人形演劇”銀河鉄道の夜” 公演情報 人形演劇”銀河鉄道の夜”」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.3
1-3件 / 3件中
  • 満足度★★★

    『銀河鉄道の夜』の夢
    本作は『銀河鉄道の夜』を熟知していることを前提に作られた芝居だそうで、原作を知らない人には物語の流れがわかりにくいかもしれない。ということを書いた注意書きのような紙がパンフレットに挟まっていたので、それはそれで親切だなと思いました。私も決して『銀河鉄道の夜』について熟知しているとは言えず、ストーリーを思い出しつつ、「あてはめながら観る」という感じでした。
    劇化されたものを数多く観ている人にとっては、原作をなぞるかたちの上演では新鮮味がないと判断されたのでしょうか。
    ひとことで感想を表現すれば、私は『銀河鉄道の夜』の内容が出てきた“夢”を見ているような気分で、観劇前に想像していた内容とはだいぶ違ったものでした。
    『銀河鉄道の夜』の世界を人形演劇としていかに表現するかということよりも、人形の遣い手にもスポットを当てたいという日頃の黒谷さんの想いがまさっているような印象でした。詳しくはネタバレで。

    ネタバレBOX

    原作を熟知した人にとっては「宝探しの楽しみがあります」と注意書きにありました。冒頭の赤い果実の皮が破れ、人が出てくる場面。なかなか面白かったのですが、最初、ほおずきかなーと思い、原作に出てくる果実は林檎とくるみの実なので「じゃあ、これはどっち?」なんて考えてしまって(笑)。また、必ずしも原作通りの時系列で描かれていないため、場面ごとに「?」がいっぱいになってしまうのが困りました。汽車ひとつとっても、ミニチュアの汽車のほか、手筒状の汽車の中に人形を入れて動かしたり、人間で汽車の動きを表現するなど、多様です。黒谷さんの考えでは、ジョバンニとカムパネルラの人形は単なる「人形」ではなく、俳優として演技をするとのことでしたが、観た限り、俳優にはなりえていないように思えました。だからといって、人形の遣い手が分身としてうまく機能しているとも言いがたく、人形のジョバンニとカムパネルラよりも、人間のパフォーマーたちの動きに気をとられてしまいがちでした。主役2人の人形が造形的にも素晴らしく、魅力的なので、使い方が中途半端に思えたのは残念でした。シーンがぶつ切りのようになっているため、最後、ジョバンニが駆け出していく原作では感動的なシーンも何か唐突に見え、いかにも人間が人形をカタカタ動かしているように見えてしまいました。『銀河鉄道の夜』は、彼らと共に旅をしているかのような一体感が魅力なのですが、それが体感できませんでした。そして、ジョバンニとカムパネルラの友情や、ザネリの事件がはっきりと描かれないため、肝心のテーマがぼやけてしまった気がします。エピソードが浮遊する中で、2人の人形も浮遊しているという感じでした。原作ではジョバンニが心の中で感じる「鳥を捕る人」と「野原の菓子屋」の二面性を、実際に俳優と俳優が使う「小道具としての人形」で表現した場面は面白かったです。しかし、これも原作を知らない人が見たら、よく意味がわからなかったと思います。
    この芝居を観たあとに、かねてよりほしかったアート作家清川あさみさんの絵本『銀河鉄道の夜』(リトルモア)を本屋で購入しました。ビーズ、刺繍、紙、布などを使って原作の世界を表現した美しい絵本ですが、清川さんが紙や布で作ったジョバンニとカムパネルラのほうが、この人形よりよほど「人間」らしく見え、宝物のように感じました。新聞の書評でも最近取り上げられているので、興味のある原作ファンはぜひ一度手にとってごらんになることをお勧めします。
    黒谷さんは、日本の人形劇における「出遣い」への不満を感じて、人形遣いと人形を同等に扱う演劇を作ろうと努力されていることがせんがわ劇場の広報でも紹介されています。このあたりの事情は、日本の人形演劇の文化の特徴でもあり、代表的な「文楽(人形浄瑠璃)」では、いまだに主遣いの人形遣いが黒子でなく顔を出す「出遣い」について異を唱え、名指しで非難する評論家がいることでもわかります。しかし、これは、人形浄瑠璃が本来、義太夫の語りと三味線が主で、人形は従であり、序列も人形遣いが三番目ということが原因とも言えます。最近は文楽人形の美しさに注目が集まり、人形の動きを観る客が主流になりましたが、本来は人形は脇役でした。ですから、中には「きょうびの人形遣いには、三味線は頭(かしら。人形のこと)に合わせてくれとか言う勘違いもおって、困ります。人形が合わせるのが筋でっせ」と苦言を呈する太夫さんもおられるほどです。
    ともあれ、文楽においては、たとえ、主遣いが黒子ではなく、紋付や裃を着て出遣いをしても、人形の演技はあくまでも俳優として立派に成立しています。それに比べ、今回のお芝居では、人形を遣う人も俳優の演技とは程遠く、人形もあくまで人形にしか見えなかったのは私だけでしょうか?
    「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」という今回のコピー。ジョバンニとカムパネルラにおいて、このテーマが伝わってきませんでしたが、黒谷さんは、このテーマで「人形と人形遣いが2人で1人」ということも表したかったようです。ただし、それも成功したようには見えませんでした。人形の演技を主にして、人間は生きた背景のように使う方法もあったかに思われますが、それでは黒谷さんは不満で、あくまで人間と人形を等分に扱いたい
    というお考えのようです。
    その場合、人間が今回のようにたくさん動き回るのであれば、もう少し人形のサイズを大きくしないと難しいのではと思います。
  • 満足度★★

