『砂の女』 公演情報 「『砂の女』」の観てきた!クチコミ一覧

★ 満足度の平均 ★ ★ ★ ★ ★ 4.2
1-7件 / 7件中
  • 映像鑑賞

    満足度★★★★★

    配信うれしや。当然、うずめ劇場と比べている。うずめ版は狭いせんがわ劇場仕様、こちらはケラにしては狭いつってもトラム、十分広い。だが両者の共通点の多さに最初は驚く(どっちか参考にしたのでは?と思った程)。まずあばら家、四角の台上にひと間あり、奥にスダレ、その裏が台所(うずめ版は狭い廊下程度、ケラ版はひと間と同じ広さがあり180度回転して裏側にある)、下手端に小さな土間。他の演出では、土を搬出するロープが中央から下りる、昼間戸外に出た瞬間に鳴り出す音(強い日差しが頭を殴るような金属=鐘に近い音)、砂かきをボイコットした結果受ける攻撃?(あばら家が砂によって受ける衝撃音)のガーン!という音。そして人物形象は原作イメージが確固とあるとは言え、自分で意図せずとも重なり合って来る感覚があった。
    他にも男女の他の4名の俳優に男女以外の役をコロス的に配し、うずめ版では舞台のあちこちからゲリラ的に登場、ケラ版では付加された場面(他役者による)がゲリラ的に登場、など。素人の目が見るニワハンミョウとカミキリムシの違い程度の差だ。

    ケラによる独自演出は、男女(仲村トオル、緒川たまき)以外の役者(オクイシュージ、武谷公雄、吉増裕士、廣川三憲)が、例えば傀儡を操り、あるいは男の妻のいる東京の家の近所の交番で巡査や交番を訪れる人を演じ、時に男の前に突如現れて男を東京(回想)の場面に引きずり込むなど、書き加えられた部分。
    あばらやの周囲には暗い色彩のシートが垂れ、砂の壁を表す。最初の夜、女が家の周りの砂をスコップで掬う「チャッ・・サッ・・チャッ・・サッ。」と動作に合わせてSEが鳴るのが時計の秒針の如くで、延々と続く時間を表して効果的。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2021/08/24 (火)

    わぁ怖い。恐ろしい。いつの時代にもあるであろう閉塞感。舞台全体がいや、客席までも砂まみれな体感を感じてしまった。あぁ、ねっとりだわ。

  • 実演鑑賞

    #砂の女
    #ケムリ研究室no.2
    いち早く演劇にプロジェクションマッピングを取り入れた演出家のケラ氏。その技術進化もさることながら、使い方に驚きため息が出る。砂が崩れ落ちる様には感心する。言わずもがな #緒川たまき さんの美しさに見惚れた。メインの二人ももちろんだけれど、周りを囲むキャストの素晴らしさに唸る。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    現代の古典とも言える原作だが、「古典とは有名だがあまり読まれないもの」と言われるように、私は未読(すいません)。勅使河原宏の映画化も見たことない。その目で見て、大変新鮮で、時代を超えた舞台だった。「砂の女」とは実存的(抽象的)で閉鎖的な話と思っていたが、違った。非常に合理的で社会的な話であった。

    蟻地獄のような砂の底に、男を閉じ込めるのは、女ではなく、村=部落の男衆。女は同居人。この設定がまず目からウロコであった。しかも、穴の底で男と女が掻き出す砂を、運び出すモッコが上から降りてくるし、水や配給品も上から届けられる。
    一緒に見た友人は「非条理じゃないね」といっていたが、そのとおり。非常に合理的な話である(そんな砂に埋れそうな土地になんで住み続けるのか、ということを除けば。実は人は生まれついた土地を、簡単には動かないものなのである。そのこともおしえられる)

    友人は「人間の醜い面をクローズアップして、さんざん見せつける。自分本位や、みだらな欲望や。。人間の美しいところがどこにもない。ジェンダー的にも問題。エグい芝居だ。演出は素晴らしいが、好きな芝居ではない」と。これは好き嫌いの問題なので、それだけの嫌悪感を起こさせたのは芝居の訴求力の高さを示している。
    (途中、穴の上の村人たちが、二人に交わっているところを見せたら、縄梯子をおろしてやる、と本気で言い出すのは確かにエグい。緒川たまきは、裸で寝ているシーンや、半裸の後ろ姿など、かなり際どいシーンもあった)

    男(仲村トオル)がなんとか逃げ出そうと策を繰り出す。女を縛り付けたり、あきらめたふりをして手製のロープを作って実際に逃げ出すしたり(途中で捕まる)。「ミザリー」よりずっと社会的に広い話。江戸(東京)から来た男が、いなかでちやほやされて、村人たちの罠に落ちるというのは、井上ひさし「雨」ににている。まあ、影響関係はないだろうが。

    男は、女に「生きるために砂をかくのか、砂をかくために生きるのか、わからないような暮らしが、人間的と言えるか。」「豚と同じだ」と責める。まっとうで合理的だが、労働者・農民をバカにした、上から目線のセリフではないか。多分、そんなふうに考える私が、庶民の味方ヅラをしているだけなのだろうが。
    なぜこんなところ出ていかないと聞かれて、女は「ここは私のうちだもの!」と叫ぶ。その気持はわかる気がした。福島の原発事故で故郷を追われた人も、同じ気持ちだろう。

    グレーの幕で舞台の上から下まで覆い、中央にあばら家がポツン。人形も使って、男の空虚さを示す。シンプルな砂の映像が、砂の谷を作る。あばら家がくるくる書いて飲して変化をつける。すだれに映る影絵と、出てくる人物のズレ(彼の女かと思うと男の同僚だったり)もうまい。警察や、男の中学の同僚たちの日常的なボケも、砂の中の生活と対比的効果で良かった。4人の黒子=村人や警官のステージングもスムーズ。そして音楽がすごい。私は知らない人だが、上野洋子が舞台の情報にずっといて、シンセ、打楽器、アコーディオンなどをつかいわけ、「ヒョー」「ワオー」といった声で、効果音的音楽をつける。面白かった。

