エンドゲーム 公演情報 エンドゲーム」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.0
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    鑑賞日2024/07/26 (金) 19:00

    初見のユニット。ベケットの2作目だそうだが、『ゴドー…』と同じく分からない。分からなくて分からん。108分。
     不条理劇だから良く分からないのは覚悟していたが、全然分からん。壊滅した近未来世界でシェルター的なところで、足の悪い盲目の男が子どもらしい足の不自由な男に命令を出す…、な展開。タイトルはチェスの終盤戦を意味するらしいが、人生の終盤戦か、世界の終盤戦か、言いたいことは感触でしか残らないけど、春風舎のサイズで大声を出されると、それだけで引いてしまう人間もいることは理解してほしい。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    ゴドー(1952)の後、ベケットはこういうものを書いた(1957)のか、ゴドーに何とかケリをつけたいと思ったのか。つまらない義理立てをしたものである。あまりやらない作品だが、それでも別のタイトルではよく上演されている。新劇系で見たことがあるような気もするが数十年も昔だ。
    大きな白い安楽椅子から動けない館の盲目の主人(川本三吉?配役表が配られないないから知らない俳優にあてずっぽうだが)と片足が不自由なその従者(伊藤拓?)が最後の日を迎えようとしている。部屋の奥の部屋(見えない部屋で顔だけ出す)には主人の父(瀧腰教寛?)も寝ている。
    天井に横に四列、縦に五行の白色蛍光管の照明が並んでいる殺風景な部屋で外に向かって(客席に向かって)二つの窓がある設定。そのカーテンを従者が足を引きずりながら開けるところが幕開きである。原作が書かれた50年代から60年代にかけて終末ものが流行った時期の作品だが、秀作ゴドーは今見ても奥が深いのに、こちらはよくある終末SFみたいで、今見ると話がつまらない。演出も原作に沿って古い本を読んでいるようで味気ない。俳優たちも登場人物の相互関係だけで演技していて設定が生きていない。状況順応の空元気かと思うがそういうわけでもなさそうだ。
    まもなく世界がなくなるという時期を背景として、こういう芝居つくりはリアリティを欠く。原作そのものが平板ということもあるが、今はAIの時代である。上演するからには、それでも現代人に伝わるように何とか工夫しなければ。そういう劇場の外を無視して閉鎖的なのが(アゴラ系劇団共通の)退屈の元だろうと思う。1時間50分。
    余談では、この演出家、秋にロンドンのチャリングクロス劇場で谷崎の「刺青」をこちらも新進の兼島拓也の本で上演するという(大阪の梅田芸術劇場の仕込みらしい)。9月にこの劇場で日本プレビューのあと10月に二週間公演する。加藤拓也作品と二本立てだというから、ジブリ効果で日本演劇も注目されるところがあるのだろう。チャリングクロスと言えば日本演劇ではおなじみのサドラーウエルとは違うし、バービカンでもない。ホントの本場である。浮足立たないでいい仕事になることを祈っている。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「幽閉者たちの悲喜劇」

     1957年に初演された本作はサミュエル・ベケットによる二作目の戯曲である。

    ネタバレBOX


     アトリエ春風舎の急ならせん階段を降りた先にある劇場内に入ると、舞台中央に白いシーツがかぶさった状態で安楽椅子に寝たままの人物が鎮座している。開演前の客席にはうっすらと雑音が響き、天井に設置された蛍光灯が白、緑、紫、青と移り変わっていって、酷暑の汗がすっと引いていくかのような心地がした。

     奥から足を引きずりながら脚立を伴い現れたクロヴ(伊藤拓)は、上下の天井から垂れ下がっているカーテンの上方を開き、四角い穴からこちらを覗き込んで短く笑う。そうこうしているうちに安楽椅子に寝座っていたハム(川本三吉)が起きる。彼は目と両足が不自由で立ち上がることができない。二人の会話にはエコーがかかっていて、まるで二人とも半地下で幽閉されているかのように見える。上演会場に合わせたのであろう独自の設定がまず面白い。

     やがて舞台奥のドラム缶に入っているナッグ(瀧腰教寛)が顔を出し、「お粥くれよ!」とせがむがハムがいさめ、ハムの命によってクロヴがなんと犬用のビスケットを与え、さんざんに喚き散らすところを上から蓋をされてしまう。ハムの会話から察するにナッグはなんらかやらかして下半身を失ったようである。もうひとつのドラム缶に入っているネル(赤刎千久子)とはいい仲のようで、かつての甘い日々を回想している。どうやらふたりともあまり体調がすぐれないようだ。

     ドラム缶に入ったままの二人を背景にしてクロヴとハムの対話は続いていく。犬を所望したハムにクロヴは一足が欠けたぬいぐるみをかしずかせる。外の天気が知りたいハムにクロヴは穴から望遠鏡を使って様子を見るが、そんなことはしなくていいと咎められる。蚤取粉をかけたり、ドラム缶に入っているナッグとネルの様子を見に行かせたり……静止しているかのように感じられる空間と時間のなか展開する他愛のないやり取りに、観客はそれぞれ思い思いを重ねることとなる。

     『ゴドーを待ちながら』でひたすら待ち続けているウラジーミルとエストラゴンと異なり、クロヴはここから出ていこうとするが出ていかない。脚が不自由なクロヴは暴君のようにこき使うハムに悪態をつくものの、言うことを聞いて甲斐甲斐しく世話をしている。ふたりの支配と共依存の関係は現代にも通じる普遍性がある。職場や家族、恋人や友人、はたまた国際情勢にまで当てはめることは可能だろう。

     二人ともやや声が大きすぎるきらいがあった点は気になったが、この噛み合わない対話が面白いため川本三吉演じるハムによる数回の独白があまり盛り上がらなかったのは残念である。しかし終盤でこれまでの人生を回顧しながら救いについて問う独白は見ごたえがあった。

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