トカトントンと 公演情報 トカトントンと」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-7件 / 7件中
  • 満足度★★★★

    太宰へのアプローチの爆発
    演出家三浦基さんの太宰に対するアプローチの爆発というのを感じた。太宰治のトカトントンと斜陽を咀嚼し、それを舞台として昇華したように思える。横浜に滞在して作り上げたというだけあってそれだけこの会場との密度というものも凄く感じられた。会場すら舞台の一部というぐらいにまで思うほどだった。
    そして舞台装置は謎だらけというかこんな凝った舞台装置は早々見られ無いと言うぐらい仕掛けが複雑であり、それがこの作品での大きなポイントにもなる。途中で金槌を使うところもまた良いアクセントになっています。ただ原作が非常に解釈の幅が広いと個人的には思うので舞台も見る側にかなりのものを要求される気がします。
    勉強になります。ありがとうございます。

  • はじめての地点
    これが噂の地点…!!
    とにかく舞台美術と言葉が印象に残りました。
    残念なのは、自分が斜陽の予習をしないで行ってしまったこと…
    予習があったらもっと楽しめたかもしれないなあと。

    ネタバレBOX

    布団が舞うところが、どうにも頭について離れないです。
    あと「嘘です」が。
  • 満足度★★★★★

    完全なチーム
    今回の舞台を観て、あらためて、
    地点が、三浦基氏と個性的な固定された役者5人とスタッフとを中心とした
    完全なチームになったのだな、と感じた。

    そこにどんな舞台美術だの、音響が入り込んでも、
    十分に対応する力がこのチームにはあるのだな、と。

    解体され、ところどころ音節まで引き延ばされつつも
    ありありと伝わってくる
    複雑なテキストだけでなく、
    時さえも、一瞬が引き延ばされたかと思えば、
    時代が目まぐるしく行き来するようでもあり、
    空が湧き立つかと思えば
    次の瞬間には、焼野原を夕日が紅く染め尽くすしているかのようでもあり、
    全てが極めて複雑、
    かつ諧謔的でもあり、
    まさに今現在のチームとしての地点の完成度の驚異的な高さがなければ
    実現不可能とさえ思われる
    凄まじい公演だったように思われました。

    正直、これだけのチームなら、
    線が細い・・(ように自分には感じられる)作家の文章ではなくて、
    もっと野太い声の作家の文章を
    ガッツガッツと切り刻んで(笑
    松明で燃やし尽くすように派手に染め上げるのを観たいなぁ・・
    などと思ってもみたり。

    これだけ今のこのチームでの
    高い到達点を魅せつけた三浦基氏が、
    次もまた同じような公演を打つようには
    自分にはとても思えないのだけれど・・(どうなんでしょう(苦笑

  • 満足度★★★★★

    洗練された視覚的・音響的デザイン
    太宰治の『トカトントン』をベースに、同じ作者の『斜陽』や玉音放送、日本国憲法も取り込んだテクストを特異な台詞回しで語る作品で、視覚的にも聴覚的にも非常に洗練された演出を以て、戦後の日本が知的かつユーモラスに描かれていました。

    玉音放送のテクストを語るところから始まり、『トカトントン』が文章の順番を多少入れ替えながら進行し、「手紙」や「戦後」といった共通要素を持つ『斜陽』にシームレスに接続し、「天皇」から日本国憲法や君が代が持ち出される展開でした。狂気じみた怖さと少々のユーモアを感じさせる、原作終盤での「トカトントン」という単語の羅列が、その部分を子供に担わせることによって希望のシグナルのように感じられました。他の出演者は昭和初期の看板をプリントした、くすんだ色の衣装なのに対し、子供だけが鮮やかな色の衣装で、あたかも未来を覗く為のものであるように見える双眼鏡を携えていたのが印象的でした。
    他にも、アコーディオンで君が代を弾き最高音だけが楽器の音域外で音がなくなってしまったり、「トカトントン」に合わせて送風機の音と連動して揺らめく壁が、最後だけは録音の音を流し送風機の音はするのに壁は静止したまま等、はっきりと意味は分からないながらも印象的なシーンがたくさんありました。

    いつもの地点の作品に比べて笑えるシーンが多いのが新鮮でした。金槌を持ち出して床を文字通り「トカトントン」と叩く中、1人だけ杭打ち用の特大の金槌を持ってきたり、金槌でリズムが刻まれる中で客に「トカトントン」のコール&レスポンスを要求したり、金槌をマイクに見立ててブルース風に熱唱するシーンは、他の部分が緊張感があるだけにギャップが楽しかったです。

    建築家の山本理顕さんによる空間美術は、ただオブジェとして存在するのではなく、役者の動きや音や光と関連付けられていて素晴らしかったです。10cm角程度の金属製のパネルが垂直にグリッド状に並べられた巨大な壁は、壁は背後からの送風機の風を受けて各ピースがバラバラに揺らめいて照明を反射し、きらめく波紋のような模様を描き、映像の特殊効果よりも複雑で美しかったです。奥から手前に向かって上がっていく斜面の床は役者の足元が見えず、寝転がると視界から消えてしまう、不思議な遠近感があって非現実感が漂っていました。

  • 満足度★★★★★

    整理券番号!!!
    私、頑張って整理券番号1番を取ったのです。
    ところが列も作らず、トークが終わると、着席したままの状態から、いきなり「30番までの方ご入場下さい」
    おいおいおい!
    30番くらいで入場しましたよ。
    あー最前列で見たかった。
    何考えてんだよ!
    10番ずつ入場させろよ。

    三浦基の感性は素晴らしい。
    これからも地点は見逃せない。

    あと、TPAMの運営のまずさの数々。
    しっかりしろよ!

