怒りを込めてふりかえれ 公演情報 怒りを込めてふりかえれ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
1-2件 / 2件中
  • 満足度★★★

    キャラクターの立ち上がりが薄い
    イギリスの劇作家ジョン・オズボーンの戯曲。確か・・・映画にもなったんじゃないだろうか・・。

    以下はネタばれBOXにて。。


    ネタバレBOX

    男女の三角関係を綴った物語。

    主人公のジミー・ポーターは三流大学を出て田舎(いなか)町で屋台の菓子屋をやりながら、現在の自分の状況を憂いでいた。労働階級のジミーと親の反対を押し切って結婚した上流階級出身のアリソン。育ちの違う夫婦の夫側というものは、それでなくとも劣等感を抱くものだ。

    「かつてのイギリスは良かった・・。」などと過去の栄光を羨望しまた非難し、拠るべき、また倒すべき大義のない現代を呪いながらも、その行き場のないはけ口の為にアリソンを言葉で罵り憎み、時に愛す。そして同時に自分をも愛しまた憎み、さまざまな矛盾に苦悩する。ジミーの饒舌もアリソンに対する冒涜も、当時の鬱積した社会的感情を自分の中で消化できなかった故であった。

    そんな危うい夫婦と同居していたクリフはジミーも愛し、その妻のアリソンにも深い愛情を示し、夫婦にとってクッションの役割を果たしていたが、アリソンの友人・ヘレナの登場で事態は一変する。ジミーの暴言に悩んでいたアリソンは実家に帰ってしまい、その留守中にヘレナはジミーと関係を持ってしまう。ヘレナにとってジミーはまったく新しい戦後世代のタイプとして型破りで新鮮な魅力をもっていたのである。そしてクリフも「自分の居場所がない」といって出て行ってしまう。

    少ししてジミーの元に戻ってきたアリソンは夫婦として元の鞘に収まり、今度はヘレナが出て行くのだが、この3人の三角関係の心の機微の表現の仕方が甘いと感じた。この大作の何処に焦点を当てるかが一番の見せ場なのだけれど三角関係の織り交ぜが足りないような気がする。「私はほんのちょっと心の安らぎが欲しいの。」というアリソンと「俺はこんなに苦しんでいるのに・・。」と言うジミーのバトルにも希薄さを感じて、どうにも落ち着かない。キャストのセリフがまっすぐ耳に流れるように入って来ないのだ。だけれど、物語は良く解る。

    「みんな生きてるだけで苦しくて仕方がないから・・。」というセリフは当時のジミーとアリソンの関係をも物語る。
  • 満足度★★★★

    あえて★4つ!
    ピーチャム・カンパニーの前身に当たる劇団サーカス劇場、地上3mm時代を通じても、私が★4つを進呈するのは初めてのこと。劇団メンバーが大学生だったころから長年見続けてきた自分にとっても画期的なことだ。前回の公演を観劇したという人のブログに「屈葬状態」という表現があって爆笑してしまったが、今回はその客席の状態も格段にゆったりと改善されていた。狭小空間を感じさせない舞台美術のセンスも悪くない。ポップな背景に意図的に入れたわずかな裂け目が印象的だった。今回の劇の私の評価は限りなく★5つに近い★4つ(その理由はネタばれで)。ピーチャム・クラシックスのシリーズを2本観て、清末浩平・川口典成コンビはオリジナルより古典、それも翻訳ものの脚色のほうが向いているのでは、という感想をもった。東大在学中のサーカス劇場公演でもアングラ色の強いオリジナル作品よりも好評だったのは翻訳物の「カリギュラ」だったのだから。そこに真面目でオーソドックスな川口演出がうまくはまっている。清末氏は昨年の赤澤ムック脚色・演出の公演「赤と黒」でも脚本化する前段階の作業をサポートした。オリジナル路線で行くにしても、このクラシックスのシリーズはときどきやってほしいと思う。