    人形が必要?
    身体表現が人形劇を超えてしまって、見ながら「これって人形いらないじゃん。」と、思ってしまいました。人形に命が入っていないtという「アキラ」さんの意見に同感です。人形は生きてませんでした。

  • 満足度★★

    ジョバンニとカンパネルラの人形たちに、命は与えられていたのか
    音楽が素晴らしく、美術もなかなかよかった。
    そして、フライヤーにあるジョバンニとカンパネルラの人形も魅力的な顔つきであったと思う。
    しかし、彼らには、この舞台で命が与えられていたのだろうか?

    ネタバレBOX

    かなり期待していたが、銀河鉄道の夜ではなかったように思えた。
    確かに、銀河鉄道の夜をモチーフにして、その物語の中の印象的なエピソードの断片やモノが扱われていたのだが、あえて物語を解体し、物語性を排して上演していた。

    もちろん、もともと未完であり、いくつもの稿が存在する原作なので、それをさらに解体するという、そういう方法もアリだと思うのだが、銀河鉄道の夜として何かが欠けていたように思った。
    つまり、そこにはカタチはあるのだか、テーマとなるような軸がないように見えてしまったということなのだ。
    たぶん、昼の回の観客の中には「銀河鉄道の夜」のお話自体を知らない子どもたちも多くいるだろうし。

    銀河鉄道の夜として足りないと、私が特に感じたのは、ジョバンニとカンパネルラの関係が見えてこないことだ。
    この物語では、彼ら2人の関係が大切だと思うのだが、舞台の上の彼らは交わることもなく、ただ、いるだけ。

    主人公たちが人形であることで、人間である他の出演者との違いが際立っているのだから、別に特別なことをしなくても、それをきちんと見せるだけでよかったのではないのだろうか。
    彼ら主役たち(人形)の存在を、舞台の上で立ち上がらせてほしかったのだ。
    しかし、この上演での人形は人形でしかなく、いろいろなことが起こっていた舞台の上での存在は、そのサイズと同様にかなり小さくなっていた。

    また、人形演劇と銘打って公演を行っているのだが、その「人形」に命が与えられたように見えたのは、わずか数シーンだけで(活版屋とラストぐらいか?)、あとは、「人」として扱われているようには見えず、「モノ」として、つまり、一個の小道具として扱われていたように感じてしまったのが、非常に哀しかった。

    冒頭のリンゴから人が現れるシーンのように、イメージの膨らみと造形の豊かさは見事だと思ったが、それらが有機的に結びついた印象はなかった。今回は、あえてもととなる「銀河鉄道の夜」の物語性を排したようだが、その物語だけでも背骨にあれば、印象は異なったと思う。

    また、ダンスなどの身体的な動きが舞台の基本にあるのだが、身体のノビのようなものが感じられず、魅力的には見えなかった(特に最初のほうのシーン)。あくまでも素人の見方ではあるが、重心や腰の据わり方がしっかりとしてないように感じた。

    数少なく台詞はあるが、それは物語を進行させる道具としてではなく、「音」やストレートに「コトバ」として存在していた。
    基本は無言劇と言っていいだろう。

    それだけに、演じる俳優の動きは大切であり、慎重に演じられなくてはならなかったと思うし、同様に主人公の人形たちにも、慎重に演じてもらわなくてはならななかったと思うのだ。

    いずれにしても、音楽や美術、そして、2体の人形は素晴らしいものであり、また、期待が大きかっただけにそれが活きてこなかったのが残念でならない。

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