コクーン歌舞伎第十二弾 盟三五大切 公演情報 コクーン歌舞伎第十二弾 盟三五大切」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★★

    すくわれないなあ。
    みんな救われないあたりが、かえってきもちよいわい。
    菊之助、綺麗だし可愛らしいし芸者三のあだっぽいところもあるしで眼複。

  • 満足度★★★★

    初体験で感じたこと
    コクーンにはずっと距離を置いてきて今回が初体験。

    観終わってのまず最初の感想は、勝手な想像で距離を置いてきたのだが、それは自分にとってはよかったということ。

    しじゅう同じ座組みで、名作を繰り返し演じていてたまに刺激を求めたい歌舞伎役者と、何か新しいことやってみたいが、古典で冒険するって楽しそう、という演出家、敷居が高そうと敬遠してきた歌舞伎を身近に感じられそうだという現代の観客の三者の思惑が合致したのがコクーン歌舞伎なのだろう。

    SUSHIのカリフォルニア巻きを美味いと思うかどうかというと、私はアイディアとしては面白いし、好きな人は食べたらよいと思うが、自分はあえて食したいとは思わないということだ。

    昭和のある時期から、歌舞伎の劇評も近代の純文学的難解な解釈をする劇評家が現れて、人気を得たりしたが、私などはそういう解釈はとんと不得手で、字も読めない町人が観て楽しんでいたのが歌舞伎なんだ、という思いが強く、七面倒くさい心理解釈は、現代劇だけでじゅうぶんという気がしてしまう。

    もちろん上演意義は感じる。

    本編を観てる人が、へぇー、こういう演出もあるのかと思うぶんにはいいが、これしか観なかったとしたら、ちょっと残念な気もする。

    もともと、この作品は、南北自身が書いた「東海道四谷怪談」や上方芝居の「五大力物」のパロディーとして当たったのだが、そういう意味では、串田歌舞伎も一種のパロディーと捉えられなくもない。

    先日の花組芝居の「番町皿屋敷」のときにも書いたが、ぜひ、純歌舞伎の「盟三五大切」、さらには、この元となった「五大力恋緘」のほうも観ていただくと、よりこの物語の解釈が深まると思う。
    ついでに「今様薩摩歌」も観ると一層混乱していって楽しいと思う(笑)。

    ネタバレBOX

    小万の腕の彫り物の「五大力」を「三五大切」と書き換える趣向は、「五大力恋緘」を映しており、元が上方の話だから、住吉大社の五大力信仰や手紙の封じ目にかけた願いが遊女の心中立てに転用されたとか、そういう「遊び」がわからないとこの芝居は面白くないのだが、プログラムにもそういう解説がほとんどされていないのは残念だった。

    三五郎が死ぬ間際に女房の名前の「お六」と写実に呼ばないのも、あくまで「五大力」といえば「小万」を意識しているからだと思う。


    小万の菊之助はふとしたところにお父さんの若い頃やおじいさんの芸風をも思わせるが、意外に2人よりもこってりとした味があり、それが南北物には合っていて、玉三郎が南北物で見せる江戸前の伝法さとも違う個性を感じた。

    三五郎の勘太郎は、父の勘三郎によく似ていて、こういう南北物に必ず登場する小悪党の愛嬌がよく出ている一方、忠義者の側面もきちんと出しているのがさすが。そうでないとただのお調子者のチンピラになってしまう。
    小万を惚れ抜かせる色気もあり、この若さでこれだけ演じられるのは努力もあろうが、やはり名優の血筋だと痛感する。

    源五兵衛の橋之助は、辛抱立ち役から殺人鬼へと変化する難しい役を丁寧に見せた。いい人でも豹変するということだが、他方で、これは「東海道四谷怪談」の世界とも微妙につながっていて、そういう不気味さを橋之助は体現できていた。

    源五兵衛の忠義な若党八右衛門を橋之助の息子で丸い体つきの国生がけなげに演じている。彼のゆっくりとしたしゃべりかたは古典歌舞伎の子役の口調が多分に残っていて、この芝居の中では少し浮いた印象に感じてしまう。
    年齢的にも、古典歌舞伎の修行が精いっぱいという時期だと思うし、コクーン歌舞伎に出すのは技量的に酷な気がした。
    橋之助は子役の頃から達者で、10歳くらいで法界坊の丁稚を器用自在に演じて拍手をさらった人だが、国生はおっとりしたお母さん(三田寛子)似なのかもしれない。


    坂東彌十郎は家主と富森助右衛門の2役だが、若手の頃に多く観たせいか、この人もそういう年になったかと感慨深い。
    助右衛門が忠臣蔵の人物らしく見え、よかった。