    ネタバレBOX

    妻の両親の猛反対を押し切り、結婚したものの、出身階級の違いから、何かにつけて妻のアリソンをなじるジミー。そのアリソンにやさしく接する同居人 クリフ。この奇妙で危ういバランスのもと成り立っていた3人の関係に割って入ってきたアリソンの友人ヘレナにより、事態は一変する。ヘレナはジミーの横暴を非難し、アリソンは妊娠をジミーに告げられないまま、別れて実家に戻る決意をする。しかし、厳粛なクリスチャンでジミーに批判的だったはずのヘレナは意外にもジミーと関係を結び、同居し始める。ヘレナは、教会にも行かなくなり、男たちの取っ組み合いが始まると慣れたようにアイロンもさっと避ける適応能力のある女性。アリソンのように避けきれずアイロンでやけどするようなヘマはしない。そのせいか、クリフは居場所がなくなり、家を出て行くことを決意する。そこへアリソンが戻ってきて、ヘレナも出て行く。赤ん坊を失ったアリソン(中絶したのか流産したのか、台詞だけでは判別できなかったが)はやっとジミーの気持ちが理解できるようになったと言い、2人は元の鞘に納まる。ジミーは今日で言えば、言葉のDV男だ。アリソンのようにお嬢さま育ちで鈍さがあるか、ヘレナのように賢く適応能力にたけているかでないと、とてもこんな男とは暮らして行けないと思う。この劇の成功は何といってもジミー役の神保良介とクリフ役の八重柏泰士の熱演によるところが大きいと思う。2人とも、サーカス劇場や唐ゼミ☆の芝居に出ているときよりもずっと魅力的だし、実力を発揮できていた。こんなに素晴らしい俳優だったのかと、目を見張る思いだ。八重柏は前回の老け役もよかったが、今回も良い。日本人俳優にとって欧米の翻訳劇の人物を演じるのは、まず、西洋人という壁があり、動きなどなかなか原作の人物になりきれないものだ。キャリアも手腕も申し分ない俳優がやってこそ、何とか観ていられるというケースがほとんど。今回の若い2人は難役であるにもかかわらず、しっかりと役を自分のものにしている、物語の人物になりきれている、自然にその国の、その世界の人になりえたというだけでも、大手柄だと思った。
    アリソンの父、堂下勝気は悪くはないが、この人、どの役のときもまったくしゃべりかたが同じで変わり栄えがしないのが気になる。
    男優陣とのギャップが大きかったのが女優陣。神保、八重柏に伍した女優がそろえられたら、さらに素晴らしい舞台になったと思うだけに残念だ。アリソンのとみやまあゆみは、学生演劇ならどうにか及第点といったところでミスキャスト。この役は荷が重すぎる気がした。演技が硬く幼く、一本調子。どう見てもおどおどした東洋人女性で、この役として魅力が感じられなかった。
    今回の公演は、HPの情報では他の2作と違ってワークショップオーディションの募集がなく、最初から出演者が決まっていたようなので、よけいに疑問を感じた。この役は大竹しのぶや寺島しのぶのように、“かなり女優としての血が濃いタイプ”の女優に向いた役だと思うからである。
    ヘレナの赤荻純瞬も家に入り込んだ直後の演技はよかったと思うが、ジミーと関係を結んで同棲を始めてからの変化があいまいで、彼女の表情を見ていると、この役の性根がわからなくなってしまうときがあった。ヘレナも舞台女優という設定なのだから、もう少し華やかさがほしかった。衣裳も、男性のほうはあれでよいと思うが、女性の衣裳は色調に違和感があった。アリソンが前半、赤いシャツ(ブカブカなのはヘレナのときと同様、男物という設定なのか?)にオレンジのスカートという同系色でも難しい色の組み合わせがどうにも野暮ったい。しかもそのシャツのまま、スカートだけはき替えて教会に行こうとする。絵面上、もう少し考えてほしかった。舞台上の着替えの動きも、もたついていて美しくない。ヘレナも教会に出かける前の朝食で、スーツの上着を着ているが、食後に「階下でしたくをしてくるわ」と言う台詞があるから、食事の間はブラウス姿でもよかったのではないだろうか。濡れた野菜を触るのにスーツのまま、サラダの準備をするのが違和感があった。ヘレナを見ていると、寝るときもあの上着を着て寝るのでは、と思えてしまうほど色気がなく、役の上でも舞台女優らしく見えない。これは女優だけの責任ではなく、演出の問題もあると思う。学生時代も含め、男性中心の芝居が多かった川口氏は演出上、女優の扱い方があまり慣れていないのでは。前作の「アルトゥロ・ウイ」のときも同様のことを感じた。
    折り合いをつけて生きながらもぶすぶすと燃えている社会や自分への怒りと焦燥感は、現代人にもある。実は観劇した日の帰途、電車内でまるでジミーのような男性に遭遇した。ジミーと違い、若者ではなく、2日後に52歳になるというこの男は、話しかけた若い女性乗客が自分を警戒し、無視する態度をとったと怒り、長時間、初対面の女性を英語交じりでののしり続け、「君はちっとも魅力なんかない。君のために言ってやってるのになぜ眠ったふりをする。俺の国、アメリカではこんなことはない。もっと、みんなフランクにいろんな話をするよ。俺は少しばかりテンションが高いだけなのに、日本人はだれも俺の相手をしてくれない。いまの日本に魅力を感じない、日本は嫌いだ(日本人のようだったが)」とひとり、大声で怒鳴りまくっていた。彼はたぶん、社会にも自分にも怒りを抱えて孤独に生きているのだろう。この芝居はまさに今日的なテーマを描いていると思った。




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