宮澤賢治/夢の島から 飴屋法水『じ め ん』/ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』 公演情報 宮澤賢治/夢の島から 飴屋法水『じ め ん』/ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.8
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★★★

    最近の脱出ゲームよりはだいぶ大変だったけれど
    なかなか面白かったです・・(こんな感想でスミマセン(汗

  • 満足度★★★★

    対称的な質感の2作品
    「わたくしという現象」:
    幕切れに闇夜に伸びる青いビームこそが「わたくし」。精緻に作られた文明(椅子の列)が超常的な力で瞬時に崩れ去った後、何もない荒地から立ち上る「わたくし」。キリスト教の世界観を連想させる理知的で美しい表現である一方、体温や肉感の感じられない「展示」作品だったと、個人的には思いました。

    「じ め ん」:
    ノイズの混じった玉音放送、荒地をひたすら掘る少年が振るうスコップが土に刺さる音、爆弾のオブジェ。どれも演劇的なアクチュアリティを内在しているけれど、その足元にはゴミでできた夢の島が広がっている。虚構の上に成り立っている強烈な生。壮大な遊戯そのものが、演劇という表現の本質を照らし出していました。

  • 満足度★★★★★

    「夢」とは何だったのか? 過去の、未来の私たちの「夢の島」を掘り起こす
    「じめん」に座り、「夢の島」を白いビニール越しに感じる。草の匂い、夜空に流れる雲、に垣間見える星、ときどき上空を横切るヘリコプター、風。周囲にいる人々。
    まさに「あの瞬間」「あの場所」での出来事。体験。

    ネタバレBOX

    夢の島とは、またいい場所を選んだものだと思う。
    なんたって「夢の島」である。
    そんな意味さえも記号のような、単なる地名になってしまって久しいのだが、この公演では、それを呼び起こし、いや、掘り起こしてくれた。

    「夢の島」とは何だったのか、そこに埋まる「夢」とは何だったのか、ということをだ。
    過去だけではなく、未来の「私たち」の「夢の島」に起こった(る)、ことも。

    会場に着いて、人の多さに驚いた。「予約番号順に入場です」といろいろな手段でアナウンスしていたことが、すでに反故にされてしまっているということは瞬時にわかった。
    が、そんなことはまったく問題がなかったことにそのうち気がつくのだった。

    入口で、まず手渡されたのが白いビニールの旗のようなもの。2メール以上の高さがある。
    それを手に手に、多くの観客が会場に入る。コロシアムの客席にあたる芝生を、反時計回りにぞろぞろと歩くのだ。
    周囲では「宗教みたいだ」という声が多く挙がっていたが、私が感じたのは「蟻」だ。それも「ハキリアリ」という、葉っぱを運ぶ蟻の姿だ。
    こんな感じ→http://www.youtube.com/watch?v=fQ-dx1XZHcQ

    彼ら蟻たちには意思があるのかどうかはわからないが、間違いなくひたすら労働をしている。葉をせっせと運ぶ。そして、夢の島にいる私たちも、ハキリアリがごとく、その理由もわからずせっせと白い旗を持って、意味なくぐるぐる回らされている。顔の見えない、誰かに指示されるがままに。
    誰もそれに異議を唱えるわけでもなく、立ち止まってしまうこともなく、近道をしようと中央部分を横切ることもない。
    それは、当然だ、と言うかもしれないが、なぜ当然なのだろうか。
    そんなことを考えながら歩くというのは、実はエキサイティングだったりする。なんか気持ちが高揚してくる。

    旗を高く掲げるということには抵抗がある。それは、「旗を高く掲げるときにはいつも何かよからぬことが行われていて」「それは大勢の高揚感によって支えられている」ということがあるからだ。
    最初に思い出すのは、ナチスの党大会や行進、さらに赤い旗を振り回す、あの革命というやつだ。とにかくろくなことがない。ナチスの党歌はご存じだろうか。『Horst-Wessel-Lied』「旗を高く掲げよ」と呼ばれている(歌の出たしの歌詞がそうなので)歌だ。

    「旗を掲げること」にそんな高揚感があると言っていいだろう。
    だから警戒が必要なのだ。そして、夢の島でそれを体験している。
    早くこの白い旗を振ってみたい、この観客たちが全員で振る様子を見たい、なんていう欲望とともに。
    すでに「大衆」と呼ばれる人々の一員になっているのだ。大勢で何かを褒めそやしたり糾弾して、気持ちのいいアレだ。

    そんな想いとは別に、公演は粛々と始まった。

    整然と並べられた椅子が瓦礫になっていく様を、亡霊のような白い人々を、そして、青く輝いていく少年を。
    「青」は未来の光と見た。
    観客は、誰かに向かって「白旗」を降り続けるように指示され、嬉々として白旗を振るのだ。白い旗がコロシアムの客席で一斉に振られる。
    それは「降伏」の白旗なのか、「ここにいる」という合図なのかは、振っている人次第というところかもしれない。