    ネタバレBOX

    さいごは、女に「寝るたびに、起きたらまた一人きりじゃないかと思うと怖いの」といわれ、また女が妊娠し、その中毒症か何かの病気で、男は穴の底にとどまることを選ぶ。これは「情が移った」というべき通俗的結末で、はないか。これでいいのか。

    ただ、こうも考えられる。外の自由な生活と言っても、すでに妻との関係は冷えていた。それよりも、穴の底の「愛」のある生活のほうが「幸せ」なのかもしれない。自由という孤独より、不自由の安心のほうがいい…。そうして人々はファシズムを選んだ、そういう側面はあるとしても、抽象的自由より、家族、隣近所との親しい関係のほうが人々の幸福度は上がるというのは、様々な調査でも明らかな人間の本性である。

    あるいはただ単純に疲れただけかも。よくあることだ。年とともに「理想離れ」して現状を受け入れていく
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2021/09/03 (金) 18:00

    濃密な時間を過ごすことができた。
     安部公房1962年の小説で、64年には映画化された作品を、ケラの上演台本・演出で初めて舞台化する。砂に埋もれつつある家に住む女と、そこに一夜を借りて閉じ込められる男の物語だが、映画では岸田今日子が演じた女を緒川たまき、岡田英次が演じた男を仲村トオルが演じる。ありえない設定だが妙にリアルに表現される展開は見事で、ケラ得意のプロジェクションマッピングや照明、上野洋子による生演奏での音楽や音響が特に効果的である。アンサンブルの4人もしっかりした演者陣で巧みだが、何と言っても、事実上の2人芝居で2時間半以上を演じる緒川・仲村の2人には脱帽。80分(休憩15分)75分。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2021/08/28 (土)

    観てきました。 現実的じゃない設定で、気軽に楽しめるタイプの芝居ではない。プロジェクションマッピングなどの演出は、さすがケラさん。とにかく仲村トオルさんが良い☆

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    かって親しんだ世界をいま、目前に見て、それに勝る興奮を感じられるか、そこが、古典を再演する肝だろう。「砂の女」(1962)は日本の戦後文学の里程標となった作品、作者自身の脚本による映画(1964・勅使河原宏監督)もまた、世界的な評価を得た。その後、芝居にもなったようだが、草月ホールで見たような、見なかったような。それから六十年。
    今回はケラリーノサンドロヴィッチによる舞台化である。
    『鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。』というのは安部公房自身の言葉だ。このシンプルな構造の中で、作者は戦後日本の課題を二人の男女に託して描いたわけだが、それを世紀を超えた今、舞台で見るとどうか。
    コロナ禍で、全国に「非常事態」が拡がろうかという酷暑のなかのでトラムの公演は、観客の肌にも砂がこびりついてくるような迫力のある舞台だった。古典を今に生かしたケラの力量は大したものだ。それは、丁寧に追われる原作のストーリーの功績よりも、脚本・演出家の舞台あらではの工夫がこの成功につながっている。この欄で言えば、筋は原作で周知なのだから、いまさら「ネタばれ」でもあるまい。舞台に積み上げられたその細かい演劇ならではのネタが見事な舞台だった。
    観客は老若男女取り混ぜた芝居好きで満席だった。舞台の上も下も芝居好きが集まった一夜の愉しみがここにあった。コロナの憂さも晴れようというものである。..少し長くて十五分の休憩をはさんで二時間五十分。..










    ネタバレBOX

    そのネタバレから行けば、まず、場面設定。昭和二年生まれの男が昭和三十年に僻村で砂の穴に落ちる。
    舞台は砂に囲まれた崩れ落ちそうな家の一杯セット。周囲が砂の高い壁に囲まれていて、村人たちはその上から縄梯子をかけて上り下りする。褐色で統一された家には、無色のマッピングで時に砂が滑り落ちる。原作の時代設定は変えていないのに観客を異質の世界に運んでいく。加藤ちかの美術とマッピングの使い方がリアルで実にうまい。
    男は仲村トオル、女は緒川たまき。映画の岡田英治、岸田今日子で刷り込まれている二人の役柄だが、全く違う。映画では、眉をひそめて登場する複雑な感じの不機嫌な二人だが、こちらは肉感的で即物的。この配役で、作品が現代につながった。
    例えば二幕の幕開けの場面。雨が降ってきたと妄想するシーンの繰り返し。ソラメントウナベスの曲(昭和三十年代にはもっともはやったラテン音楽だった)で二人が躍るシーン。このあたりは原作にないが、ケラが演出した優れたシーンだ、それに続く上野洋子の音楽。
    上野洋子の不思議な演奏もこの劇世界に大きく貢献している。ここで、作品の持つ抽象性が担保された。今までのケラ作品(例えばカフカ連作)とは別の世界を作り出した。
    ラジオの効果的な使い方。原作の時代にはまだテレビが普及していない。メディアと生活を巧みに取り入れて、外の生活と仲の生活をドラマにしている。
    こういう、演劇で遭遇するさまざまの問題を、現代に通じるように細かく処理しているところが今回の上演の「ネタ」だろう。ここまでくれば、原作の終末は全部ではなくとも少しは変えて見たくなったのではないだろうか。原作通りで幕は下りるが、ここは、ケラによる新しい結末も見て見たかったような気がする。芝居を見てきて、この結末はなぁ、とも感じたのである。


このページのQRコードです。

拡大