満足度★★★
やや喜劇寄りの三五大切
この演目も、大好きな作品の一つで、私は、晩年の辰之助の鬼気迫る殺しの場の凄みある演技が未だに目に焼きついて離れません。
南北という作家は、こういう悲劇を、途中に緩和するように、喜劇を挟むことによって、より、壮絶な殺しの場や主人公の苦渋を焙り出す劇作が得意なのですが、このコクーン版では、やや喜劇が表に出すぎました。
チェロの演奏BGMが、歌舞伎の様式美に水を差し、ところどころ、役者の演技を殺してしまったのが非常に残念。
2時間サスペンスじゃないんだから、やはり、歌舞伎には、こういう音楽効果は不向きだと感じました。
ただ、歌舞伎の公演時とは大きく異なるラストの見せ方は、秀逸。
コクーン歌舞伎は、こういう部分で、斬新さを出してほしいと思いました。
笹野さんの台詞で、原発や放射能ネタで、笑いを取る部分は、どうしても、心情的に反発を覚えました。
江戸の時代から、歌舞伎に時事ネタを織り込むのは、遊びとして、大衆に喜ばれていたことですが、やはり、話題にしてはいけない問題もあると思うのです。
最後に、勘三郎さんのお姿が見られて、感無量でした。
それにしても、コクーンというのは、よっぽど、私には、鬼門の劇場なのか、またしても、私の席に荷物が置かれていて、20番からの4列連番の観客に、21番からの席と勘違いされた挙句、私は、彼女達が全員揃い、各自、自席を確認するまで、他人の席を占拠してる気が変なおばさん扱いを受け、事実が判明後も謝罪もされず、笑い飛ばされ、観劇前から大変不快でなりませんでした。これが、開演後に入ったなら、まあt先日の二の舞で、表に出されて待機させられるところでしたから、この間よりはまだましかもしれませんが…。
でも、案の定、このおばさん達も、終始、和やかに私語されていました。
昔のように、観客は、その芝居を観たくて来た人という、当たり前の概念はもはや過去の遺産なのかと、悲しくなります。
2011/06/28 07:08
2011/06/27 13:53
2011/06/27 04:02
ご丁寧なる返信、痛み入ります。
>あれは、そのまま、仇討ちに出立するのでは、今の観客には?でしょうし、源五兵衛が、諦観の中で、過去を走馬灯のように回想するのを舞台上に表現したものと、私は解釈したのですが…。
そうですよね?私もそうだと思っています。その批評家はコクーンの初演も観ているそうで、比較して書いていましたが、「殺人も夢の中といえる」なんて飛躍解釈されると、こっちがまちがっているのかと頭がおかしくなります(笑)。
その批評家も南北の原作はわかったうえで書いているようで、串田版があの回想を強調して演出しているので、今回はそういう新解釈なのだろうみたいなことを書いていました。串田さんはどういう意図か知りませんが。
ただ、そういう新解釈をされてしまうと、原作を知らない観客に誤解を与えそうです。現に、「あれ、夢なんだよね」なんておっしゃる若い御嬢さんが会場にいましたからね。
私へのコメント欄でお尋ねの件は、私の記憶では原作通りだと思います。南北が写実に「お六」と言わせず、「小万」と言わせたのは、「五大力」の趣向をきかせたからではないかと。
というのも、今回は源五兵衛に寄ったような演出ですが、本来「五大力もの」は、「男への心中立てをする女の意気地」を骨子にした芝居で、「小万」が主役なので。
ある若い役者さんに「盟三五大切」の話をしまして、これを下敷きに、古典のアレンジに強い作家に新作を書いてもらい、小万を現代人と2役で「女形」で演じたらどうかしらと提案したんです。で、2人でああでもない、こうでもないと妄想話を展開していたら、興味をもってくださり、ちょうどこの公演があったので、観てもらいましたが、「とても面白い戯曲だと思うので、やはり、これは純歌舞伎で拝見したいですね」と言われ、安堵しました。