    後半は、「夢の島」=われらが「日本」への想いだ。
    「夢の島」の地中には「夢」の歴史が埋まっている。つまり、「ゴミ」だ。「瓦礫」だ。そんなモノが埋まっていて、今も見えない汚染が地中で蠢いている。

    観客は、「夢」の残滓の上に座り、手の平やお尻でそれを感じる。なんてことはできない。「見えない」からだ。「見えない」ことは「ないこと」と同じ。それはいつも体験してきたことだ。そして、今も体験しつつある。
    「ここにある」と言われても実感できない。
    すでに緑に覆われた「夢の島」は、ゴミを瓦礫を見事に隠蔽している。最初からそんなものはなかったように。

    少年が掘り起こして、それを露わにしていく。少年は未来だ。未来から私たちに「夢」がなんだったかを「じめん」から「掘り起こして」くれているのだ。
    「なかったこと」にしてしまう日本という国を掘っていこうとするのだ。

    同時に「見えないこと」にしている現実にも突き当たる。
    ポーランドのマリアこと、キュリー夫人と出会い、彼女の「夢の産物」でもある「役に立つ石」に続く「Little boy」が姿を現す。すぐそばにある、第五福竜丸も脳裏によぎる。

    「Little boy」や「Fat man」という名前! 
    そう「名前」を付けることに意味がある。それは「夢の島」も同じなのだ。
    名前が付いて「意味」が付いてくる。「名前」によって、何かが隠蔽されるということもある。名前でそのものの本質を覆うことができる。

    「子ども」たちの行進はどこに続くのだろうか。弔いの鐘の音を響かせて。
    モノリスの「エッジ」を歩く様は、今の状況なのか。

    死のイメージが濃くなる。
    「死」を「埋める」日本のほうが、ロッカーのような場所に納めるイタリアよりも、死者を想うという図式は面白い。
    それはゴミでも瓦礫でもない、者なのだ。者は声を発する。埋められていても。


    「夢の島」だった「日本列島」は、50年後にはない。土地そのものがない、というよりは、「存在」が「ない」のだ。
    今のまま、「見えないもの」は「ないもの」にしていると、日本はなくなってしまうというストレートな表現なのか。

    多くの「夢」を地中に埋め、地表には雑草が生い茂るだけの日本列島がそこにある=そこに日本はない。そうならないためにも…というロジックは単純だけど、今、覚えておかなくてはならない。未来を思い出せ! ということだ。

    「じめん」に座り、「夢の島」を白いビニール越しに感じる。草の匂い、夜空に流れる雲、に垣間見える星、ときどき上空を横切るヘリコプター、風。周囲にいる人々。
    まさに「あの瞬間」「あの場所」での出来事。

    そして、少しだけ、ほんの少しだけ未来に思いを馳せるのだ。




    品川には「平和島」という埋め立て地がある。その地面には何が埋まっているのだろうか?

    2001年生まれの少年から、未来、コーネリアス、猿、で、モノリスというラインは少々直接すぎて腰が砕けてしまったが(笑)。
  • 満足度★★★★★

    グラウンド・ゼロからはじめるセカイ
    観劇。というよりもその場に居合わせたというか、これまでなかったことにされてきた歴史的な空白、いないものとされてきたわたしという存在との痛切な和解に向き合いその瞬間に立ち会ったという感覚の方が近い。

    ネタバレBOX

    腐敗した死体に群がる虫のような人工的なモスキート音が耳をつんざく不快感に苛まれながら背丈よりも高い白旗を掲げ整列し円の中心部に向かって歩く。
    ザッザッザッ。足並みの揃わない不協和音に負のエネルギーがどんどん蓄積されていくような薄気味悪さが押し迫り、高揚感と恐怖感が入り混じりる。
    旗を広げゆっくり腰をおろすと気分が随分和らいだ。
    木々のざわめきに耳を済まし、風の音を聞き、天を仰ぎ、流れる雲をみつめ、星を数える。いま、ここ、に、わたしが、あなたが、わたしたちがたしかにいることを噛みしめる。
    そうしてる間に、ゆっくりと足音をたてずにそっと、『わたくしという現象』ははじまった。

    ひとりの小さな男の子がぽつんと椅子に座ってる。でもあんまり楽しくなさそう。
    地球上にはまるでこの子しかいないみたい。
    そこにひとりの男がやってくる。お父さんだろうか、それとも神さまとかいう実体のないひとだろうか。あるいはそのどちらでもあるのだろうのか。

    男が無言で語りかけると少しずつ時空が歪んで、この世のすべてが飲みこまれてしまった。
    とめどなく流れてくるおびただしい数の白い群れ。
    匿名の死が尊厳なく物質と化していく『現象』は3.11の光景と、旧約聖書の洪水神話とが透明な糸でねじれながら結束しているようにもみえる。

    まるでそれが『天命』だったんだ、仕方がないな。としか言われようがないような救いのない世界。
    悲劇で埋まったじ め んに降り立ち、死んだものたちへ聖歌をささげる天使たち。
    彼らは死者そのものであり、生まれ出ずるものたちへ何かを投げかけているようにもおもえる。

