『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』再々演ツアー2025 公演情報 『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』再々演ツアー2025」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.3
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    CoRich舞台芸術まつり!2024GP作でもある『べつのほしにいくまえに』にも通じる、やりきれないこの社会でなんとか明日を生きるために、できたら他者と共に生きるために居場所をつくろうとする人々の物語。

    以下ネタバレBOXへ

    ネタバレBOX

    時がコロナ禍ということもあり、あの頃は一際それが困難だったこと、そのことにより体は罹患せずとも心を闇に追いやられがちだったことを生々しく思い出す。虐待やグルーミングによるトラウマや希死念慮...様々な理由によって心に傷を負った人たちは『サロメ』の読書会を機に演劇の上演を試みる。医療・介護機関や企業など様々なところでケアや相互理解の文脈で演劇が運用されることはあるが、本作はそのリスクも掬っていたように思う。「演劇」というものが心身に与えるショック、登場人物にエンパシーやシンパシーを抱くことがもたらす心的影響や負担。ケアの物語の側面を大いに持ちながら、「演劇の凶暴さ」が念頭に据えられていることに私は深い信頼を寄せた。

    一方、登場人物の大半に自身の生い立ちや心中を語る場が用意されていた中、学生と不倫関係にあった年配の講師の女性だけがそれらを自身の言葉で話す機会が与えられなかったことについてもいつまでも考えていた。『サロメ』に準えるならばそれは自然であるし、彼にとって彼女は加害者で、彼女を信じていた人々にとってはたしかに裏切り者であるので真っ当な判断でもある。ただでさえ傷ついているあの場の人々をさらに傷つける言葉が必要だとも思わない。だけど、それでも私は彼女の言葉が聞きたかった。「不倫させられていた」と主張する彼が学生である以上彼女の罪は重い。だけど、それすらも彼女の口から語られなかったことについて私は考え続けてしまった。女性から男性へのグルーミングや性被害やハラスメントがきちんと扱われた戯曲に意義深さを感じるとともに、あの二人にどんな被害と加害が、そして依存あるいは共依存があったのかを私は知りたい。知りたいから想像をする。教師と生徒の不倫という出来事にのみ回収しないように想像をする。そうしているうちに、きっとあの場にいた人々も家に帰って一人になってからこんな気持ちだったかもしれないな、と思った。本当は誰だって他者の存在をよすがに生きるなんてしたくない。だけど、ついやむにやまれず救いを求めてしまう。祈りを見出してしまう。あの光景が、この体感が伝えていたのはそういうことだったのかもしれない。そうしてやりきれないこの社会でなんとか明日の前にまず今日を生きるために。
  • 実演鑑賞

    021年初演(未見)、2022年の再演を経ての再々演は、長野、大阪のツアーを経て、初演と同じ神奈川県立青少年センタースタジオHIKARI。5月11日まで130分。三演とも同じキャスト、作演というのも珍しい。

    https://kawahira.cocolog-nifty.com/fringe/2025/06/post-04d85f.html

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    コロナ禍で緊急事態宣言が出されていた頃、一生苦しみ続ける心の病を抱えた者達を集めて戯曲の読書会をする鬱病の劇作家。『人形の家』、『三月の5日間』、『サロメ』。段々盛り上がって来たメンバー達は『サロメ』を舞台として人前で上演することを決める。

    まずは現在2025年5月、登場した大川翔子さんが観客に語り掛ける。これは2020年7月から2021年12月の話だと。今となっては過去となった日々のことを思い返しているのだと。

    コロナウイルス変異株の名前は差別や偏見に繋がらないように意味のないギリシャ文字の順番に付けられた。アルファからゼータまでの6人は順番通り。語り手の主人公だけは最後の文字、オメガを名乗る。

