I, Daniel Blake ―わたしは、ダニエル・ブレイク 公演情報 I, Daniel Blake ―わたしは、ダニエル・ブレイク」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.7
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    よく見ると本作はケン・ローチ監督の映画が原作。多作ではなく自分も2,3本しか観てないが、彼は炭鉱労働者や社会の周縁にある人々に焦点を当て、苦境にあっても力強く生きる姿を描く「イギリス映画の良心」と言われる(に相応しい)映画監督。

    今回の舞台も英国のとある地方都市で「生きづらさ」に直面する人々を描いた物語。主人公ダニエル・ブレイクは老境に差し掛かった、どうやら一人暮らしの男。心臓病の診断を受け仕事を止められるが、役所では就労可能と判断され、手当てを受けるためには就職活動をする必要があると指示される。この役所とのやり取り(闘い)が延々と続く事になるが、その役所での最初の場面で、彼はある母娘が役所の窓口と掛け合う光景を目にする。
    母は約束の時間に遅れた事を詫び、今日この町に来て、散々探してやっとここへ辿り着いた事、支給が無ければ万事休すである事を訴えたが、役人は「時間に遅れたため今月の支給は無し、来月来なさい」と回答し、曲げない。母は食い下がる。「自分だけなら何とかする、だが娘が居る、明日から娘は学校に行く。財布の中は、今これだけしかない、見て下さいホラ(と財布を開いて見せる)・・」。言葉がきつくなると役人は「穏やかでない言葉使いは貴方のためになりませんよ」と恫喝する(この台詞は後の場面にも聞かされる。誰がキレさせているのか!・・と観客である自分も頭に血が上る台詞だが、役人には罪意識がない)。
    ダニエルは見かねて声を掛ける。役人は悪びれもせず規則だけに従って市民の処理に当る。そして食い下がれば「言う事を聞かない不逞分子」として警察が呼ばれる。

    折々に、貧困に関するケン・ローチの言葉や過去吐かれた政治家のコメントが字幕に映される。社会に問題は起きていない、とする言説と、その言説に抗う言説の両方。
    かつてイギリス病という言われ方が低迷から脱せない英国経済を言う言葉としてあったが、画期となったのがサッチャー首相であり、米国大統領レーガンと相伴い新自由主義への大胆な転換が図られた、とされる。炭鉱労働者を切り捨て、貧困層と格差を生み出したが、これらに対し新自由主義は冷たかった。その大義名分は「改革」。忍耐の末には改革された社会が待っている・・。
    この芝居に描かれた役人の態度は非情で、怒りをかき立てるが、日本のそれとは異なると見えながら本質は同じかも知れない。
    なぜ規則を作り、これを厳しく適用するのか(手当て支給の間口を狭めるのか)、と言えば、お金を余計に出したくないから。これは彼らの非情な態度を裏付け正当化する理屈だ。
    ダニエルは「ハンコを押せば済む話じゃないか。今彼女の申請書にハンコを押し、彼女は金を受けとる。なぜその単純な事がやれないのか」と言う。だが母親はそれをとどめ、「事を荒立てたくないから」とダニエルの親切を拒む。役人の決定は覆らず、母子共々追い払われる事になる。借りたアパートの鍵だけ預かっているがその場所も判らないという彼女らに、ダニエルは道案内を買って出、これも母は固辞するが結局受け入れ、アパートに入るや、ゴミ溜めのような状態に唖然とする。電気は課金する金がないため通せない。全ては今日の支給を当てにしての算段で、娘には先に新しい学校で恥ずかしくない服を購入し、すっからかんである。僅かな希望にすがり、安い公共住宅にやっと当って遠方へ越して来たらこの有様、萎える母親に、ダニエルは捨てたもんじゃないさとゴミを片づけ始める。この日から母子とダニエルの付き合いが始まる。
    一方ダニエルの住む住宅には中国人の男がいて、中国本国で製造している靴の直接輸入で美味しい商売が出来ると息巻き、その最初の売り声、軌道に乗っているというエピソードがある。ゴミ捨てをダニエルに任せるような男だが、彼が困っている様子を見ると心配気に声を掛けて来る。この悪意のない隣人はイギリスの平均的庶民の空気を伝える。ダニエルは不服申し立てという手段に出る。申し立ての機会は担当する相手からの「電話」に応えるという形でしか遂げられず、電話はいつまで経っても掛かってこないと役所で訴えるも聞き入れられない。仕事を探す面接を幾つかやったと報告するが、その証拠は?と訊かれる。「今まで俺がこの口で言った事以外の証拠を出させられた事などない」と答える。
    母子を訪ねたダニエルが目にする断片にも、一つずつ変遷が見られる。心配になって訪ねるダニエルだが、母はダニエルの素朴な愛を「自分の惨めさ」ゆえに拒む。子供は学校で臭いの事を指摘され、変な服だと囃し立てられているようである。母はある慈善グループの会合で出会ったある人から「商売」の知恵を授かるのだが、ダニエルが訪ねた時、シュミーズ姿でベッド脇に座る母の姿を目の当たりにする。
    訪ねてこなくなったダニエルの家の玄関に、娘が座っている。利発な彼女は、私たちは友達、だから訪ねて来るのよ、と言う。
    厳しい現実の代わりに再び、新たに友情を手にした彼ら。ダニエルが切れるきっかけは、面接に訪れたある店の店長から「貴方を採用したい」と言われ、「実は自分は心臓を患っていて働けないのだ」と言うと、「お前はそういう連中の一人だったんだな。周りを見てみろ、皆自分の体を使って働いている。誇りを持ってる。お前らのような公金をくすねようとする狡い奴らが居るからこの国はダメなんだ」と罵られる。自分で選んだ訳じゃない。しかも、手当ては支給されない。その後の役所での女性の対応(面接の証拠がない、面接をしていないで手当てを申請するのは規則違反、違反には罰則が適用される事を覚えておいて下さい、等の説明)に「もうや~めた!」とダニエルは言い、役所の外の壁にスプレーで落書きをする。「私は、ダニエル・ブレイク。」
    ついに「不服申し立て」が認められ、証言を明日に控えた日、ダニエルは母にメモを渡す。明日読み上げよう思っている事を書いた。今日帰って目を通してチェックしてほしい。その夜、心臓発作で亡くなるダニエルブレイクは、声なき人々の手によって、静かに葬られる・・という冒頭見せたムーブが繰り返される。芝居はそこに辿り着いたのだ。そして母はダニエルが書いたその読まれる事のなかったメモを、読んで聞かせる。静かに暗転。