    やがて大地の沈黙を切り裂く音、誕生を告げる合図が鳴り生命は息を吹き返す。
    辺り一面、漆黒の闇。
    遠くの方で誰かが旗を振っている。
    わたしたちは、じ め んに立ち、旗を振った。誰からともなく旗を振った。
    誰かへ、あなたへ、わたしへ、わたしたちへ、大きく力強く、旗を振った。

    それは助けをもとめる絶望から、大丈夫、ここにいる。ことを教えるサインへとだんだん
    変わっていったとおもう。
    だから、最後、父と子が固い握手を交わしたその先の、どこまでも果てしなくまっすぐに伸びていくような青い光には希望しか見出せなくて。少しだけ泣いた。

    舞台転換するための20分間の休憩はぼんやり夜空を眺めてた。
    この空が世界を繋いできたことをおもうと、なんだか不思議な気持ちになったりもした。

    『じ め ん』は少年がスコップで地中に穴を掘る場面からはじまる。
    「a deep at hole!!」(どんどん穴を掘れ!)という心のなかに響く声に従って。

    その穴は、『夢の島』にゴミを捨てるためにあけた穴であり、やがて自分の死体が埋まる穴であり、タイムホール(時空の穴)でもある。
    掘れば掘るほどあらゆることの『ほんとう』をみつける手掛かりになるモノがたくさん埋まってる場所。

    少年は出会う。
    ポツダム宣言を受諾する天皇陛下に。ヒロシマ、ナガサキに。a little boyに。マリアに。ポーランドに。人類に。宇宙のはじまりに。

    そして知る。
    彼が生まれた日のことを。父が死んだ日のことを。
    彼の生まれ故郷が、今はもうないことを。

    それでも彼は冒険を続ける。
    父親の墓標にも似たモノリスという名の飛行船に乗って舵をきり、宇宙を漂い、時間を、記憶を、歴史を、時代を、サーフする。
    たとえすべてが夢であったとしても。

    『目をとじてください』
    『そこからは何がみえますか?』

    なにもない、虚無の穴。グラウンド・ゼロ。
    国旗のない旗を胸に抱き立ちつくするわたしたちに語りかける無人の声。
    そこに救いはないけれど、その『Point』から未来をはじめることに気負いはないよ。
  • こりゃ・・・宗教でしょうか?
    いや、ね、「パナウエーブ」かと思っちゃいましたよ。 この作品がオープニングってのは、今年のF/Tは前途多難。…「正しさ」の呪縛からのスタートのようですから・・・

  • 満足度★★★★★

    強烈なアクチュアリティ
    2人の演出家による、宮沢賢治のテキストに触発された作品のダブルビル公演で、屋外ならではの演出が素晴らしい公演でした。

    『わたくしという現象』(構成・演出/ロメオ・カステルッチ)
    入口で畳1枚より大きい白い旗を受け取り、それを手に持ちながら不穏なBGMが流れる中を行列になって会場へ進むときから既に独特の世界観が広がり、会場に整然と並べられた膨大な椅子に1人だけ座っているというビジュアルに圧倒されました。超常現象のような冒頭シーンから引き込まれ、白い服を着た70人以上のアンサンブルの静かな佇まいが美しかったです。観客参加のシーンもあり、まるで宗教儀式のような厳かさがありました。人と自然が溶け合うような最後のシーンが印象的でした。
    台詞がない無言劇で象徴的な作品でしたが、おそらくレクイエムの典礼文を用いていた音楽と美しい照明によって、天国のような世界が描かれ、30分にも満たない短い作品ながら強烈なインパクトを残す作品でした。

    『じ め ん』(構成・演出/飴屋法水)
    ゴミで埋め立てられ、水爆実験で被爆した第五福竜丸が展示してあるという夢の島のコンテクストを活かした、放射線や命、死、未来について考えさせられる作品で、悲観的な未来が描かれる中に微かな希望も感じさせる印象深いでした。
    『2001年宇宙の旅』(2001年は主役の小山田米呂くんの生まれた年)、『猿の惑星』(米呂くんの父親、小山田圭吾さんのソロユニット「コーネリアス」の名の由来になった作品)、そして日本SFの代表作(題名を記すとネタバレになるので伏せます)とSFの名作が巧みに織り間込まれていて素晴らしかったです。ガムランの生演奏が神秘的な雰囲気を生み出していました。星空や虫の音も作品の世界観に取り込まれマッチしていました。子供達の行列や飴屋さんのでんぐり返りが孤独と希望を同時に感じさせて美しかったです。
    たくさんあった印象的な台詞が音響のバランスが悪くて聞き取りにくかったのが残念でしたが、それを差し引いても余りある魅力のある作品でした。

    両作品ともいわゆる演劇とは異なるタイプの作品ですが、舞台上での絵空事が描かれているのではなく、現実世界と繋がる強烈なアクチュアリティがあり、むしろあまり演劇を観ない人に観て欲しく思いました。

このページのQRコードです。

拡大