    伊之助の片岡亀蔵も名脇役だった父の片市っぁんこと片岡市蔵を彷彿とさせる。

    笹野高史は三五郎の父、了心と道化役ますます坊主の2役だが、了心がなかなか良かった。
    ますます坊主は、「メルトダウン」だの、「シーベルト」を「シーボルト」と言っておどけていたが、なぜこんな深刻な話題を時事ネタとして笑いにしなくてはいけないのかわからない。かえって冷やっとさせられた。

    新聞の劇評ではチェロ演奏が効果的と褒めていたが違和感もあった。
    コクーン歌舞伎は初めてだっただけに、幕開きは印象派の絵のような舞台美術とともに「ほぅー」と思っていたのだが。
    ツケ打ちも使うところと使わないで音楽伴奏のところがあり、本来「バッタリ」で見栄を切るところが、ホワーンとなってしまう。

    また、源五兵衛が二軒茶屋で五人切りに及ぶこの惨劇が人生の契機となることを強調するあまり、走馬灯のようにグルグル回り舞台で追想にも持っていくのが、女の首の前で据え膳を食って仇討に出立するという歌舞伎特有の異様な光景をぼかしてしまっている印象。
    現に「源五兵衛の殺人は夢想の世界」などと解説してる劇評もあり、新演出の難しいところだと思った。

    本水の雨を降らせるが、あまり本水である必要を感じなかった。

    忠義のために悪事を働いたら、かえって主の仇となるというよくある歌舞伎のパターンだが、違う名前を名乗っているから気づかなかったり、案外、似たような因縁話は現代にもあるのかもしれないと、ネット社会に思いを馳せたりもした。

  • 満足度★★★

    やや喜劇寄りの三五大切
    この演目も、大好きな作品の一つで、私は、晩年の辰之助の鬼気迫る殺しの場の凄みある演技が未だに目に焼きついて離れません。

    南北という作家は、こういう悲劇を、途中に緩和するように、喜劇を挟むことによって、より、壮絶な殺しの場や主人公の苦渋を焙り出す劇作が得意なのですが、このコクーン版では、やや喜劇が表に出すぎました。

    チェロの演奏BGMが、歌舞伎の様式美に水を差し、ところどころ、役者の演技を殺してしまったのが非常に残念。
    2時間サスペンスじゃないんだから、やはり、歌舞伎には、こういう音楽効果は不向きだと感じました。

    ただ、歌舞伎の公演時とは大きく異なるラストの見せ方は、秀逸。
    コクーン歌舞伎は、こういう部分で、斬新さを出してほしいと思いました。

    笹野さんの台詞で、原発や放射能ネタで、笑いを取る部分は、どうしても、心情的に反発を覚えました。
    江戸の時代から、歌舞伎に時事ネタを織り込むのは、遊びとして、大衆に喜ばれていたことですが、やはり、話題にしてはいけない問題もあると思うのです。

    最後に、勘三郎さんのお姿が見られて、感無量でした。


    それにしても、コクーンというのは、よっぽど、私には、鬼門の劇場なのか、またしても、私の席に荷物が置かれていて、20番からの4列連番の観客に、21番からの席と勘違いされた挙句、私は、彼女達が全員揃い、各自、自席を確認するまで、他人の席を占拠してる気が変なおばさん扱いを受け、事実が判明後も謝罪もされず、笑い飛ばされ、観劇前から大変不快でなりませんでした。これが、開演後に入ったなら、まあt先日の二の舞で、表に出されて待機させられるところでしたから、この間よりはまだましかもしれませんが…。
    でも、案の定、このおばさん達も、終始、和やかに私語されていました。

    昔のように、観客は、その芝居を観たくて来た人という、当たり前の概念はもはや過去の遺産なのかと、悲しくなります。

    ネタバレBOX

    ついこの間生まれたばかりのような気がしていた国生さんが、もう八右衛門役をなさる年齢になられたとは、感慨深く思いました。

    もちろん、まだ芸は荒いけれど、でも、この年齢で、主人を思う気持ちを懸命に演じられて、胸を打たれました。

    勘太郎さんは、益々、芸も、見た目もお父上そっくりで、何を演じても、その真摯さに感銘を受けますが、勘太郎さんは、むしろ、源五兵衛で観てみたいと思わせられました。

    菊之助さんは、一昨年の三五郎も良かったけれど、小万の内面まで、鮮やかに映し出し、女形として、大変成長されたなあと感嘆しました。
    10代の頃は、裾捌きが勢いが良くて、とても女らしさを感じないところがありましたが、近来稀に見る、素晴らしい小万さんでした。

