おかえりなさせませんなさい 公演情報 おかえりなさせませんなさい」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.6
1-8件 / 8件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    コトリ会議らしいチャーミングなパペットやその見た目に呼応したコミカルなやりとり。あるいは温かな灯りに照らされた趣深い純喫茶での日常。そうした柔らかな手触りの始まりからは全く想像もできない展開、劇世界へと誘われる、狂気と脅威の物語であり演劇であった。

    ネタバレBOX

    同時にそれらには「決してこの世界では起こり得ないとは思えない」といった生々しさがあり、終始胸を騒つかせ続けられる作品であった。愛らしい言葉の裏面にあるリアルでグロテスクなディストピア。ファンタジックな印象や情報を与えつつ、ファンタジーを全く描かないというその姿勢に作家の、そして劇団の覚悟を見るような思いに駆られた。タイトルにもまた同じことが言えるのではないだろうか。幼い子ども言い間違いのようなその印象は、観終わった時反転した鋭利さを以て心を襲う。「おかえりなさい」をさせません、と、「おかえりなさい」をなさい。この二つの言葉の組み合わせは、「自己を損なわず兵士になるか、自己を奪われ不死身になるか」という究極の選択を強いられた家族の帰る場所のなさと、されども帰る場所を求めるやるせなさが忍ばされているように感じる。家族というもの、家という場所がもたらす、ある種の「帰巣本能」というものについても、考えさせられる作品だった。

    舞台となる近未来の日本は、もう今が何度目かの世界大戦かも定かではないくらい戦争が日常と化している。父・三好(大石丈太郎)、母・水(花屋敷鴨)、長男・椋尾(吉田凪詐)、長女・飛代(三ヶ日晩)、そして次女で末っ子の愛実(川端真奈)。5人家族の山生家が常連である純喫茶「トノモト」で家族会議を展開する。その議題は、飛代とその夫・一永遠(山本正典)が人間とツバメが合体した謎の生物「ヒューマンツバメ」になるという決断についてだった。この世界において、「ヒューマンツバメ」は徴兵を逃れる一つの手段であり、しかもほぼ不死身の身体になることを意味しているが、引き換えに記憶の7割が犠牲になる。その選択を巡って、家族がそれぞれの思いが交錯していく。そのことと同時に、子どもたち3人の間に性愛を巡る三角関係が渦巻いていることがぼんやりと知らされていく。時折カットインする、ツバメたちが口移しで餌を分け合うシーンがその手触りを生々しくさせていく。

    戦争に行く立場と行かせる立場、あるいは行かせたくないとする立場。「誰の命を、あるいは記憶を犠牲にすべきか」といった命題を様々な角度から照射していく家族の会話が素晴らしいのだが、その家族を一歩外から見つめる白石(原竹志)の存在感がまた本作の大きなキーとなる。彼は、すでにヒューマンツバメになった側の元人間として、それがいかなるものかを家族たちに、そして観客に訴えていく。ある種のグルーヴから独立した非常に難しい役どころだが、時にコミカルに、しかしそのコミカルの積み重ねが至極シリアスに結びつくような白石の表現力は本作の主題の切実を物語っているようでもあった。

    一方で、近親内での性愛の描写に対する消化不良感がやや否めず、生理的嫌悪というのではなく、複雑に交錯する愛情の矢印が一体何であったかを知りたいという気持ちになってしまった。要所要所に入るツバメの兄妹間の咀嚼行為にそのヒントが隠されているとは思いつつも、動物の戯れに回収されてしまうことで肩透かしをくらった感触が残った。愛情と性愛の境目というテーマ自体にはむしろ心を引かれたので、その詳細を追い、それがこの物語の根底でどう繋がっているのかを知りたいという思いに駆られたのだと思う。

    しかしながら私は本作の核となっているのはやはり戦争問題。今世界で起きている様々な戦争に明確に意義を唱えた作品であると捉えた。そのことの意義はやはり大きく、それを独自の世界観の中で描き切ったことに本作の強度が示されていると感じた。近未来を舞台に描かれる、すぐそばにある戦禍。人間の身体とその生命に備わっている記憶、その「価値」が揺らぐ世界。「人間が人間でなくなっていく」その様にAIをはじめとするテクノロジーの侵食をもが浮かび上がる一面も興味深かった。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    失われる記憶、失われる場所

