メイジー・ダガンの遺骸 公演情報 メイジー・ダガンの遺骸」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-4件 / 4件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    マジックリアリズム(魔術的リアリズム)はラテンアメリカを世界の最先端にした。全ての物語に行き詰まった文学はバロウズのカットアップやフォールドインなど特殊な技法に走る。(新聞や雑誌をバラバラに切り離してランダムに繋げるなど)。ポストモダン文学は脱構築(解体と再構築)を掲げるがデリダの意図から離れ、そこにあるのは無意味で虚しい記号の羅列の世界であった。だが先住民(インディオ)の文化が白人西洋文化によって侵略、虐殺、奴隷化された混血の歴史を持つラテンアメリカにこそ誰もまだ見ぬ文学の種が蒔かれていた。それは理屈が通用しない世界。幻想と矛盾と神話と非日常とが現実と混在しつつ全てが許容されていく。何の制約もなく無限の想像力だけでこの世界の人間の本質に触れようとする衝動。読者の感覚はまるで夢を見ているようなもので人為的作為的なものを感じずにごく自然に有り得る一つの世界として受け止めていく。
    今作もその文脈で解釈した。

    運転する車がアイスバーンにスリップ、トラクターに激突して亡くなったとされるメイジー・ダガン(谷川清美さん)。その訃報をFacebookの連絡で知った娘の滝沢花野(はなの)さん。家出してからずっと音信不通だった実家に帰って来る。イングランド、サザーク・ロンドンのベッカムからアイルランドのケリー州へ。
    知的障害の弟(森永友基氏)は楽しそうにトーストを焼いている。暴力しか能のない耳の遠い父親(髙山春夫氏)。
    母親への酷い暴力を毎日のように見て育った滝沢花野さんはこの家を心底憎んでいた。心の拠り所だった真っ白な仔猫もある日無惨に始末されていた。生涯帰ることもなかった筈の家、そこには死んだ母親が当たり前のようにいる。

    森永友基氏は「うんちょこちょこちょこぴー」で誰もが知るGO!皆川を連想させる。
    髙山春夫氏はいつもこんな役。段々本当にそういう人間に見えてきた。
    谷川清美さんはこの役を本当に嬉しそうに演っている。女優冥利に尽きる、と。
    滝沢花野さんは秋野暢子の若い頃みたいで魅力的。母親への愛憎が自分自身を作り上げていったことへの苦悩。余りに世界があやふやで暴力でしか自分と他人を確かめられなくなってしまった。
    母娘二人のシーンが鮮烈。打ちのめされる。月夜の墓穴。中原中也だ。

    この作品は間違いなく価値のある作品、出演者制作陣は誇るべき。『夜は昼の母』よりもこっちが好き。演出の寺十吾氏には天野天街氏を感じた。
    是非観に行って頂きたい。

    ネタバレBOX

    廃墟で初めから誰もいなかったようなラスト。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    パンフレットにも書いてあったが、たしかによくワカラン本と思う。不条理劇を観る時のようにちょっと頭のネジを緩ませて、あんまり辻褄を合わせるように考えないで、言葉の応酬や演技の表情それ自体を味わう態度で鑑賞すれば、それに十分応えてくれる俳優陣である。しかし俳優たちは、このテキストをどう理解し処理して舞台に臨んでいるのだろう?

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2024/12/02 (月) 14:00

    メイジー・ダガンは本当に死んだのか?
    なんてどうでもよくなってしまうほど、彼女は歌って叫んでスコップを振り下ろす。
    このバランバラで一人ひとりがどうしようもなく壊れかけている家族は
    血まみれになりながら、どこでどうすればよかったのかを問い続けている。
    彼らが信じたのは暴力しかなかった・・・。

    ネタバレBOX

    灰色一色のキッチン、粗末な木のテーブルといくつかの椅子。
    上手には入り口のドア、下手にはストーブと冷蔵庫。
    正面奥には左右から木の枝が伸びていて、開演後にそれが揺れた時は
    驚いたのと不気味なのとで ”あばらや感”がMAX。
    ここでこれから壮絶な家族の黒いバトルが始まる。

    最初にブチ切れて喧嘩を仕掛けたのは母親メイジー・ダガンだ。
    長年夫の暴力に耐えて来た彼女は、自分の死亡記事を新聞に出し、
    娘のキャサリンはそれを見てロンドンから帰って来た。

    キャサリンは殴られる母親を見て育ち、愛する女性を殴ることで
    自分への愛情を確かめようとする。
    こんな風になったのは、殴られるだけの母親を見て来たせいだと思っている。