    橋之助さんは、姿形は申し分ないのですが、あの心を振り絞るような「鬼じゃ」の台詞に、まだ哀愁が足りない気がしました。

    また、これは演出の問題ですが、五人切の場は、三五郎と小万がすぐにあっさりと逃げるので、もう少し、この場は、原作通り、狂気の源五兵衛の殺人場面を見せる方が、悲劇性が強まるように感じました。

    どうも、串田さんの演出は、笑わせる方に重きが置かれ、人物の内面描写が希薄になったように思います。
    何か、せっかくの名作が、台無しと言うか、まるで、ラスベガスで、有名ミュージカルのダイジェスト版を観ると、こんな感じかな?という雰囲気。

    この名作は、やはり、正当な歌舞伎の舞台で、もう一度、ご覧頂きたいなと、初見の方にお願いしたく思います。

    「五大力」の入れ墨が、「三五大切」に変化する件、若い観客に理解できるかと、やや不安が募りました。

    あの意味がわからないと、この芝居の哀切さは、きっと半分になってしまうから…。

    それと、これは、原作戯曲を確認できないので、不確かですが、最後に、三五郎が、死ぬ間際に、「小万、小万…」と叫ぶのですが、小万というのは、お座敷に出る時の源治名で、三五郎にとっては、妻の名はお六なので、小万と叫ぶのは不自然ではないかなと感じました。
  • 満足度★★★★

    魅せる演目
    劇場入って、提灯が見当たらなかったのがちょっと淋しかった。

    全体的に美しいが重苦しいシェイクスピア悲劇みたいな印象、チェロ演奏がその世界を嘆美で現代劇な世界に変えていた感じで、魅せる歌舞伎だった。都合良く絵図面や百両が手に入る過程は、歌舞伎的な話の展開と思ったw。
    騙しと恐怖で正気を失い、怒りを爆発させるでなく内に秘め、雨の中、桟敷を無言で彷徨い歩く橋之助丈がカッコ怖く、迫力があった。
    小万と三五郎カップル、立ち振る舞いが綺麗で可愛かった。またこの二人の共演があったら見てみたい。なかなか難しいと思うけど…。

    因果応報やら刃傷沙汰、優美さとか見とれる様な演目も良いんだけど、コクーン歌舞伎はもうちょっと元気がある演目をやって欲しい。再演ものはもう良いんじゃないかな。といってタイトルがすらすら出る程、歌舞伎を見てないんですが。すみません。

    ネタバレBOX

    源五郎の人が好いのか騙されて、その挙げ句下男が主人をかばい、正気を失っていく様が怖く、小万の首をそばに置きお供え飯を喰らう表情と行動が何とも恨みがぽっくって・・それでも小万の首は帯に包み大切に懐に入れてる行動とか見てると、やっぱり一人の女を愛おしく想っていたんだな、と分かる。
    粋な芸者の小万が母となり幼子を扱う振る舞い方、源五郎に切られる無常の落差。
    三五郎は親孝行と忠義が報われず、二人の関連が分かった時点で何とも悲しい結末、悲惨なのに根っからの悪人がいないなんとも道理のいかない話。これが歌舞伎ってやつなのか・・自分、まだまだ見る修行が足りんのね。
    最後、舞台が廻りそれまでの生きていた人、亡くなった人が走馬灯のように現れては消え、しかし人生を謳歌している様な表情に少しホッとした。
    討ち入りの声が勘三郎丈でしたが、三味線とチェロの一角でじっと舞台を見ていたのが印象的でした。
    下男役の国生丈は、まだまだ頑張れって感じw。

    堪能したけど、次の演目は元気に劇場出て行ける題材にして欲しい!
  • 201106061900
    201106061900@シアターコクーン

  • 満足度★★★★★

    初コクーン歌舞伎
    ほぼほぼ正面の二階席。
    全体を見渡せる席でした。

    お客さんと、役者の距離がとっても近い気がしました。
    それでいてきちんと線を引く所はちゃんとしている。

    小劇場しか見た事のないわたしにとっては衝撃的な、そして刺激的な時間でした。
    最後の方は心に刺さるものがひしひしと感じられた。
    言葉じゃなくて、もっとちがうもので泣かされました。

    私の偏見ですが、歌舞伎を見て泣くことはあるのかと思っていましたが
    ダイレクトに心に来るものがそこにはあって
    感動とか、刹那とか、もう色々感じられて今後の自分の勉強になったひとときでした。
    観に行けて良かった。

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