    ネタバレBOX

    コトリ会議『おかえりなさせませんなさい』は、伊丹アイホールでの初演時にも拝見していて、今回の再演では、作品そのものの強度はもちろん、受け取る自分の立ち位置が変化していることにも気づかされました。

    初演時は、アイホールという空間の記憶と切実さが作品にあるような、まもなく閉館を迎える劇場で、「帰ってくる場所」が失われていくこと、家族がばらばらになり、ツバメが巣を離れ、二度と戻れないかもしれないという感覚。それは、これまで公演を重ねてきた劇場、これまで観劇してきた場が無くなっていくことへの切なさと、静かに重なっていたように思います。

    再演では、台詞のテンポがやや速く感じられましたが、それは僕が伊丹に置いてかれていたのかもしれず、照明は相変わらず丁寧で、場面を象徴的に表現しながら、記憶と現実を行き来するような舞台世界に奥行きを与えていました。

    白石礼を演じた原竹志さんも印象的でした。作品の理屈を語る人物でありながら、そこに生きている一人の人間としての寂しさや孤立が滲み出ていたように思います。微細な間の取り方に、誠実な俳優の姿勢が感じられました。

    いけないと思いながらも初演と比較、混在する評になってしまう。それは本作が、あまり縁のなかった劇場と僕との数少ない思い出そのものだからだと思います。この作品について語る時、あの劇場で観たことを語るのです。

    失われる記憶、失われる場所。それらが喫茶店という小さな場所に持ち込まれたとき、僕たちはある種の“日常”としてそれをどこまで引き受けられるのか。終演後にその空間を後にするとき、残っていたのは、滑稽さでも絶望でもなく、ほんの少しの寂しさと、やわらかな余韻でした。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    冒頭、客席の頭上からツバメが渡ってくる。ツバメは同じ場所に巣をつくりつがいで子育てをすることから、「家族」の象徴として創作物に登場することが多い。また、渡り鳥なので「帰郷」や「回帰」の象徴としてもよく扱われる。

    ネタバレBOX

    舞台は、とある家族の思い出の喫茶店。母が「メモリー」と口にしながら家族の思い出を語ります。そんな家族のメモリ(記録)が刻まれた場所で交わされる会話は、人間とツバメをかけあわせた存在であるヒューマンツバメになるかどうか。ヒューマンツバメになると家族のメモリ(記憶)が消えてしまう。そんな思い出にまつわるやりとりは、家族というものは何なのかを問うと同時に、人間とは、存在とはなにかを問うてくるようです。

    人間とはメモリの蓄積なのでしょうか。愛とはメモリが無くなれば消えるのでしょうあか。──そういった問いは数々のSFで描かれていますが、コトリ会議の特徴と魅力のひとつが、劇中に何度も登場するツバメの兄妹(パペット)のやりとりにあるように思います。コトリ会議ではこれまでの作品でも、たとえばセミになった時には俳優の頭にセミのフィギュアを乗せていたことを思い出しました。
    今回の2羽のツバメは、兄妹というにはあまりに密接な繋がりを感じさせ、見た目はかわいらしくもどこか気持ちの悪さ・不安さを漂わせています。さらにヒューマンツバメは、俳優が羽を背負いくちばしをつけています。パペットや着ぐるみの登場は、不条理にコミカルが加わり、しかしシニカルで、そして不穏です。
    そんな不穏なSFで、家族の愛が描かれています。しかし愛というには不穏すぎる。メモリをめぐる家族の会話が交わされるうち、互いに愛情のような歪な愛憎を抱えており、誰もがそこを曲げきることができないことが浮き彫りになっていきます。戦時下という作品背景のなかで、そこには個の実感や愚かさや愛しさがありました。

    ツバメは、「再生」や「希望」の象徴とも言われます。
    ツバメに未来をゆだねるヒューマンツバメは、人類の希望でもあります。
    しかし、ヒューマンツバメはメモリを消し、あらたな存在として再生するのです。
    鳥のように空を飛ぶ戦闘機が破壊をおこなったすえにある再生は、誰にとっての希望なのでしょう。戦争ののち、彼らはいったいどこに帰郷するのでしょう。