  • 満足度

    概ねつまらなかった
    舞台美術や照明演出はとても素晴らしかった!だが物語はつまらなかったです。少し変わった感じのああいうイントネーションによる台詞回しは、リーディング劇で観たことがあり驚きもなにもなく、少し大きめの芝居を見てて段々嫌気が....。内容も全く乗れずじまい(>_<)あ、でも聖歌はうまかった♪

  • 満足度★★★★★

    そうしてそれからDie Kruppsの「Stahlwerksymphonie」
    が舞台の上からハッキリと聞こえた。

    『トカトントン』「と」の物語。
    そうしてそれから、「文学」よりも、「音楽」を感じてしまった。

    ネタバレBOX

    前にも書いたと思うが、「地点」の作品には「音楽」を感じる。
    コトバのリズム感、抑揚という「音」に関することもあるのだが、編み上がっていく物語自体が音楽に「見えて」しまう。
    そうしてそれから、役者たちのアンサンブルは、台詞だけでなく、動きも含めて音楽なのだ。

    そうしてそれから、今回はさらに「音」としても「音楽」であった。
    それは(原作の)タイトルでもある「トカトントン」の「音」がそうさせるだけでなく、独唱や合唱のような台詞、実際に「唄」もあり、さらにその思いは高まる。

    そうしてそれから、開幕に流れるSEは、工事現場の「音」であり、それが劇中の「トカトントン」に結びついてくる。

    「トカトントン」は、敗戦直後から主人公を襲う音であり、彼の無気力や無関心のトリガーでもある。
    本当のトリガーは、「敗戦=玉音放送」であり、彼(ら)の世界は「玉音放送」により8月15日の正午までの世界と一変してしまった。
    だから、「私ひとりの問題ではない」のだ。

    そうしてそれから、「トカトントン」は、一方で「復興の金槌の音」であるとも言える。
    それが冒頭の「工事現場SE」につながるわけだ。

    しかし、主人公は、180°回転で転身なんかそう簡単にできるわけではなく、気持ちが盛り上がると「トカトントン」で、ダウナーな気分に陥ってしまう。

    前半はそうした状況を、本来の原因である「玉音放送」の文章を交えながら、丁寧に再現していく。「玉音放送」が「トカトントン」だ。
    さらに「ウソでした」という、原作ではラストに語られる主人公の、さらにダウナーな気分を、彼の手紙の記述に重ねていく。
    この構成はとてもわかりやすく、「笑い声」や奇声とともに、彼の状態を語っていく。

    そして、「唄」。
    唱われるのは、賛美歌と「椰子の実」。コーラスで。

    そうしてそれから、金槌を手に舞台の上で、「トカトントン」。

    この、人力リズム丸出しの「音」と、耳に残る冒頭のSEの「音」で、先に書いたインダストリアルな「Stahlwerksymphonie」が聞こえてくる。

    初期の「インダストリアル・ミュージック(またはロック)」は、工業生産される音楽へのアンチテーゼとしての成り立ちであった。その音楽の姿と、敗戦 → 復興(の音)という道筋をうまく受け入れることのできない主人公の姿はダブってしまうのだ。

    この感覚は極極個人的なものであることは確かなのだが、そう感じたのでそう書いた。

    そうしてそれから、主人公のコイバナあたりから、『斜陽』の「恋と革命」の一連の文章が覆い被さっていく。それは『トカトントン』の「デモ」のエピソードにも共鳴していく。

    この感覚、『トカトントン』の主人公の「虚無」さと『斜陽』の「恋と革命」の「熱さ」の感覚は、実は近しいことがわかってくる。
    つまり、「どうしようもなく、虚無さが沸いてきてしまう」ということを語っているのに、妙に「熱い」のだ。

    その「感覚」をうまくすくい上げていた舞台であったように思えてくる。
    全体が、やけに「熱」を帯びている舞台であったと思う。今までの地点の作品の中で(そんなに観ているわけではないが)、一番熱っぽいかもしれない。

    そうしてそれから、「子ども」の登場だ。
    子どもは「トカトントン」「トカトントン」「トカトントン」「トカトントン」と言う。
    子どもは「未来」であり、「芽」である。まさに戦後の復興の「兆し」だ。

    そうしてそれから、子どもは彼を「観察」する。彼の「外」にある視線だ。

    子どもの登場によって、この舞台中の、『トカトントン』の主人公が持つ「虚無」は諦めではなく、(手紙によって他人に働きかけている姿からも)通過点の苦しみではないのか、とも思えてくる。何か彼の中に「萌芽」があるのではないかという感触だ。

    だから、ラストでは、原作にある手紙を受け取った作家の返信は、バッサリとカットされ(もとも短いけれど)、「気取った苦悩ですね」だけとなるのだろう。
    第三者からは理解されない苦悩であるのだが、概ね苦悩とはそういうものである、と言い切ってしまって、第三者の姿で、彼の「復興」を待とうではないか、ということでもあろう。

    そうしてそれから、今回の舞台の形は、「逆八百屋」とも言えるものであり、舞台奥から手前に行くに従って徐々に高くなっている。観客はそれを見上げるので、KAATの大スタジオはいつものような段差がない。これは面白い。

    そうしてそれから、舞台美術は、今回も見事で美しい。
    そうしてそれから、後ろのキラキラを揺らすための、扇風機の音さえ「音楽」だった。

    そうしてそれから、今回の舞台のためのフライヤーは一体何種類あったのだろうか。やけにでかいサイズのものまであったし。とても贅沢(笑)。

    追伸 『トカトントン』に敬意を払い「そうしてそれから」率が高い文章にしてみた。

    参考:Die Krupps "Stahlwerksymphonie" http://youtu.be/9qiSNMKfBzI

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