満足度★★
「共通認識」というのは難しい
-明日、水の底に沈む町-
町の住人達はバックギャモンに興じつつも、閉ざされた心を開く事はない。
そこへ現れたさすらいのギャンブラー鬼山。
彼は消え行く町に何を見るのか。
さまざまな思い、さまざまな理由。
そしてそれぞれの決意。
失われた幸せを賭け、バックギャモンに臨む。
(~以上、公演パンフレットより~)
度重なる洪水によって被害を受け疲弊し、寂れた町。
住人は一人、また一人と町を去り、遂には町はダムの底に沈む事が決定する。
反対派として町に居座り抵抗する極少数の人。
さすらいのギャンブラー、抵抗者達を排除しようとする行政側の人間達。
設定からみてもそうだが、全体的に西部劇風のテイストが流れていた。
特にさすらいのギャンブラー鬼山と、町の孤高のギャンブラー・レイはそのものズバリだった。
この二人の掛け合い、或いは意味深なセリフを吐露する様は、なかなかに渋いモノがあった。
作品の全体像としては、個人的には好きな部類に属していた。
特にラストの救われなさに関しては、もっと悲惨あるいは絶望的でもよかったぐらいだ。
だが芝居の構成や演出、また技術的な細かな部分では不満や疑問も残った。
まずは冒頭の映像によるスタート。
水害の模様をモノクロでプロジェクター投影し、タイトル・出演者名を紹介。
しかしスクリーン投射ではなく直接舞台に投射した為、非常に見づらかった。
開演直前にプロジェクター操作トラブルか何かもあったが、テストしていたのか疑問。
注視しても視認できるかできないか?・・・のような文字は、かえって無かった方がよかった。
ナレーションの声や入り方は良かったので、余計に映像が邪魔に思えてしまった。
冒頭のこの映像によりイライラさせられた感覚は、その後の観劇に多大な悪影響を残した。
登場人物の使われ方にも勿体無さを感じる部分が多々あった。
例えば「不思議キャラ」として登場する「ハテコ」。
無意味に元気かつ天真爛漫そうなキャラは、芝居の中で浮き気味だが面白そうだった。
しかし途中から水害のトラウマを抱えた一人の女の子・・・になりきってしまう。
それであれば、もっと切り替わる瞬間に何か強烈な印象が残ればよかったのだけれども。
いつの間にか気付いたら普通の女の子になってしまっていた印象がある。
「孤高のギャンブラー」のレイちゃん。
演じる女優さんのちょっとハスキーがかった声質が好みで、とてもいい印象だった。
スタイルもよくカッコよかったので大いに期待し、全体としてはそれで通っていてよかった。
しかし「渋い」はずのキャラが途中でフテくされ始めたり、逃げ腰になったりするのは残念だった。
特に「自分が逃げ出した勝負」を鬼山が代打ちしてる最中にその場から姿を消したのは・・・。
その「途中退場」に展開上の意味を見出しにくく、疑問・違和感として残ってしまった。
ギャグ混じりに嫌味なセリフを吐いていく女課長の「円島」。
ギャグの寒さや間合いの変な感じはよかったが、マジメな会話と冗談との境目が薄かった。
そこのメリハリがもっとあれば活きた気がする。
あとラストの大勝負を「私がやる!」と言って結局やらなかった・・・という件は不完全燃焼感があった。
キャラの立ち位置や設定は面白かったが、話の主軸との絡み合いにおいて消化不良な印象があった。
一番残念な気がしたのは、ヘッポコ勝負師「茶々田」だった。
最初から最後まで「残念なキャラ」でいた彼が、実は最もラストで大きく絡んでくる。
その展開は実は気持ちいいのだけれど、そのいい感じのラストにもっていくまでの課程が問題。
芝居の最初から最後まで、とにかくこの茶々田が「喋り過ぎる」というのが最大のネック。
早口でまくしたて、誰の会話にも首をつっこんだりかき回したり、とにかく忙しい。
芝居の3分の2は彼が喋っていた・・・ぐらいの印象が残っているほど。
その結果、彼の発言に対する注意力は散漫になってしまった。
例えば普段の会話のテンションをもっと低くし、バックギャモンの時だけ強烈に上げたらどうだったか?
その彼がラストで自分の身に起きた不幸を大声で吐露したらどう感じただろうか?
芝居の流れの中でのテンションのメリハリをつければ、ラストで鳥肌がたったに違いないと感じた。
上演時間90分ほどの作品にしてはセリフの量が多すぎたのではないか?と感じた。
「茶々田」に関しては特にそうだが、それ以外のキャラも少し「喋り過ぎ」な印象がある。
それが「会話劇」としてならばいいが、どちらかというと説明セリフが多かった気がする。
観客としての自分の立場に問題がなかった・・・とも言い切れない。
たとえばこの作品の背景には確実に「長崎の大水害」がある。
そしてその事はモダン館本拠地である長崎や、近県である福岡では常識的な共通感覚に違いない。
けれど山陰から観に来ていた自分・・・には、やはり即座にピンとくるイメージが無かったのは問題だ。
やはり地方での演劇にはその土地柄や共通感覚といったものは非常に重要だと痛感した。
なので、今回の自分の観劇記の劇評としての部分には難点がある・・・とも思う。
しかし「自分が強く思っていることを他者に伝える」というのは、非常に難しい。
住んでいる地域が違えば、世代が違えば、趣味が違えば、そこに「共通の認識」は成立し難くなる。
その共通認識を前提として伝えようとすると伝わらなくなったり・・・。
或いはその共通認識を構築しようとすると説明に終始してしまうこととなったり・・・。
その辺りを過不足なくきちんと整合させる・・・ということがいかに困難なことか。
そういったことを、終演後に立ち寄った屋台で呑みながら考え続けた5/1の夜・・・となった。
今回、初めての西鉄ホール、初めての博多での観劇となった。
また機会があれば是非、博多に芝居を観に行きたいと思った。
そして出来れば、長崎や熊本など九州の他の県にも観に行ければ・・・とも思った。
いや、本当に出来れば・・・なのだけれども・・・。
最後になるが、今回の観劇にあたって不躾な要請に応じてくれた白濱氏に感謝。
カーテンコールでは、芝居に対する氏の熱い思いが伝わってきた。
西鉄ホール
演劇人なら誰もがめざすであろう西鉄ホールで、必要以上に
気負った場面がなかったとは言えないかも。早口なセリフや
大声でどなるところは広い会場に対しての対応だったかもしれない。
再演なので新鮮だとは言えないが、思いの詰まった作品だと思う。
私も長崎の大洪水は知っているので、胸につまるものはあるのだけど、
他人へその思いを伝えることの難しさ、それを作品にする厳しさを実感する。
演劇として何かを訴えるものを作る方向性もいいけど、
演者と観客が一緒に楽しめるものもまた手がけていってほしい。
満足度★
酷い
最初に映像が流れ、その後、あまりにもわざとらしく喋る人々。
これは何かの回想シーンか、それともどんな意味が?
と思うが、10分近くたてばそんな意味は無かったことに嫌でも気付く。
まるでそこが西部劇の酒場でもあるかのような喋りを全員が行う。
学芸会のような動き、とことん間を取らないせりふ回し。
苦痛で仕方がなかった。
そうなってくると音響ミスなども目立って感じる。
私の見識が無いだけで本当はきちんと意味のある舞台なのだったらいいが・・・。