    記憶、家族、アイデンティティ、戦争、いくつもの愛──様々な要素が想像力を広げてくれる一方で、すこしごちゃついた印象もありました。ヒューマンツバメひとつとっても、羽とくちばしをつけて耳がのびて高い戦闘力を持ちスタンプカードを集めているという盛りだくさんな存在です。さらに展開としても、理屈で追えば無茶に感じさせるところもあります。しかし、俳優たちのフィクションを信じさせる力に引き込まれました。戯曲が持つ何層もの深みが、コミカルな作風と手触りのある俳優らにより、独自の世界へと構築されていく。そして説得力と集中力を持続させる劇団の総合力には大きな安心感がありました。「この脚本をほかの団体が上演したらこうはならないだろう」ということは、強い魅力です。

    キビるフェス参加作品のため九州で上演されるという時に、ホームではない観客のために「近隣のおすすめスポット」や「遠方割:1,000円」を設定していたことがありがたかったです。全体として自分たちの公演の客席にいる観客の顔を想像している姿勢に、劇団としての蓄積を感じました。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    人類は種の弱さと個体の弱さの両方を背負えるか

    ネタバレBOX

    繰り返し強調される「メモリー」、親には徹底して敬語を使う子どもたち、歪な感情が見え隠れする兄妹、なぜかいつも店主のいない空っぽの喫茶店。言いようのない不気味さがたちこめる。客席から見えている上演と聞こえている台詞の意味内容の乖離の演出がコトリ会議の利き手であるが、本作は劇中劇のツバメのパペットがそれらの乖離を有機的に繋ぎ、一層多面的かつ力強く鑑賞者の想像力を組み換えていたのではないだろうか。隣の人は笑っているのに、私は笑えない(その逆も然り)状況が生み出されている客席には鑑賞の緊張感があった。

    「山生水」を演じる花屋敷鴨さんの、狂気を目にたたえた母親の演技が印象に残った。台詞を発する少し前に感情が少しだけ先走り、かつそれを飲み込んで揺らぐあの表情は、表出する感情は穏やかだが振る舞いに違和を生じさせる母親である山生水の人格を的確に捉えた演技だったように感じた。

    戦禍を生き延びる強い身体を手に入れたたヒューマンツバメが、命を賭して集めるのがポイントカードなのが皮肉。不死の身体の快楽は生殖にも自己実現にもない。「寂しい」「置いて行かれたくない」という人間の根源的な個体としての弱さに対して、ヒューマンツバメは記憶を消すことで抗い続ける。空を飛ぶツバメにとって最も遠い存在が、死んだ母が跡形なく消えていった地面なのだとしたら、既に戦闘機を手に入れた人間にとって最も遠い存在はどこにあるのだろうか。とりとめなく去来する家族という他者の記憶が、最も触れられず遠い存在なのだと感じた。
    客席の高さと客席数、客電照明の暗さ、舞台面との近さの問題だと思うのだが、第四の壁が強く意識されてしまった点は少し残念に感じた。戦禍の日常に触れているからこそ、SFとはいえ、身体感覚として客席と滑らかに地続きであってほしかったと思う。


    (以下、ゆるいつぶやき)
    コトリ会議の上演には、ヨルゴス・ランティモス監督の作品を想起させる喜劇性を感じます。作画や画作りがどうなったっておかしいのに、そのおかしさが明確に言語化できないまま、揺蕩うままに時間が過ぎてしまう。気付いた時には引き返せない。没入と突き放しのバランス感覚が見事だなと思います。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「追い詰められた家族の選択」

     「CoRich舞台芸術まつり!2024春」で準グランプリを獲得した連作短篇上演『雨降りのヌエ』から間もなく、2024年12月にAI・HALLで初演された新作長篇の福岡公演である。

