家畜追いの妻 公演情報 家畜追いの妻」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.3
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    2回目。
    不在の老犬アリゲーターが気になる。
    役者陣、かなり細かい所作をプラスしているのが伝わった。

    2016年、この舞台はオーストラリアで大々的なセンセーションを巻き起こす。大ヒットした上、演劇賞を総ナメ。戯曲が文学賞まで受賞する初の事態に。映画化もされた。何故、今作がオーストラリア人にそれ程衝撃を与えたのか?それを考えるのも興味深い。

    日本での上演を当初断られたのだが、翻訳家・佐和田敬司氏の長年培った信頼と尽力で何とかここまで漕ぎ着けた作品。
    是非観に行って頂きたい。

    ネタバレBOX

    作品に合わせ観方を変えると更に面白く感じた。家族を守る為なら何でもするのが今作の登場人物の信念。家族こそが全て。アボリジナルも同じ哲学。「肌」は「部族」のことを意味し、「同じ肌」とは「同族」の意味。
    ウォークアバウト=アボリジナルの少年の通過儀礼。15、6歳位になると家族から離れ独りで旅に出ないといけない。半年程、独り荒野で生きてゆく知恵と術とを体得する。

    月船さららさんの破水シーンも必見。

    巨大な満月に照らされた美しい大木、吊るされたヤダカの死骸が風に揺れている。これは絵として見たいところ。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    オーストラリアの国民的作家、ヘンリー・ローソン。オーストラリア・ドル紙幣の肖像にも選ばれた程。『家畜追いの妻』という9ページの短編小説はオーストラリア人なら誰もが知っている古典。今作の作家、アボリジナルであるリア・パーセルはこの題名を敢えて使用してアボリジナル目線から物語を綴った。闇に封印されてきたもう一つのオーストラリアの物語。

    アボリジナル(オーストラリア大陸の先住民)。従来日本ではアボリジニと呼称されていたが、現地ではアボリジニは差別用語扱いらしい。アボリジナル独自の文化、ドリーミング(アボリジナルの人生観、世界観、民族としてのアイデンティティ=自己認識)。アボリジナルの世界観は時間と自然と祖先とが混ざり合った霊的世界で暮らすもの。アボリジナルは今尚精霊達と交流し互いにメッセージを送り合って生きている。

    主演モリー・ジョンソン役、月船さららさん。四人の子供を抱えた妊婦。劇団がオファーを掛けた意味が判る。今を必死に生きている存在。息絶え絶えに目をギラつかせて今日をどうにか生き延びる獣。肩に掛けたマルティニ・ヘンリー銃。欲望と暴力だけが支配する土地で女手一つ子供達を一人前に育て上げねばならぬ。口ずさむ歌が最高。皆忘れてるかも知れないが元宝塚女優、辞めなければトップ確実とまで言われていたエリート。

    アボリジナルのヤダカ役、筑波竜一氏は千葉真一の弟、千葉治郎(矢吹二朗)っぽいかも。渡瀬恒彦風味も。鎖の付いた首枷をはめられたまま何処かから脱走してきた原住民。生きてゆく方法、生きてゆく意味を知っている。

    不在の夫、ジョー・ジョンソン。雇い主から預かった家畜の群れを安全に生活させながら長距離移動させるのが仕事。羊が放牧地の草を食べ尽くしたら次のパドック(屋外の放牧地)に移動させる。長期間、家を空けることになる。

    モリーの息子、ダニーは根本浩平氏。ヤダカに憧れる。
    浮浪者トマス・マクニーリ役、大久保たかひろ氏は適役。カウボーイハットにスタッズを吊るすセンス。
    行商人ドナルド・マーチャント役、佐京翔也氏は水を得た魚。虫歯の抜歯からのいい流れ。
    レズリー巡査役、駒形亘昭(のぶあき)氏。
    家畜追い仲間、ロバート・パーセン役、岡本高英氏はまさにリアルな荒くれ者。とても話が通じそうにない。お手上げだ。
    同じく家畜追い、ジョン・マクファーレン役、井上覚氏。反吐が出るキャラ設定に徹する。

    アフタートークで翻訳家であり、早稲田大学教授、オーストラリア演劇研究者の佐和田敬司氏の話が興味深かった。民族のアイデンティティは目に見えない部分にこそある。そここそが重要、核となるのは精神性。

