『革命日記』 公演情報 『革命日記』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.8
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★★

    馴染みすぎた。
    得意分野のお話だったので、すんなり世界観が馴染みすぎて、かえって違う部分に気がとられてしまう。
    やや失敗。

    革命日記は、集団で何かをしている人にはグサリと刺さるものだったと思う。
    個人的には、出だしの数分間が暇…だった。
    抑揚が単調な俳優のセリフを聞く根気がないあたしが悪いんだけども。

    ストーリに関しては、どこまでも自分の主張を押し通す人と、そこに疑問をぶつけても、のれんに腕押しどころか人格批判に及ぶような論点を外す言い逃れなど、ああ。どこの組織にも、っていうか、個人でもいるよね。なんて思いながら観てた。
    とにかく、それぞれの人物の「生き様」が、執筆する際には、時間をかけて膨大な資料を読まれるという平田さんならではの迫力。

    「興味はある…でも深入りするのはちょっと…とりあえず、顔だけ出してもいいですか?」
    こういう人が一番、底が知れなくて怖い。

    アフタートークは、さすがの掴み。
    とても楽しかった。
    会場を出る前は、シゲシゲとセットを隅から隅までみました。
    チンプな表現だけど、すごいとしか言いようが無い。

    ネタバレBOX

    …だた、本気で質問しているのか、他の観客のために質問しているのか分からない質問が数個あり、ちょっと微妙だった。

    そこまで勤勉でないあたしでさえ、Web上の書き物やインタビュー記事や、安価な書籍で読み知っている内容を聞いたりしてたから。
    うーん。
    これはこれは。
    と思って、何も聞けなかった。
    まぁ、あの場で聞くようなことでもなかったので良いんだけど。

    あとはポンプ音。
    確かに不可抗力ではある。
    不気味さを煽る効果音のようでもあったけれど、演出の意図しない場面で芝居のテイストが強引に変えられたような気がしてならない。
    もう少し、馬鹿馬鹿しくも生真面目な、笑っていいんだか哀れむべきなのか彼等を楽しんでも良かったんじゃないかと思う。
    なんとなく、損した気分。
  • 満足度★★★★

    現代にも彼らはいると思う
    面白い舞台だった。
    現代において未だ革命を夢見ている集団。
    平田さんが書かれていたように、「過激派」は近くにいなくても、他の何がしかの集団は自分たちの近くにいるのではないか、または、自分がその一員なのではないかと考えさせられる。

    出てくる登場人物は共感しにくい、なぜそんな考え方をするのか、といった人たちばかり、それぞれが周りが見えてない様子に息苦しくなるばかり。

    背景の置物群はなかなか考えられていて面白かった。

    私が観た回は音響不備(ポンプが動かされた)のため劇中に異音が起こった。
    あまりにも長い時間だったので、私もほかの方と同じように「効果音」だと勘違い。しかもこれが上手く不安感をあおるようないい音だった皮肉。

  • 満足度★★★

    消化不良
    初めての青年団、期待が高すぎたのか満足することが出来なかった。
    『革命日記』という作品名から想像していた内容と、かなり違ったものだった。

    ネタバレBOX

    まず、隣人が自治会広報担当を増田に頼みにくる部分は、話の流れを断ち切るだけで全く不要と思う。

    一番の見せ場である、立花が革命家のリーダー佐々木を罵倒する場面は、迫真の演技だと感じたが、立花は客席に背を向けたままであった。せめて横顔だけでも見れるように何故しなかったのか、不思議に思う。

    曲がりなりにも、日本は民主主義国家で言論の自由もある。国民の支持を集めて国会で両院の過半数を取れば、平和的に自らの目指す政策を実現できることは、中学生でも分かることである。
    それなのに、自らの人生と命を懸け、他人の命も犠牲にして軍事革命を何故行おうと考えるのか、何に対して不条理を感じるのか、心の闇を明らかにしてほしかった。少なくとも本人達は、正しいことをやっていると考えているのだから。

