叙情詩劇【失楽園】第一部「ゲットー」 公演情報 叙情詩劇【失楽園】第一部「ゲットー」」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.5
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     今作は全三部作の第一弾。第二部(mother)は6月に、第三部(天国の朴)は7月に、三部作一挙上演は8月に予定。何れも東京での公演になりそうである。劇団は現在長野県飯綱町を拠点に活動、今回は1回ワンステージのみの公演。
    板上は基本的にフラットだが丸椅子が矩形の空間のほぼ四隅に置かれている。内1つの空間には音響等効果用機材や操作器具も整えられている。この対角線上の椅子には狂言回し(ナレーターと言った方が分かり易いか)が座す。中々骨のある良い劇団である。何より表現する者として自問し続けて来た姿勢が良い。それは今作脚本の独自性や、演技の質、台詞内容の一々にも端的に現れている。座長は無論のこと、他の役者陣の演技力も可成り高く台詞の謂わんとすることをキチンと汲み取り身体の総てを用いて上手く表現している。(追記後送)

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    入場無料投げ銭制。
    この公演は、叙情詩劇【失楽園】として第一部「ゲットー」第二部「mother」第三部「天国の朴」の三部作を3か月連続で上演し、8月には三部作の通し公演を予定しているという。謳い文句は「命を冒涜する生き方へ問いかける」と言ったところ。

    物語は、時代や場所を錯綜させ 人間と社会の関わりを重層的に描き出す。人間の無知や傲慢等といった愚かしさ、その結果 社会は混乱・混沌とし世界は滅んでいく、そんな警鐘を鳴らす。一見、アングラ演劇のような 反体制運動や反商業主義が根底にあるような錯覚に陥る。何もない空間に 壮大にして独特な世界観を創り上げている。それは絵空事ごとではなく過去の悲惨な出来事を出発点にしている。

    全体として 描き伝えたいことは解かる。場面と場面の繋がりは断続し、しかも入れ子のようであり劇中劇といった観せ方で、脈略を捉える(追う)ことが難しい。しかし逆に言えば、物語の混沌とした世界観は、舞台ならではの面白さとして感じることが出来る。少しネタバレするが、素舞台(丸椅子3つ)で役者4人(女優3人、男優1人)がその演技力で幾つもの世界を築いていく。しかも女優のうち1人は、交代で舞台技術(音響や照明)を担当する。世界(物語)の違いを表すために舞台上で瞬時に着替え、違和感なく次の場面へ、そして新たな人物像を立ち上げていく。その演技力は見事!
    (上演時間2時間 休憩なし) 

    ネタバレBOX

    無政府状態に等しい混沌とした風景を切り取り、或る社会の裏面史を生活者の目線から見た批判・感覚劇。場景を断続しながら紡ぎ、不思議な構図 その階層を築いていくようだ。

    時は近未来。ランとスーは「motherの後継者」として無限の次元を冒険している。今の次元は2人で演劇活動を行っている。生と死を消費している世界において、市民1人ひとりの人生は社会に適応出来なければ隠遁しろと迫る。現実を見れば、mee too運動やコロナ禍 騒動など、全体正義の同調圧力に苛まれている。スキャンダルやハラスメントの告発は、それ自体深刻な問題であるが、それがSNSやメディアにかかれば正義というエンターテイメントによって陳腐なものになる。ハラスメントの告発は正しくても、セカンドハラスメントは卑猥で好奇に晒される。

    一方、富士山の裾野に広がる青木ヶ原の樹海では、政府の人間再生施設「ゲットー」が開発され、人々は 社会で生きるか、死のどちらかを選択する「再生プログラム」を受けていた。そこに居るMとラン、スーとの出会いを通して生とは何かを考える。究極の選択は、ある意味 戦時中であり倫理感の欠けた自己中心的な考えであり行為。生きる者は強者であり 死を選ぶ者は弱者、まさに資本主義社会の構図に近い。ここでは反転した世界を描こうとしているようだ。争いの果てにある「核」は全てを滅ぼすといった警鐘を鳴らす。

    物語が展開するとメタメッセージのような。場景を交錯というか入れ子のように描くため、何を訴えているかを考えながら筋を追うことになる。いや 逆に筋を追いながら考えている。鮮やかに区切られていく時間と情景ー今の次元 2人の演劇活動では、劇中劇のような様相の中で 社会の問題を点描している。ハラスメント・me too運動そして倫理感の欠如などの連鎖と拡散、その先の見えない不気味さ 怖さ。その言い表し方が難しい世界観、それを役者4人が熱演していた。
    次回公演も楽しみにしております。

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