    本物の手斧を小道具で使用している。重々しい。
    きびきびとしたスタッフの西本さおりさんが印象的。
    佐和田敬司氏翻訳のオーストラリア演劇シリーズは必見だと思う。これは鉱脈を掘り当てた。劇団俳小の看板になる。もっと広く世間にアピールすべき。知れば興味ある人は必ずいる筈。何故今これを観るべきなのかを論理的に伝えなければいけない。
    是非観に行って頂きたい。

    ネタバレBOX

    『みんな鳥になって』もアイデンティティの物語だった。自分が自分である根拠、所以。敬虔なユダヤ教徒のユダヤ人一家に生まれた主人公はアラブ人の恋人と結婚したい。家族にそれを許して貰いたいが、拒絶される。宗教だの民族だの歴史だの伝統だの下らない戯れ言。自らのアイデンティティはそこにはないと思う。ユダヤ人であることに誇りを持っていた父は実は赤ん坊の時盗まれたアラブ人だった。ユダヤ人として育てられただけ。そのことを知った父は壊れてしまう。アイデンティティ・クライシス。自分が自分である根拠を失った。自分の拠り所の何という脆弱性。そこで皆アイデンティティを探す。自分が生きていく為の心の地図を。自分という存在のしっくりくる生き方を。自然に在るべき姿を。

    今作ではモリーが自分の出自がアボリジナルであったことを知り、いろいろな謎が解ける。孤独だと思っていた自分の生き様は祖先達がずっと見守り共にあったことを。アイデンティティは道しるべ、ずっと精霊達が道を照らしてくれている。自分は独りではなかった。

    演出が振り切れていない。シリアスでドロドロなものが観たかったが何処か中途半端。アメリカの90's 西部劇っぽい軽さ。何か時代と地域の閉塞性、重圧やストレスが感じられない。踏みしめる大地の砂埃。日々の生活の苦々しさ。物語が転調する一番重要な場面、家に踏み込んだ巡査を殺してしまうくだりが段取り芝居。これではしらける。

    演出の山本隆世氏は今作についてかなり口ごもる。いろんな制約があって自由にやれなかったのだろう。ブラックフェイス(黒人ではないものが黒人風にする舞台化粧)をしなかったこともその一つだろう。自分は敢えて今作こそやるべきだったと思う。この物語を的確に伝えるには必要な効果。高度に差別の概念を弄ると逆効果になる。(精神性の過剰な押し付けは作品を台無しにする)。モリーの母親、二人の赤子を抱くブラックメアリーがタイトルロールで登場する。(演出助手で今作に関わっている諸角真奈美さんか?)彼女だけブラックフェイス。だが作品としての効果はてきめん。作品イメージを司るイコン。物語にとって視覚効果は重要。まず観客に作品を誠心誠意提供すべき。物語にのめり込み興奮高揚したからこそ作品を愛す。全てはその後のこと。その前にぐだぐだやるとフェミニストの演説みたいで味気無い。全ては観客のものだ。肌の色の違いこそ、当時の世界を司る極めて単純なルール。その虚しさ、無意味さをも表現すべき。(トランスジェンダー〈性別と性自認が一致していない人〉を巡る競技についてのトラブルも同様な混乱)。

    レズリー巡査役、駒形亘昭氏の場面はコントっぽい。作品世界との違和感。アフタートークの司会は絶妙だっただけに不思議。もっと暴力的で感情的な演出が合ったのかも。
    井上覚氏のSEXはもっとリアルな方がいい。観客を心底どんよりとした気持ちにさせるべき。本当、今後顔を見るのも嫌な位トラウマにして欲しい。

    ※月船さららさんの歌った曲が今も脳裏に流れる。
    スコットランド民謡「Black is the color of my true love's hair」。

    黒は僕が心から愛する彼女の髪の色
    彼女の唇は美しい薔薇の色
    誰よりも愛らしい顔と優美な手
    彼女が立つこの土地が僕は愛おしい

    ※The Corrsの『Black Is the Colour』がカッコイイ。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    今春の「血の婚礼」に続いての翻訳劇で、前回同様に、日本人には少し想像しにくい他国の社会背景が強く顕れたストーリーで、上演する上で難しいところもあると思われるが、また、うまく構成された物語という感じでもない台本かなとも思うが、うまく雰囲気を創り出していた。劇中の歌は、オーストラリア的なものなのかどうか不明だが、ストーリーにうまく絡む良い歌であったし、斧を切り株に刺したり、ちょっとだけ出てくる役柄も手抜き無くインパクトがあって、演劇として楽しめる演出が施されていると感じられた。

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