私はだれでしょう 公演情報 「私はだれでしょう」の観てきた!クチコミ一覧

★ 満足度の平均 ★ ★ ★ ★ ★ 4.1
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  • 割引チケットで観劇。だが私事で終盤のクライマックス前(残り30分程)に退席。それでも「いい芝居を観た」という思いで・・ある意味満足感に浸って会場を後にした。であるので「最後まで観てない」事実も既に忘却、書き始めて思い出した。ネットで拾えるレビューを見ると終幕までにもう一捻りありそうだが(井上ひさしは大衆演劇も書ける文人に違いないが「よっ待ってました」的歓呼を取りに行かない印象)。
    作曲宇野誠一郎(故人)、音楽監督後藤浩明とある。風琴工房末期の名作ミュージカル(小劇場版)の音楽が後藤氏で物語の流れに添って琴線に訴える曲を作る。今作では元歌が別にある歌が多く(台本に指定か不明)、宇野氏の編曲と思われるがアレンジとブリッジは現代的で、音楽に乗って物語を旅する芝居である。(聴けなかった終局で河北京子が唱う歌の原曲が「私はだれのものなの(日本語訳)」と言うマレーネ・デートリヒが歌ったらしいのだが見つからず。。)
    相変わらず観劇後チェックする役者の方は、新国立研修所修了公演で、主役の下女をコミカルに演じた八幡みゆきが「歌える女優」であると発見し、今後楽しみ。「日の浦姫物語」でも主役同士で競演した浅海ひかると平埜生成が全く違う印象で輪郭くっきりな演技が心地よい。枝元萌をこまつ座で見るのも面白かった。
    ...「全部見てない」のでまァほぼ参考にならぬレビューだが。

  • 満足度★★★★

    平埜生成(ひらのきなり)氏がとにかく凄い。
    この役を完全に自分のものにしている。 他の人には再現の出来ない産物。顔芸、ダンス、タップと平埜氏の大暴れを熟練の超一流役者陣がガッチリ脇を固め、受け止め切っての後押し。ピアノの朴勝哲氏との息もピッタリ。初演の川平慈英氏バージョンも観てみたかった。(当て書きらしい)。
    朝海ひかるさんが長身で吉田栄作氏との並びが綺麗。吉田氏はかつての井上順氏や布施明氏を彷彿とさせる味のある良い役者になっていた。シリアスな役柄の朝海さんが愉快に陽気に踊り出すと場の空気が一転してパッと明るく。
    朝海・平埜コンビの『日野浦姫物語』をまた観たくなった。

    戦後まもなくNHKラジオで尋ね人の放送を開始。そこに記憶喪失のサイパンからの帰還兵が訪れる。「私はだれでしょう」。

    ネタバレBOX

    話はいつもの通りの纏まりがない感じ。いろんな要素を無理矢理こじつけているような。けれどそれが退屈でも不快でもないのが素晴らしい。ジブリ的に登場人物に嫌な奴が一人もいない為、微笑ましく観ていられるからか。GHQとの戦いや平埜氏の正体などには余り興味が湧かない。ラスト近くの台詞、『私は誰であるべきなんでしょう?』が胸に来る。
    敗戦直後、不幸の共有者としての連帯感。八幡みゆきさん演じる女性分室員が象徴する純粋なる善意が、其処ら此処等に満ち溢れている。どうしようもない不条理に立ち向かう弱者の最後の武器は、無心の善意だけなのか。
  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2020/10/14 (水) 18:30

    井上ひさしによる戦後史の復習的作品。いろいろな制約や圧力のある中での放送人の頑張りという重いテーマをユーモアを交えて描いた傑作。劇中の歌も良かった。

  • 満足度★★★★

    鑑賞日2020/10/12 (月) 13:00

    座席1階

    終戦直後のNHKで、戦争の混乱などで行方がわからなくなった人を探すラジオ番組「尋ね人」の制作を舞台にした物語。戦争中は軍部が厳しい検閲をしたが、戦後はGHQが同様に厳しい検閲を強いた。占領政策を批判するようなものはご法度。当然、広島や長崎の原爆に触れるものも駄目だった。
    舞台はピアノ演奏と共に進行する。ミュージカル仕立てでもある。長身の朝海ひかるが、ビシッと筋を通して検閲に楯を突く。枝元萌は軽快な動きで舞台を駆け回る。休憩を挟んで3時間を超えるが、長い会話劇も引き締まった空気で進んでいく。
    日本学術会議のメンバー不承認など、事前検閲のようなことは今も行われている。こまつ座がこの演目を今、再演したのは非常にタイムリーなことだ。検閲は今でも行われている。そして、それに盾つこうという人たちはいる。こうしたことを考えさせられる舞台だった。

  • 満足度★★★★

    数年前にみて2回目。
    今回気づいたのですが、あのことを放送禁止にしてたということは米もやべえ事したっていう自覚があったということですね。

  • 満足度★★★★

    こまつ座のこの種の舞台はそれほど好きではないのだけれど、父が戦争に行っていたせいかついつい観てしまう。今回は記憶喪失した復員兵が話の一方の主役で父と同じような任務に就いていたことから昔聞いた話を懐かしく思い出した。幸い父は記憶喪失にもならず実家も空襲に遭わなかったので日本に着いてからはすんなりと帰郷できたのだった。

    当時の基本的な用語や社会情勢がふんだんに盛り込まれている。軍の幹部が戦後のどさくさに軍需物資をわがものにする話が出てくるが、戦時中でも物資を不正に蓄え妾をかこっていた奴がいたというのは母がいつも憤っていたことだ。こういう話は井上ひさしの世代のリアルだったのだが私の世代ですでに伝聞であり若い世代には別の宇宙の話で理解は困難だろう。

