
     やはり演劇は“内容ありき”でなくっては!
     方法に淫して内容が二の次になっているあの劇団やかの劇団は悪い芝居を見習うべきだ。
     

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    2013/09/13 12:31

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