    ネタバレBOX

     舞台は幾度かの世界大戦を経て空襲警報が流れるような日々を送る近未来の日本である。山生家の行きつけの純喫茶「トノモト」で父の三好(大石丈太郎)と母の水(花屋敷鴨)、長男の椋尾(吉田凪詐)は、長女の飛代(三ヶ日晩)から、自分と夫は人間とツバメの合成生物「ヒューマンツバメ」になると告げられる。無限に近い寿命と硬い皮膚を持つヒューマンツバメは生き物の理想形だが、人間だった頃の記憶の7割を失うことになってしまうのだ。驚きを隠せない家族3人が飛代に意見するところへやってきた夫の一永遠(山本正典)は、ヒューマンツバメになれば徴兵を拒否することもできるうえ、自分に原因があるため子どもができない一永遠にとってせめてもの罪滅ぼしになる、これから可能性のある飛代には人間のままでいてほしいのだと苦しい胸の内を明かす。市役所でヒューマンツバメの登録用紙を受け取った一永遠を尾けてきた白石礼(原竹志)は、ヒューマンツバメになった立場からいかに人間のままでいることが危険であるかと語り、徴兵拒否が目的であれば妻帯者である一永遠が独身の椋尾に委任すればすべて済む話だと告げるのだった。

     ようやくやってきた末妹の愛実(川端真奈)は、ほかの家族がいなくなったところを見計らい子どもの頃からの度が過ぎる愛情を椋尾に示すが、すでにヒューマンツバメになっていた彼女は人間だった頃の記憶に関わる行動を控えるようにと白石にたしなめられる。ことの発端は愛実による仕業と露見すると、彼女の行動は次第にエスカレートして……入口にかかっている巣のなかでツバメの家族が狩ってきたトンボを餌と分け合い、時折「神田川」の替え歌が空襲警報として流れるなか、思い出の喫茶店で山生家の人々は選択を迫られる。

     これまで私が観てきたこの劇団の作品と同様に、コミカルながら狂気をはらんだ登場人物たちによる予測できない展開を大いに堪能した。本作ではそこに越冬し帰巣するツバメの旅情や昭和歌謡、管理社会の恐怖や戦争などさまざまな要素が加わったことで、より一層台詞のイメージの飛躍が激しくめまぐるしい。しかしブレることなく統一感を出した作劇と劇団のチームワークは特筆に値する。非常時に益にならない人間はキメラのように改造して差し支えない国策が推奨される設定に触れて、かつて高齢者の集団自決論を説いた経済学者の発言や、「LGBTQには生産性がない」とある政治家が雑誌に寄稿し問題化した出来事を思い出した。またジョージ・オーウェルが『1984年』に描いた世界が現実化している現代の世界情勢をも想起した。

     ヒューマンツバメとなった登場人物たちはクチバシと耳を付け、両手に翼を模した衣装と太陽の意匠を半分に割ったような赤い首掛けを下げて舞台中を駆け回る。その動きは鳥のそれというよりはだいぶ人間に近いものであり、いい意味での安っぽさが面白い点でもあるが、戯曲を読んだときに抱いた空恐ろしさや、物理的かつイメージとしても飛翔する言葉の印象は薄まっているように見えた。むしろ私は冒頭の水と愛実による「思い出」を巡る対話や山生きょうだい間のゆがんだ愛憎、椋尾が一永遠に向ける嫉妬といった生々しい感情の発露の方に目が向いたため、戯曲の言葉と演出が齟齬を起こしているように思えた。古ぼけた思い出の喫茶店での家族の愛憎劇は、時折挟み込まれるツバメの親子のやり取りと重なり深いドラマに感じられたため残念である。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    こりゃ、エグくてすごい「反戦」と「厭戦」の物語だ。

    ネタバレBOX

    人間以外の動物は常に戦争状態なのだなと、餌が口に合わなくて食べられない妹燕を見て思った。
    人間は戦争状態じゃなければ、食べ物が口に合わなくても、働く場所が合わなくても、
    なんとか生きていける。
    ここに近親相姦とか、変身や進化、人間と人外、何かを得たら何かを失う、同志や友達という関係に
    愛情や性欲が強く絡んでくると修復不可能なくらいバラバラに壊れてしまうぞという情報量の多さや
    現実の出来事につながるフックがハマる人にはドハマリしているだろうし、はまるではなく、嫌悪感を
    もつひともいるんだろうなぁと感じてしまった。
  • 実演鑑賞