    キャサリンの弟は両親と同居しているが、言動からは障害があるらしいと感じる。
    生活力もなく現実に対応できない。
    人が死ぬプロセスに異常な関心を持ち、過去には姉が可愛がっていた猫を死なせたらしい。

    諸悪の根源メイジーの夫は今やただの飲んだくれで、女房と娘の憎悪の対象であり、
    最期は娘からさんざん暴行を受け、女房にとどめの一撃、スコップで殴られる。

    母親のブチ切れに始まり、他のコミュニケーション手段を持たない4人は、それぞれの方法で
    家族を威嚇し合い、常に「猫のやんのかステップ」みたいな戦闘体勢。
    激しい罵り合い、今さらの告白、それによる怒りのエスカレート、そして最後はやはり暴力。
    暴力で服従させ、自分への尊敬や愛情を測り、足りなければ殴り、
    足りていれば ”ではこれならどうだ” とさらに殴る、そうやって生きて来た家族。

    途中差し込まれる映像が効果的でとても面白かった。
    伝統的なアイルランドの家庭でよく掲げられるというイエスの絵画からイエスが抜け出て
    巨大なイラストとなって飛び回るところ、思いがけない迫力にびっくりした。
    と同時に、こんな暴力的な家庭にも、伝統的な神の絵が飾られるところに可笑しさを感じる。

    作品の解説にある「ダークな軽快さとシャープなグロテスクさ」という
    戯曲のタッチを楽しむ域に、とても私は達していない。
    ただオヤジを殺して初めて少し朗らかになった女房を見ると、本当にこれから
    3人で家族再生ができるんじゃないか、と言う気がするから不思議だ。



  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    アイルランド演劇らしい通夜ものである。アイルランドの演劇もかなりおなじみになって、この舞台は初めて見る作者だが、生者、死者入り乱れるエグイ展開を喜劇だと作者に言われてもさして驚きはない。母親が事故で急死して、頼りない父(高山春夫)と気のいいだけの弟(森永友基)だけではと、ロンドンにいる気の強い娘(滝沢花野)が故郷に帰ってくる。案の定、棺の用意もない。そこへ、死んで二階に寝かせてあるはずの母親(谷川清美)も登場してアイルランドの片田舎の貧しさ、家族の中の虐待、共依存、差別、本人のジェンダーの葛藤などが次々とあらわになっていく。見たような話なのだが、飽きないのはこの公演が上演台本作成、演出、俳優、美術、音響効果あいまって、舞台として成功しているからである。普通は良いところから引き算になるものだが、珍しくすべてが足し算になっている。休憩なしの二時間。
    パンフレットによると顔寄せで、製作者(名取敏行)は、よくわからん本だけど、寺十さんよろしく、と言ったそうだが、とにかく過不足ない制作費に見合ったいい座組ができたのが一番である。こういうことは珍しい。
    一つづつ挙げれば、最近はやりのドラマトウルグの専門家、坂内太が知識を振りかざしたりせず、舞台の面白さを生かした上演台本にしていること。寺十吾は円のピローマンが良かったが、一層この世界に磨きがかかって、おどろおどろの島物語にしないで人間喜劇にまとめていること。俳優は谷川は言わずもがな、彼女を囲む脇役の人たちが実力を発揮していること。高山は若い時の利賀村での古典修業が生きているし、滝沢は少し経験不足で一本調子になっているが、歌えるしジェンダーの問題をうまく見せている。森永はこういう愚者役は底なしになってしまいがちなのだが、寸止めのところがいい。美術(田中敏恵)は農家の一室だけだが舞台中央の小さなセリを生かしたり、下手の隅に二階への階段をちらっと見せてみたり、上手に意味ありげに藁人形っぽいものを飾ってみたりと芸が細かい。音響効果(岩野直人)は、歌だけでなくBGM音楽の選曲がいい。舞台の進行に合わせて、隙間なく音がドラマをフォローして効果を上げている。ドラマに対する音の勘がいい。
    この作品の原語のタイトルはThe remains of Maisie Duggan で、思い出したのはカズオイシグロのRemains of the Dayである。同じremainsでも一方は「遺骸」、片や「名残り」と訳され、ともに内容に的確な名訳だが、日本語で同じように使える言葉は思いつかない。だが、そのことば使いの「同一」と「差異」に、それぞれの地域で実感を込めて使っている言葉の面白さが感じられる。同じ言葉の翻訳と原語の視点からも、言葉が国境を超えることによる「変態」からも一つの作品が読めるような気もする。

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