    ネタバレBOX

    米国の新自由主義はGAFAを生み出した。既存構造の受益者には苦難でも、国としてはそこから成長分野が生み出された。
    日本は公務員削減、公共部門の民間移行と弱者保護制度の規制緩和などで、企業の利益確保に有利な「改革」を進めたが、イノベーションにはならず既存構造をむしろ保護して延命させる「エセ新自由主義」であった。格差を広げる効果しか生まず、その「痛み」から産まれるはずの改革は、起こら(起こさ)なかった。自民党政権が「終ってる」理由はそれである・・らしい。
  • 実演鑑賞

    日本初演という今作。2016年に原作となる映画が公開され、その映画で主演を務めた俳優が自ら舞台版の脚色を担当し舞台化。その戯曲を用いた上演が新宿の紀伊國屋ホールへやってきた…という、やや珍しい経路。イギリスの社会福祉制度への批判や皮肉が多く含まれており、切実な貧困問題を描いている。舞台設定はイギリスだが、日本にも、そして多くの諸外国にも通ずる内容と言えるでしょう。

    ネタバレBOX

    心臓を患い、健康面を配慮して医者から復職を禁じられている(働きたくても働けない)高齢男性、適切な社会保障から排除されかかっているシングルマザーとその娘。この三人を中心に物語は展開していく。審査の厳格化や融通の利かない窓口担当など、日本の状況と類似する点が多いことも興味深い。

    そして、これは演劇作品としての感想ですが…、生活に苦しむ当事者に一向に寄り添おうとしない制度に業を煮やし、主人公がとる怒りの行動にやや拍子抜けしてしまいました。ただし、冷静に考えると、これは2016年に日本で起きた「保育園落ちた日本死ね!!」問題と類似しているのかもしれません。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2025/10/03 (金) 19:00

    シリアスな戯曲を丁寧に演じて緊張感のある舞台となっているが、翻訳劇特有の問題もありそう。(2分押し)68分(15分休み)57分。
     ケン・ローチ監督の2016年の映画(観てない)を、主演を務めたデイブ・ジョーンズが2023年に舞台化した作品を翻訳して本邦で初演。心臓発作を起こした大工ダニエルは、給付金の手続きに訪れた福祉施設でシングルマザー親子のケイティとデイジーに出会うが、官僚的な福祉制度は彼らを救わないのだが…、という物語。とてもタイトでシリアスな展開で、観ていて心折れる場面も少なくないし、イギリスの物語ながら日本でも似た話はありそうで、嫌な気分にもなろうかという舞台。救いは娘のデイジーの存在だが、それも最終的には救いになっていないあたりが辛い。ただ翻訳劇なので、イギリスの福祉制度の詳細や階級制に関する知識があると、もっと理解がしやすい物語だとも思い、翻訳劇ならではの問題点も感じた舞台だった。軸になる3人、葛西和雄・中山万紀・竹森琴美を初めとする役者陣の演技は見応えがあったし、照明が美しかったと思う。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/09/28 (日) 14:00

    座席1階

    イギリスと言えば「ゆりかごから墓場まで」の言葉に称される福祉先進国だが、サッチャー政権などを経てとんでもない状態になっているようだ。自己責任を掲げる新自由主義、それに伴う福祉予算削減。貧困対策としてのセーフティネットは形としてはあるものの、そこに容易に到達させない複雑な仕組み、さまざまなバリアを今作では嫌というほど見せつけられる。

    だが、これは我が国だってある。先刻最高裁が違法と断じた生活保護政策は、役人が恣意的に調査項目を扱って保護費を削減する根拠に仕立てあげた。役所の窓口が「まだ働けるはずだ。怠けている」などと申請者を追い返す水際作戦はあちこちである。それどこか、保護申請をあたかも税金の食いつぶしのようにはやし立てる世間の空気。これらは舞台でも描かれ、英国も日本も同じ状況だと分かる。
    原作者の執筆動機は怒りだという。そのやるせなさ、怒りのパワーが舞台からひしひしと伝わってくる。
    映画化はされていたが、これを日本初演で舞台化した青年劇場はまさに、面目躍如。この怒りを、自分は関係ないと通り過ぎようとする一人一人に見てほしい。深刻化する格差社会。誰もが転落する可能性はあり、けして人ごとではないはずだ。

    いい舞台だった。きびきびとした役者の動き、キレのいい演出もよかった。

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