「堀川波鼓」 「ヂアロオグ・プランタニエ」 「霊感少女ヒドミ」 公演情報 「堀川波鼓」 「ヂアロオグ・プランタニエ」 「霊感少女ヒドミ」」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 1.5
1-6件 / 6件中
  • 短編3作
    入場後すぐ目に入る舞台と客席。今回も双方向から観れるようにしているのだとわかり期待したが、作品中は目新しい効果は見えなかった。現代口語も2作・3作はいいとして、1本目はチト違和感。上演の意図は有るとは思うが、個人的には1本目を深くして観せてもらいたく思った。

    ネタバレBOX

    「【ネタバレ】ではありませんが」
    ホールのファンの音、最初は音響の一環かと思っていたが、今回のような静かな芝居では途中からは必要のない雑音であった。調整を期待す。それと、となりに座ったお客さんが酒臭く、途中で気持ち悪くなり芝居に集中できなかったのも別の意味で残念な一つ。
  • 満足度

    演劇やってるんだよね?
     板の上に立って、覚えた台詞を喋るだけなら誰にでもできる。
     そこにいるのが「俳優」であり、物語を演劇とする「演出」が存在するのであれば、そこにはその劇団にしか表現できない「個性」(=生まれながらのものではなくて、新しく生み出されるオリジナルとしての創作)が発生するはずだ。しかしそれがない。
     近松門左衛門と岸田國士と岩井秀人という組み合わせは面白いと思った。だからこそ観に来た。それが結果は単に芝居を三本並べただけの演出不在。いったいこの三本に、劇団は何を見出し、何を描きたいと考えたのだろうか?
     近松を現代語(口語演劇にもなっていない)で演じていることにも意味がないし、岸田は「対話劇」になり損ねている。岩井に至っては、戯曲自体が使い古された妄想話で、岩井作品の中でも質が低い。それをだらだらと演じているだけだ。それでも適当に差し挟まれる「くすぐり」で観客は笑っているが、そういう表面的な笑いに囚われている観客は、テーマが語られる部分では鼾をかいている。
     ある程度の演劇経験はある劇団だから、各自それなりに勉強もしてきたのだろうとは思う。しかしただ芝居を観て、それで感銘を受けただけでは自ら「演劇」を作り出すことはできない。劣化コピーを拡大再生産させるだけだ。「また一つ化けたなあ」なんて阿呆な批評を真に受けていたら、今後もくだらない芝居を垂れ流すだけになるだろう。

    ネタバレBOX

     『堀川波鼓』を現代語で演じるについて、どのような「戦略」があったのだろうか。単に「原語のままでは感情移入して喋れない」という理由でそのようにしたのかもしれないが、それは「引き算の公式」で、決して誉められたものではない。「言葉」は時代と文化と密接な関係がある。パロディならともかくも、「女敵討ち」という、現代ならば、寝取られ夫が情けない、としか受け取られない現象を、「武士の一分」でもってやりおおせねばならなかった当時の武士の心情は、とても現代語で表現できるものではない。
     『ヂアロオグ・プランタニエ』は、岸田國士の戯曲の中でも、短いながら実験的な対話劇である。二人の女の会話は通常の会話ではない。相手の言葉を裏返し、更にそれを裏返ししていくことで、台詞が重層化していく。さながらラヴェルの『ボレロ』のような、「台詞によるオスティナート」を試みているのだ。浮世離れした台詞回しは、戯曲発表当時でもやはり浮世離れしていたので、これをそのまま喋ったところでリズムは生まれない。それが演出家には読み取れていないから、ダラダラとした印象しか与えない。
     『霊感少女ヒドミ』はもう、SFではすっかり使い古された「胡蝶の夢」モチーフを、岩井秀人が恐らくは先行作を特に参照するでもなく思いつきで書いただけの散漫な作品だ。ハイバイで演じていたとしてもたいして面白くはならなかっただろうが、近松と岸田のあとにこれを置いたせいでますます意味が不明になってしまった。

     ここはあえて好意的に、この三本を並べて見せたのは、近松の虚実皮膜論、これが現代演劇にまで連綿と続いていることを証明してみせようとした実験的な舞台だったと仮定してみよう。
     いや、この三本を並べられれば、ちょっとても演劇をかじったことがある人間ならきっとそれが目的なのだろうと予想する。近松の「女敵討ち」の物語は、現実がありうべからざる偶然で瓦解していく過程を描く。岸田の女二人の対話は、初めから現実を対話のための題材にしかしていない。岩井の戯曲の散漫さは、この2本と巧く組み合わせることによって、かえって演劇そのものの虚構性を浮き掘りにすることもできただろう。
     しかしそのためには、テーマ自体は共通していても、それぞれの戯曲のスタイルは、それぞれの時代を象徴するものとして演出しなければならない。近松に現代語を喋らせるべきではないのだ。
     単に三本の戯曲を並べるだけなのも芸がない。それぞれの戯曲を解体し、近松や岸田の人物を、岩井のドラマの中に“紛れ込ませる”くらいの冒険を行ってもよかったのではないか。現実と虚構がせめぎ合う物語を描くのであれば、それくらいの発想があってもよかった。

     この劇団が特に新しい演劇を模索したいわけではなく、従来あるものをなぞるだけで満足しているのであればそれはそれで構いはしないが、戯曲の選択だけを見ていると、必ずしもそうではないような気もするのである。意欲的なのに結果が伴わないのだとすれば、それはやはり演劇を観る努力を怠ってきたか、演劇するのに向いてないかのどちらかってことになるんじゃなかろうかね。
  • 満足度

    なぜ短編3本としたのかわからない
    3つの作品をやることで、それぞれに相関性が生まれるわけでもなく、むしろ一つ一つに時間をかけることが出来なかったためか、作品の面白さも消えている。

    「報われない思い」を描くというなら、近松作品は酷い改悪でどこにそんなものがあったのかわからないし、岸田作品も本来あったものが消えている。岩井作品は見たまま「報われない思い」だが、表面的。

    やっつけ仕事ではなく、きちんと作品と向き合って作ってほしい。
    作品の読み込みもせず、表面だけでやられたのでは、その作家の評価を落とすことにすらなりかねないと思うのだが。



    個人的意見ではあるが、近松・岸田・岩井と並べたのでは、岩井作品だけ作品のレベルが格段に落ちてバランスが悪いと思うのだが。
    現代の作家から同じテーマで、ということで探すなら、他にも候補作はあるように思う。

  • 満足度★★★

    組み合わせがおもしろい
    どれもどろどろとした内容のものばかりだけど、
    さらっと表現されていたのは、私にはよかった。

    ネタバレBOX

    「堀川波鼓」中嶋さんがいろっぽかった。
    「ヂアロオグ・プランタニエ」凄まじい女の戦い、実際にとっくみあいしてほしかった。
    「霊感少女ヒドミ」ヒデミがあまりに哀れで同年代としていたたまれなかった^^;
  • 満足度

    演出、ちゃんと勉強しろよ
    思いつきを並べてふざけているといった趣で、上演戯曲のよさを全く引き出せていないで、殺してしまっている公演だった。
    演出は、勉強が足りない。もっとキチンと戯曲に向かい合うべきだ。

    少し詳しい感想は、次に。
    http://f-e-now.ciao.jp/20110501.html

  • 面白かったですが
    近松を口語体にしてみたり、ヒドミが中年のおじさんだったり。ある意味期待通り。

    ネタバレBOX

    どの作品も原作のおもしろさを消してしまっていた感がありました。

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