    一人ひとりの俳優は、良い演技をしていたのだから、役者の人数をもっと少なくして内部対立を掘り下げて描けば、良い作品になったと思う。
  • 満足度★★★★★

    化石の記憶
     『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のような、連合赤軍の山岳ベース事件、あさま山荘事件や、『マイ・バック・ページ』の赤衛軍事件などの、過去の革命闘争を描いた物語ではない。『機動警察パトレイバー2 the movie』のような、近未来における自衛隊の蜂起など、日本に革命が起きうるとすればそれはどのような形を取るかというシミュレーションを行った物語でもない。
     これは、過去において確かに存在はしていたが、現在はすっかり時代遅れになった、現実から乖離し、観念的かつ独善的で、自己陶酔と視野狭窄に陥った、今でも「革命」などというものが本気で起こせるという妄想に取り憑かれてしまった、「現代の化石」とでも称するのがふさわしい愚か者たちの物語である。「オルグ」なんてコトバ、今どき使ってるのって、日教組くらいじゃないのか(笑)。

     登場人物たちを滑稽だと笑える観客は幸いだ。彼らのような愚かさを具象化したような存在は、その人の周囲には全くいないのだろう。
     しかし、必ずしも「革命家」でなくとも、彼らのような自己顕示欲の塊、自我肥大に陥ったナルシスト、他人を支配下に置くことで悦に入る精神的ファシストは、巷にはいくらでも存在している。そういう人間に関わらざるを得なくなった者にとっては、この物語を笑うことはできない。うっかりすれば、彼らの「夢想」に、こちらの「現実」が浸食される事態にもなりかねないからだ。

     あるいは、「彼ら自身」が、この舞台を観たとしたらどうであろう。彼らが登場人物たちを自分の分身であるように感じ、胸に刺さるものを憶えられたのならば、まだ幸せだろう。その場合、彼らには、自らの愚かさと向き合うことのできる精神的余地がある。しかし、「他山の石」と思えなかった時は恐ろしい。彼らは決して自らの過ちには気付かない。そして彼らの「愚かさ」がそのまま実行に移されても、それを止めることは誰にもできないのである。
     悲劇を回避する方法があるとすれば、まさしくこの物語が終わったところから始まるのだろう。しかしそれは、「取り返しの付かない事態」が生じて後のことである。

     題材自体にどうしても眼が行くが、この舞台では、現代口語演劇の方法論が、最も効果的に作用している。
     同時会話も、長い間も、観客に背を見せる演技も、この場合は自然さの演出と言うよりは、緊張感や逼塞感、重苦しさと言った、舞台空間を維持するために働いている。
     レッテル的に語られてきた「静かな演劇」を拒絶した「叫び」の部分も、登場人物たちのやるせなさと密接に結びついていて、批判的に語れることの多い「絵日記」的な表現から脱して、昇華されたものになっている。

    ネタバレBOX

     「私たちはオウムではないのか?」
     パンフレットに書かれた、平田オリザ氏のこの言葉を、事件が起きた1995年当時、自問自答した青年たちは決して少なくはなかった。
     学生運動など、とうに下火の時代である。「革命」を本気で唱える人間などいなかった。けれどもバブル崩壊後のモヤモヤとしたいらだちや鬱屈のような沈滞感から、何か一つ突き抜けたい、そういう空気が時代を覆っていた。
     オウム真理教が本気で世界を革命する気だったのかと言えば、それは否としか言えまい。アニメのタームを多く借りていたオウムは、存在自体がファンタジーに過ぎなかった。
     しかし、オウムに帰依した人々は、時代を打ち破る矛として「これだ」という感触を持ったのだろう。金銭も社会的地位も自分を満たしてくれない、「自分探し」の果てに、彼らが行き着いた先が、「精神的な生き甲斐」を提供してくれるオウムだった。
     その過程は、かつての学生運動の闘士たちの姿にも重なる。彼らは本当に共産主義革命が成ると信じていただろうか。信じていた者もいただろう。無理やり自己暗示をかけて信じ込もうとしていた者もいただろう。正義は自分たちにあると、正義が成らないはずはないと、そう考えるのが自然であった時代なのだ。学生の多くがその共同幻想の中に飲み込まれ、全国の大学で、デモとロックアウトが繰り返されていた。
     もっとも、そんな「夢」から醒めていた者もいた。「何かがおかしい」と気付いていた者もいた。
     しかし、連合赤軍は、その醒めた者たちを「総括」という名のもとに粛正した。オウムは「ポア」と呼んでいくつかの殺人と、地下鉄サリン事件を起こした。遡れば、戦前の思想統制、言論統制は、大杉栄を、小林多喜二を、そのほか多くの思想家を虐殺した。
     この類似は、「人間は過去の過ちに学び反省することなどできない。結局は同じ轍を踏み続ける」という哀しい真実を物語っている。
     「劇団も、演劇人も、彼らと同じなのではないか?」平田オリザの非凡さは、その組織の内側にいる者が最も気付きにくい、自らの思想の誤謬に眼を向けることができた点にある。
     