    フォーマットが『コーラスライン』っぽい。
    凄く観易く工夫されている。うんざりする意識高い系のスカした討論を危惧していたら全く違った。配役が見事、皆役者とは感じさせずに自然とそこにいる。その自然な存在感こそがテクニックだと終演した後、改めて唸らせる。皆さん歌が上手い。舞台上手でずっとキーボードを弾く作曲の後藤浩明氏。複数の役者が奏でる謎の楽器、ウォーターフォン。鍋の蓋に塞がれたフライパンのような器具、真ん中には水を入れる金属の筒。要は平べったい金属製のフラスコ。その円周上にアルミや真鍮の棒を複数立て、弓で弾く。ホラーの効果音に最適。

    主演のオメガ役大川翔子さんは誰かに似てるなとずっと思っていたが、BLUESTAXIの鈴木絵里加さんか?
    アルファ役三澤さきさん、ガンマ役榊原美鳳(よしたか)氏は役者に見えずもう本当にそういう人に見えた。
    ベータ役前原麻希さんは歌のシーンで魅せる。
    デルタ役KAKAZUさんはビョーク系の顔。センシティヴでナイーヴなキャラだが演技に入った途端、ガチ・サロメに豹変、客席が沸く。ニッチェ江上のネタみたい。
    ゼータ役海老根理(おさむ)氏は元ジャンポケ斉藤っぽいハイテンション。
    劇作家イプシロン役伊藤昌子さんがキーパーソン。作者オノマ・リコさんをダブらせるように描かれている。

    いろんなことに負けてしまった連中。死んで物語を終わらすことも選べず、つまらない毎日を続けていくしかない。とっくに終わってしまった話なのにまだだらだらと続けている。その先に何があるわけでもない長いエピローグ。19世紀英国、社会主義者アーティスト、ウィリアム・モリス「人はパンがないと生きていけないが、パンだけでなくバラも求めよう。生活をバラで飾らないといけない」。バラとは何か?

    各問題の当事者同士で自助グループを形成し、悩みや苦しみを共有し分かち合うシステムがある。昔自分もアルコール依存症の治療を調べ断酒会を知った。結局行かなかったが参加したらどうなっていたのか?今作は自分がそんなグループに関わったシミュレーションのように観た。集団精神療法の一つにサイコドラマというものがある。自分という役を演じる過程で自分というものを客観的に認識させていく。

    宗教でも精神医療でもとにかく人に話を聴いてもらうことが重要。人間は誰もが自分の胸の奥底に溜まった感情を吐き出したがっている。そんなこと話して一体何になる?と思いながら、整理出来ない言語化出来ないモヤモヤを全て反吐のように吐き続ける。それでヘトヘトになって精神の均衡を保つのだろう。カール・マルクスは「宗教は阿片である」と断じた。その場しのぎの現実逃避であり、実際の問題の解決には至らないと。全くその通りだと思う。そう、皆欲しているのは阿片なんだ。とにかく今をやり過ごしたい。今さえやり過ごせれば後のことなんかどうだっていい。後でまとめて後悔してやる。

    自身も含めた全ての苦しむ人々に作家(オノマ・リコさん)は自分の知る対処法を告げる。生きることは無意味だが死ぬことも無意味。無理して生きることはないが無理して死ぬこともない。あるがままに。

    Nirvana 『On a Plain』

    あと一つ何かそれっぽいメッセージを付け加えて
    それで終わり、やっと家に帰れる

    自分自身を愛するんだ、他の誰よりも
    それが間違ってることは知ってる、でもどうすりゃいい?

    俺は平原の上
    文句なんか言えないんだ
    平原の上で

    オノマ・リコさんのやろうとしたことにRespect。こんなもの誰がどうやったってどうにもならないジャンル。そもそも誰も救えない。でも何かやろうとした。何かやりたかった。その足掻きが意味を生み出す。

    アフタートークのゲスト、精神科医の劇作家・くるみざわしん氏の話が興味深かった。秋に中野MOMOで精神病院の勤務時代から封印していた闇を到頭舞台として発表するとのこと。これは観ないと。