    ストーリーは二つの主題が交錯し、大小さまざまな伏線が張られ、歌あり、踊りあり、タップダンスまであり、とサービス精神旺盛である。私も面白かったで終わらせておけば良いものを、GHQに逆らうなんてそんな勇気のある人々がいたんだと調べ始めるととたんに困ったことになった。フランク馬場は実在するものの川北京子は見つからない。そしてフランク馬場が軍法会議にかけられた形跡はなく、それどころかそれ以降も日米で大活躍するのである。まあこの舞台は事実と空想を作者の頭の中で混ぜ合わせて熟成させたものなのだろう。

    イベントの開催制限緩和が漸く実行されてこの舞台も1席飛ばしではなくなった。贅沢な時代の終わりは、関係者には怒られそうだけど、ちょっと残念。

    ネタバレBOX

    ジャガイモでサインを写し取って書類を通すなんてあるわけないだろうと言われるとその通りではある。
  • 満足度★★★★★

    いろいろなことを考えさせられた。まず、初演も再演も見ているのに、3度目の今回見て、大事なことを全く覚えていないことに愕然とした。同じことは井上ひさしの「ムサシ」の再々演でもあったが、今回はあまりにひどい。実はそこにこの戯曲の深さと難しさがあると思ったので、書き留めておきたい。以下、戯曲分析が中心になります。

    初演は川平慈英の記憶喪失の元軍人役が見事だった。様々なキャラクター、見事なタップダンスを演じ分けて、それが最も印象が強かった。それと絡んで、戦後のGHQの検閲下に置かれたNHKラジオの「尋ね人」のスタッフの話で、その責任者がGHQの意向に逆らって最後は連れて行かれる。覚えていたのはそれだけだった。

    今回見て、主人公の河北京子の弟が特攻任務に抗命の罪で自殺した「赤縄」の話、CIEのフランク馬場の二重国籍と日本の孤児院支援の話、そして「尋ね人」でGHQから問題にされるのが、原爆の広島・長崎からの投書を読んだことであることを、全く忘れていた。これはこの戯曲の三つの肝とも言うべきテーマなのにである。(例えば「きらめく星座」で言えば、「大日本帝国の大義、ありや、なしや」を忘れてしまうようなものだ)

    ここで考えてみると、実はこの戯曲は大きく二つのプロットがある。メインが「尋ね人」の室長のたたかい。サブが、記憶喪失の山田太郎の話である。初演で川平慈英が演じた。この二つの話は実は互いに独立している。ところが、サブの山田太郎の話の細部が面白いために、私の記憶の中で、メインの細部が霞んでしまったのだと思われる。

    最後に、権力に対して弱者は「負けて負けて負けて負け続けて、積み上がって勝ちになるまで」戦い続けるのだという歌がある。この作品の最大のメッセージが込められた歌だ。これも全然忘れていた。「負けて負けて負け続けて」ということが、10年前、3年前に見たときよりも、胸にこたえる心境の変化だろうか。それだけでなく、山田太郎の「私はだれでしょう」のサブプロットが、「尋ね人」のメインプロットを食ったせいもあると思う。
    そもそも「私はだれでしょう」のタイトル自体がサブプロットのもので、メインプロットがタイトルになっていないことに、作品構造のずれがある。公演の宣伝のために、タイトルは、戯曲を書くよりも前に決める。推測だが、最初は記憶喪失の男の話がメインに絡む予定だったのが、戯曲を書いているうちに、ずれたのではないだろうか。(あくまで勝手な推測です。井上ひさしさんすいません)
    メインプロットに、折々の闖入的にサブが絡む構図は、「きらめく星座」の脱走兵の息子、「頭痛肩こり樋口一葉」の花蛍、「人間合格」の活動家の友、「太鼓たたいて笛吹いて」の行商の弟子など、井上ひさしのお得意のものである。しかし、いずれもタイトルはきちんとメインプロットから取られている。また、サブとメインが有機的に絡んでいる点も、ずれが目立つ「私はだれでしょう」とは違う。

    この作品は井上ひさしの最後から5番目の作品。戦争を描いたのは、この後では朗読劇「1945年口伝隊」があるだけである。それだけに、集大成的要素がある。原爆は「父と暮せば」、やくざの若親分の話は「雨」、記憶喪失の話は「闇に咲く花」からの借用でもある。日系米人の将校はアメリカの日系人収容所を描いた「マンザナ、我が町」に通じる。実際、実在のフランク馬場の両親は収容所に入れられ、本人も入れられる危険があった。最後に「ラジオの魔法」は、井上ひさしの言い続けた「劇場の奇蹟」に通じる。人生に文化芸術(演劇、ラジオ)はどういう意味があるのかという芸術論である。

    そして晩年めざした音楽劇という形式。「誰かの鉄砲玉になるのはもう嫌だ。これからは、私は誰になるべきでしょうを考えていきます」というセリフは、東京裁判三部作のエッセンスと言ってもいい。
    とにかく集大成なだけに情報量が多い。(初演は休憩15分入れて3時間20分の長さだった。再演からは休憩込み3時間に少し縮めている)そして一つ一つは割と無造作に置かれていて、見逃しやすい。再演、再再演に価値があるし、何度も見て、新たな発見があるゆえんだと思う。

  • 満足度★★★

    歌がよいアクセントになっていた。セリフ量が半端ないからだろうか。ちょっと皆さん早口だったのが気になった。早口で聞き取りにくくて、理解が追いつかないところが多少あったのが残念。ジワリと胸にくる。

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