     物語の冒頭で、篠田は既に革命の計画についてこう発言している。
     「机上の空論でしょ?」
     少人数での空港と大使館の同時占拠など、実行不可能なことは素人にだって分かる。サイバーテロの方がずっと実効性があるにも関わらず、その方法を採れないのは、彼らの脳が「化石」だからだ。
     この革命計画は最初から瓦解が予測されている。にもかかわらず、彼らは自らの思想の呪縛に囚われて、計画を中止することができない。そもそもこの計画に無理があることに気付けない。
     後半、首謀者の佐々木は、民衆を啓蒙し煽動することが目的だと嘯くが、三島由紀夫の失敗が、ビジョンのないアジテートだけでは、人心を掌握することもできなければ、誰も行動に走らないことを見抜けなかったことにあることを理解していない。
     そうなのだ、彼らは、全共闘世代の革命家たちと同様に、革命を成したあとの具体的な政治、外交、経済、産業、文化その他、諸々の社会構築のための計画を、何一つ考えてはいなかったのだ。

     なのに、誰も、この無謀な計画を止められない。
     増田武雄は 「カルトはいいよなあ、金があって」と愚痴を言うが、つまり彼らは「金のないカルト」なのである。そしてその姿は、自尊心だけが肥大した、現代の演劇人たちの姿にも繋がってくる。
     増田典子が立花の「感情」を自己反省に基づいて批判する論理は、連合赤軍の永田洋子が、山岳ベース事件の時に遠山美枝子を「自己批判」させようとした時の論理と全く同じである。遠山美枝子は、後にリンチに遭い死亡した。立花の口から、当局に計画が漏れれば全ては水泡に帰する。観客は、どうしても立花の安否を気遣わないわけにはいかない。
     典子はまた、組織の実態に感づいた柳田から「粛正とかされちゃうんですか?」と聞かれた時に、「そんな時代じゃないし」と答える。しかしその時、計画に批判的だった篠田は、会合に現れなかった島崎に刺されているのである。その理由は判然としないが、彼らの組織もまた、何かのきっかけで簡単に崩壊してしまうことを暗示して、物語は終わる。

     アフタートークで、平田オリザ氏は、演劇人を革命家たちになぞらえたことを明言した上で、「集団が(劇団が)崩壊するのはたいてい金と女が原因です。若い世代は優しいからそれをうまく回避していますが」と冗談めかして説明した。
     しかしこれもまた、永田洋子の殺害の動機が、本人は「思想」の問題であると主張していたにもかかわらず、他のメンバーからは「女としての嫉妬」であると看破されてしまったように、「劇団の崩壊」もまた、当事者からは「思想的対立」が原因であると主張されることが多いのに対して、実態はきわめて下世話な理由に基づくことが多い事実を示唆している。

     平田氏は、自らを映す「鏡」として、この戯曲を書いた。
     それはもちろん、世の演劇人、劇団員たちにとっても「鏡」となる。
     戯画化されてはいるが、佐々木のような観念でしか演劇を語れない演出家、櫻井のような自己犠牲が格好いいことであるかのように錯覚している役者、山際のような劇団にすり寄ることで自己のステイタスを上げた気になっているスポンサーやシンパは、実際にいるのだ。
     しかし、彼らにこの舞台が「鏡」として見えるようなら、初めから自画自賛型の舞台を作ったり、賞賛したりはしないだろう。平田氏の、世の演劇人たちへの切々としたメッセージは殆ど届くことはあるまい。
  • 満足度★★★

    観てきた。
    革命というのはこういうことだったのですね。初演の時代背景は理解できました。ただ、キャラはもう少し少なくてもいいかなと。

    ネタバレBOX

    チョット遅れて入ってしまったので、最初は、いや、普通の世帯の話にしか見えなかった。残念。隣人の設定がいらないかなあと。
  • 満足度★★★★

    洗練された舞台
    新人団員のための作品だったらしいけど、私たちの年代には
    激しく心揺さぶられる内容だった。舞台は現代になっていたけれど、
    「革命」が「宗教」や「芸術」に置き換わっても同じだったと。
    討論している内容はちんぷんかんぷんでわからないけど、
    何か「集まって」行動をしたいという欲求は普遍だと思う。
    一人狼って理想高いけど、現実には無理だよ。

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