    満足度★★

    鑑賞日2025/03/16 (日) 15:00

    座席1階1列3番

    価格2,800円

    ■コトリ会議❘おかえりなさせませんなさい
    http://kotorikaigi.starfree.jp/2024/okaeri-nmns/

     キビるフェス3本目にしてラスト公演。「コトリ会議」は関西を中心に活動している劇団だが、全国展開も熱心で、福岡公演もこれが3度目。結成から18年を経ているので、もはや新興劇団とも言えない。
     にも関わらず、この舞台から感じる「素人臭さ」「青臭さ」は何なのだろう。好意的に解釈すれば、それはコトリ会議が未だ発足当時の新鮮さを失っていないのだと言えなくもない。もっともそれは、この劇団の初期作品を私が観ていないがゆえの推測に過ぎない。やや悪意的に見るなら、単に「進歩がない」だけなのかもしれないのだ。
     その判断を下すためには、戯曲を子細に吟味しなければならない。でもこの戯曲、かなり「ずるい」作りをしてるんだよね。舞台をある喫茶店に限定しながら、背景に戦争やら何やらを匂わせて、いかにも「壮大なテーマ」があるように見せかけている。でも見せかけは見せかけであって、決して本質ではない。うっかり「外見(外面)」に引っかかると、何だか「褒めなきゃいけないような気にさせられる」のである。ある意味、「批評を錯覚させる」または「批評を拒絶する」作りになってると言えばよいか。

     もう少し詳述すると、これ、作品の設定的には「演劇」には全然向いてないんだよ。時代背景は百年後の未来なんだそうな。でもって、世界は第八次(半)世界大戦の真っ最中なんだそうで。
     でも時間と空間に制約された舞台では、そんな「大世界」を表現することは困難(というよりは無理)だから、結局、舞台はどこぞの喫茶店で、登場人物も一家族に限定して展開されることになる。
     いや、個人や一家族のある時期を切り取って、それを象徴として、彼らを取り巻く「世界」そのものを描くって手法はもちろんあるよ。NHKの朝ドラがよくやる手だ。『虎に翼』も一弁護士の半生を描いて、戦争から復興し、全体主義社会から脱却して「自由」を勝ち取っていく「日本社会」そのものを描出することに成功していた。

     でもコトリ会議のこの舞台はどうか。はっきり言って、大失敗してはいないか。
     第八次半世界大戦って何だよ。その間、どことどこの国が戦って、どう決着したか、作者はちゃんと設定してるのか。してないよな?
     適当に言ってるだけなのはバレバレで、要するに戦争云々は「世界設定」としてすら機能していない、ただの言葉遊びに過ぎない、他の設定でも置き換え可能なものなのである。
     どうしても「戦争」を描きたいのなら、アニメ映画『風の谷のナウシカ』とかを参考にしろよ。「風の谷」って限定された舞台で、説明的になりすぎない台詞で、わずか2時間の尺で、地球規模の戦争を描いてたろう。でもあれはアニメだからな。演劇とは表現手段が全然違う。ならば演劇で「世界」はどうしたら描けるのか?
     みんな、そこで大いに苦労してるんだけどね。この作者はかなり「楽な道」=安易な設定を選んではいないか。

     演劇・舞台で戦争を題材にすると、ともすれば『肝っ玉おっ母とその子供たち』みたいにストレートに反戦主義・社会主義的なイデオロギー優先の芝居にな里がちだ。それが悪いとは言わないが、いささか偽善的で「鬱陶しい」ことは否めない。
     そうした「思想臭さ」から脱却する方法の一つとして、「SF」としての完成度を高めていくというやり方がある。思想の読み取りは受け手に任せて、表現そのものを抽象化する方法である。
     『ナウシカ』が面白いのは、作者の宮崎駿は社会主義イデオロギーの人でも、作品が「SF」として傑出してるから、結果として「思想臭」が払拭されてるからなのね。
     設定だけではなくて、ドラマの面でもこの舞台は失敗していると思う。SFになりきれてないって点もそうだが、作者は「演劇」ってものが何をどう表現するものなのか、根本的なところから勘違いしているのではないか。
     20年近くかけて辿り着いた舞台がこの出来では、そう判断せざるを得ない面もあるのではないかと思う。