    ネタバレBOX

    アイディアとして素晴らしいのは「時間を巻き戻す」こと。ベータに劇の出演を皆でお願いする。それでも断るベータ。激昂したオメガは顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。オメガは自分が正しいと認識している事柄への執着が激しい。それを拒絶されると自我が保てなくなりパニックを起こす。この揉め事で公演自体が中止となる。
    そこでオメガは「時間を巻き戻す」ことを観客に提案する。もっと別のやり方を選べれば公演は行えたのではないか?もう一度過去のシーンをやり直す。ベータに「出演しなくてもいいからアイディアを出して演出に加わって」と。ベータは「それならば」とOKする。
    インカ帝国の太陽神インティを思わせる仮面に棒を付けた人形で表現するヘロデ王は秀逸。
    ラスト、全てが崩壊した後、不意に歌い始めるゼータに『ラ・マンチャの男』に似た感慨を。やはり歌しかないのか。

    途中まで非常に昂揚して観ていたが、クライマックス前辺りから停滞。『サロメ』の内容が本筋と関わらない(登場人物の誰が嫌いか?ぐらい)のも勿体ない。最後の喧嘩も無理矢理っぽい。そんな伏せられていた事実の提示ではなく、「本当はあんた達なんかずっと嫌いだったんだよ!」ぐらい身も蓋もないどうしようもなさで良かった。人間関係を築いては全部ぶち壊し途方に暮れる感覚。それでもあの頃のことを今も思い出す的な。無駄で無意味な日々こそが生きていた証。

    アフタートーク、若きくるみざわしん氏、リストカット症候群の患者に「それで心が安定するんなら切ってもいいんだよ」と肯定する言葉を先輩にアドバイスされる。だが診療の際、患者を前にしてなかなかそれが言い出せない。頭では判っていてもどうしても口に出せない。
    このエピソードから連想したのは「森田療法」。それは森田正馬(まさたけ)によって創始された神経症の精神療法。「とらわれ」や「はからい」から逃れ、現実をそのまま受け入れ「あるがままに」生きることを提唱。先入観や常識、こうであらねばならぬ正しい生き方みたいなものを「とらわれ」と呼ぶ。自分を正当化する為に色々とつく嘘を「はからい」と呼ぶ。自分に嘘をつかず、ありのままの自分を受け入れること。この考え方はそのままゴータマ・シッダッタの説いた原始仏教に通ずる。
  • 実演鑑賞

    満足度

    鑑賞日2025/05/11 (日) 16:00

    座席1階1列3番

    価格4,000円

    あまい洋々の結城真央氏がいう「「とある現実」を材料にして、ルポやドキュメンタリーなどノンフィクションとして世間に出されること、ドラマや小説などフィクションとして世間に出されること、どちらにも搾取性や暴力性」をこれほど感じる作品もない、と個人的には感じた。
    過去に親や大人に虐待を受けたりいじめにあって心を病んでしまっている人、あるいはそれに近い経験があった人にはオススメできない。逆に、そういう人たち(虐待サバイバー)に「かわいそうな人」と同情の目を向ける人、もしくは「確かに不幸なことはあったがいつまでも過去に囚われて乗り越えることができない努力が足りない人」と批判的な目を向ける人ならば、この話はとても理解できるし、納得のいく素晴らしい劇に見えることだろう。
    とはいえ、中庸な発想が自然にできる人ならば、「言いたいことはわかるけど、そういうもんだろうか」という違和感は感じてくれると信じたい。

    ネタバレBOX

    「こうあるべき」というのに散々タコ殴りにされて病気になった人のことを劇中で、優しくしているつもりで実はさらに「こうあるべき」でタコ殴りにしている劇です。
  • 実演鑑賞

    生の伴奏、数々の歌、繊細な描写。
    観終わった後に、椅子から立ち上がるのが一苦労(余韻にやられて)ってのは、今年二回目。
    ただ、絶賛もおすすめも、あえてしたくない……とゆうか。そういう評価するみたいなのが似合わない芝居だと思った。
    強制力じゃなくて、自然な形で、出会って欲しい芝居とゆうか。

    ネタバレBOX

    物語の構造が意外とミステリー的でして。
    まず、目の前の集まりがなんなのか。
    そして、最後に一つの事実が……っていう。
    そこが見どころじゃないけど、効果的でした。

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