    ネタバレBOX

     芸術の魂は細部に宿る、とはよく言われることではあるが、その細部がいちいち本戯曲においては「いい加減」の一言に尽きる。
     タイトルの「おかえりなさせませんなさい」ってのがまず、誰が面白がるんだと言いたくなるような適当さだ。物語の結末を象徴させているのだとしたら、なるほど「終わりは適当です」だと解釈できそうだが、恐らくそんな意図でつけたタイトルではあるまい。
     作者自身は、誰かを迎え入れることが困難な時代になっていることを象徴しているつもりかもしれない。しかし遊びすぎるとただのおふざけとしか受け取れなくなるものである。これまた断言するなら単なる言葉遊びの域を出てはいない。「おかえりなさい」の台詞を多用する監督に庵野秀明がいるが、彼の使い方の方が全然スッキリしている。主人公の活躍が報われる言葉として機能しているからだ。
     誰も誰かを受け入れられない時代を象徴させたいなら、普通に「拒絶の言葉」を使えばいい。「気持ち悪い」でも「うざい」でもいい。妙にひねっても頭でっかちにしか感じられなくて、笑えないのだ。
     徴兵忌避のためにツバメと合体して「ヒューマンツバメ」になるって展開も、何だかなあだ。劇団名に「コトリ」とあるから登場人物も鳥になぞらえているが それ、面白いか? ヒューマン(英語)+ツバメ(日本語)って言葉の座りの悪さはわざと? そもそもツバメになるってどういう寓意?
     諸々の「謎」は、観客に想像させる意図があるのかもしれないが、寓意を感じられないものに想像力は働かないものだよ。
     まだカッコウ(托卵)とかトラツグミ(鵺)とかペンギン(飛べない)とかの方が何を象徴しているか想像のしがいがある。近親相姦モチーフが出てくるけど、これもツバメとは特に関係はなさそうだし、だから何故にツバメじゃなきゃダメだったのよ? ツバメになったら、人間の時の記憶を忘れてしまうってのも、トリは全部記憶ないそうだしな。
     下手に手術を受けたって設定の役者が、ツバメの格好なんかするものだから、ホント、学芸会みたいな印象しかしない。これまたトリにこだわらずに、徴兵忌避の手段をもっとリアルな国内の兵器の生産工場に従事させるとか、「普通のSF」にしてくれた方が、まだドラマの発展させがいがあったように思う。

     最後の台詞が「お母さん!」という叫びだったおかげで、この作品の欠点が腑に落ちた。寺山修司の稚拙な模倣にも見えるが、恐らくこの作者は寺山も観たことはないだろう。戯曲の完成度に差がありすぎる。
     結局、この作者は、「リアルな人間関係」というものを「母と子」以外にはろくに経験したことがないのである。「母と子」以外に、オチを考えつかなかったのである。
     近親相姦という重いモチーフを扱いながら、全体としては「軽い」印象しかないのも、心や魂で誰かと付き合った経験が薄いからだ。観客の心に響く台詞が書けないのも、「アタマ」だけで戯曲を書いているからだ。やたら大声を出すキャラクターが多いのも、言葉と言葉で心を交わし合う経験に乏しい作者自身の投影だろう。

     正直、作者さんには、もっと「生きる」ことに真摯に向き合ってから、戯曲を書くようにしてほしいと思う。今のままでは素人と大して変わりがない。出逢いの輝きを、別れの切なさを、命が奪われる苦しみを、いかに描くかを考えてから台詞を吟味してほしいと思う。
     表面的で薄っぺらなおふざけで、自分だけが面白がっている独り善がりな世界に安住していると、知り合いや友達は褒めそやしてくれるかもしれないが、一般の「普通の」お客さんは置いてきぼりを食らってしまう。
     そのことが自覚できるようになれば「進歩」も見られるようになると思うけどね。これが的外れだとか貶し屋の貶しにしか見えないようなら、もう処置なしだろう。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    コトリ会議「おかえりなさせませんなさい」観劇@なみきスクエア。燕と人間、記憶とアイデンティティ、家族と純喫茶、第八次半世界大戦と昭和を透かして見やる“戦後”、俳優の身体と鳥のぬいぐるみ…

    さまざまな位相の「噛み合わなさ」を手繰り合わすことで摩擦が起き、それが喜劇にも悲劇にも変調していく。いや「呑みこめなさ」か。生死がかかってすら呑みこめないものがあること、その悲哀を強く想った。

    ネタバレBOX

    劇中で、あの小さな鳥のぬいぐるみが、舞台上のどの存在よりも生々しくなる瞬間があって、暗がりのなか光に包まれたその光景が脳裏に深く深く刻まれた。とても美しいシーンだった。

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